奈良 済美地区社会福祉協議会
第478回

8月せいび歩こう会

暦の上ではもう立秋、でも日中はまだまだ暑中、怠けないで歩きましょう。月遅れ盆の迎え火の時期、京都六条から五条坂の西大谷本廟に拝し、鳥辺野を散策し、清水寺に詣で音羽の滝で身を浄め錦雲渓に下るとそこは新高雄との名のある景勝地。楓樹一万株の今は青いもみじのトンネルを潜り清水の坂を下ります。五条坂中程に坐京都庶民の崇敬を集める本食上人再建の安祥院を訪ね日限地蔵のお膝に拝し帰路につきます。

日 時

8月19日(日) 近鉄奈良駅地下東改札口前 午前7時50分集合

コース

奈良@8:18京都行急行=(近鉄)=京都=(バス)=清水道…(歩く)…六道珍皇寺…幽霊飴屋…六道の辻(西福寺)…六波羅蜜寺…若宮八幡宮…西大谷本廟…鳥辺野墓地(親鸞聖人・日親聖人荼毘所・肉弾三勇士墓・半九郎お染の比翼塚・伝兵衛の心中墓他江戸・明治の著名人の墓碑が散在する)…妙見堂(秋山自雲霊神祠しゅうざんじうんれいしんほこら有)…清水寺…安祥院…五条坂=(バス)=京都駅=(近鉄)=奈良

歩行距離

3km

費用

合計1,960円
 交通費 1,660円
 往路 奈良〜(近鉄610円)〜京都〜(バス220円)〜清水道
 復路 五条坂〜(バス220円)〜京都駅〜(近鉄610円)〜奈良
 清水寺拝観料 300円

食事

弁当・水筒・敷物ご持参下さい。雨天の時は付近の食堂ご利用ください。



六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)

弘法大師幼少の頃住した、参議小野篁(おのたかむら)の開創又東山に住んでいた鳥部一族の建立とも他にも諸説有。奈良時代の瓦が出土、現在建仁寺の塔頭、迎え鐘で有名、音響は冥途に届くという。篁堂に小野篁の像と閻魔大王・善童子・獄卒鬼の像安置。

幽霊飴

毎夜三文の飴を買いに来る女がいた。翌日その飴代の金子が木の葉に変わる。主は不審に思い或る夜、女の後をつけていくと鳥辺野墓地で姿を消した。翌日住職に話、臨月の妊婦の墓を掘り起こすと母の死体のそばに赤ん坊が飴をしゃぶって生きていた。その子は育てられ名僧となった。(幽霊の子育て飴)
六道の辻 六種の迷界、この世とあの世を結ぶ死者の交通のターミナルに充る。

六波羅蜜寺

西国17番札所、空也上人開創、天歴五年に疫病流行、上人は十一面観音を作り都中を引き廻し祈願、悪病が熄(や)んだ十余年間大般若経六百巻を多くの人の協力を得、後に弟子がこの寺を再興、又地方で霊験あらたかな地蔵像を納めたことから六原の地蔵堂と呼ばれた。
西福寺 慶長8年蓮性上人の創建、関白二條綱平が亡父のため再興、本尊は阿弥陀如来坐像、像高86.6mの来迎像、8月8日の盂蘭盆の精霊迎えには説教が行われる。
若宮八幡宮 祭神・仲哀天皇・神功皇后、相殿に椎根津彦(しいねつひこ)命=陶器の神。900年余昔、後冷泉(ごれいぜい)天皇の勅願により源頼義が下京の自邸に男山八幡を勧請、後秀吉の命で、又応仁の乱により二度の移転で現在の地に祀られるようになった。陶器の狛犬が珍しく狛犬と獅子というのも珍しい、石造りの八角形水船(手洗い鉢)は足利将軍義満の寄進とある。
西大谷廟 宗祖親鸞聖人の遺骨を安置した廟所、円通橋(眼鏡橋)を渡ると唐門・鼓楼書院、本堂鐘楼、納骨所、廟所と続く威容に圧倒される。
鳥辺野墓地 西大谷から清水寺に至る山腹には広大な墓地が広がる。広さ4万平方メートル、実報寺・通妙寺・本寿寺等この鳥辺野に散在し多くの名士、僧の墓碑があり、肉弾三勇士の墓、日蓮上人の荼毘所、日親上人荼毘所、逆修(ぎゃくしゅ)塔、お俊・伝兵衛の墓、お染・半九郎の比翼塚、日尊上人の逆修塔・荼毘所、親鸞聖人の荼毘所、空也上人廟等も散在する。妙見堂には秋山自雲霊神祠(痔の神)を祀る。
清水寺

元奈良興福寺に属する寺で音羽山観音寺と号した。俗称清水寺、坂の上田村麿が妻の病気平癒のお礼に自宅を喜捨し伽藍を造営したのが起り元坂上氏の私寺、後興福寺末寺、現伽藍は徳川家光の再建によるもの、観音霊場第16番札所、本堂は田村麿が長岡京の紫宸殿を賜って再建した。本堂中央に十一面観音、右に毘沙門天、左に将軍地蔵を安置、両側に二十八部衆と風神・雷神計30体の諸像が並ぶ、本尊は秘仏である。奥の院の崖下に音羽の滝、三つの筧から落下する昔は諸病に効くと汲んで持ち帰ったが今はない。下の錦雲渓は万株の楓樹が素晴らしい。北山の高雄に比し「新高雄」と呼ばれる。

安祥院「日限(ひぎり )地蔵」 木食上人によって再建され霊元法皇の勅願所とされた上人は高野山で出家、木食の行を修め念仏行者となり土木工事を行い76才で寂し当寺に葬られた。境内地蔵堂の地蔵尊は世に日限地蔵と称される。境内に勤王の志士梅田雲浜の墓がある。
清水ノ岡 (現在清水三丁目辺有料駐車場付近)平清盛は天皇を悩ます怪獣をからめとり、この岡に埋めた、また源三位頼政の退治した鵺(ぬえ)も同所に葬ったその後天皇の病気のある度に塚に勅使を遣わし病気平癒を祈願せしめたと伝えられる。

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