奈良 済美地区社会福祉協議会
第480回

10月せいび歩こう会

秋も深まりつつあります。奈良春日大社の分霊鎮まるところ京は西院辺り、あちこちを訪ねます。爽やかな季節です。健康とふれあいを楽しみましょう。

日 時

10月14日(日) 午前7時50分 近鉄奈良駅地下東改札口前集合

コース

奈良A8:18発京都行急行=(近鉄)=京都=(バス)=壬生道…(歩く)…梛神社…壬生遊廓(跡)…壬生寺…新選組屯所址(八木家・前川家)…光縁寺…光林寺…四条大宮(駅)…=(京福電鉄)=山ノ内駅…山王神社…角坊別院…念仏寺…児童公園(昼食)…春日神社…(渡御見物)…高山寺=(バス)=京都=(近鉄)=奈良

歩行距離

約3kmです

費用

交通費合計 1,860円
奈良〜(近鉄610円)〜京都〜(バス220円)〜壬生道  四条大宮〜(京福電鉄200円)〜山ノ内駅  西院〜(バス220円)〜京都駅〜(近鉄610円)〜奈良

食事

弁当・飲物ご持参下さい。但雨天の時は西院で食堂ご利用ください。



梛神社

平安時代初め都に悪疫が流行、播磨の疫神・牛頭(ごず)天王を迎え京八坂に祀られる途中この地の梛の木の森に祀られたのが始め、元祇園社と呼ばれ後、神霊を八坂に移す時この地の住民が傘をかざして棒を振り楽を奏し送ったのが祇園祭の傘鉾の始まり。主神素戔嗚尊、他六柱を祀る。脇殿に建甕(たけみかづち)経津主(ふつぬし)春日の神を祀る。この脇殿の神とは実際は隼(はやぶさ)を祀るという。ハヤブサはハヤクサ瘡神(クサカミ)が正しいといわれる。

壬生(みぶ)遊廓跡

昭和の初期頃はあったという。405軒の廓(遊里)とある。廓は、精進潔斎寺参りの帰路精進揚げと断り、色里に遊ぶところから寺の門前に概して多い。
壬生寺 奈良唐招提寺の鑑真和上の開山という。三井寺の快賢が地蔵尊を安置したのが起りという。小三井寺とつけられた。毎年4月一週間に亘る大念仏会その間パントマイムの壬生狂言が演じられる。

新選組屯所址

壬生郷士(みぶごうし)八木家、150年前、芹沢鴨(せりざわかも)・近藤勇等上位十三名の宿舎で壬生は新選組発祥の地、芹沢が近藤勇の一派によって、隊規に反したとの理由の元にこの陣内において暗殺され、他の隊員も幾人も斬殺或いは切腹されている。この家から少し北側の坊城通り綾小路東向角、平屋建、長屋門壬生郷士前川家も組の隊士宿舎で、勝手口を馬四頭が人を乗せたまま駆け込んだという。裏庭では大砲討ちの稽古をしたと伝えられる。屋内各所の柱には刃痕跡があり殺戮痕跡今に残すという。
光縁寺 浄土宗知恩院の末寺。法然上人開基、門前にその昔新選組の馬小屋があって、常に隊士が往来、この寺の紋が副隊長山南敬介の家紋と同じであったことから、又住職が貧富上下の分け隔てなく死人を弔ったことから葬式の出せない困窮者の死体が門前に放置されることが多く、新選組隊士関係者もこの寺によって弔われ埋葬されたので墓地に隊士の墓が多くある。
光林寺 江戸後期の儒学者頼山陽(らいさんよう)の墓がある墓石に「山紫水明墓」とある。この四文字は京の都の代名詞「山紫水明」を捩ったものであろう?
山王(さんのう)神社 比叡山坂本の山王大神を勧請した社、ここ山の内町は往時延暦寺の山門領内であるといわれ比叡山の「山の内」と称され今に町名として残されている。
角坊(すみのぼう)別院 150年余昔親鸞聖人600回大遠忌の時、ここは聖人示寂(じじゃく)の地、かつての本願寺法坊跡として顕彰されるに当たり再び坊舎が建立され嘗(かつて)の草庵の号、角坊別院が再建された。
念仏寺

伝教大師最澄(さいちょう)の母妙徳尼の寺で夫の死後その供養のため比叡山に登ろうと願ったが当時は女人禁制、大師は自作の慈母観音を母に送った。母はその観音像を日夜ここで給侍、母の死後母の菩提を弔うため、ここに寺を建て阿弥陀像を安置した。

春日神社 第53代淳和天皇が約1,200年前奈良の春日の大神4神と若宮を勧請、淳和院の鎮守とした。現在はここ西院の産土神(うぶすながみ)となっている。毎年10月第2土・日が春日祭、日曜日には神輿が渡御、西南約1kmの地に野々宮があり、この神輿渡御御旅所がある。
高山寺 創建、由緒は不明、本尊は子安地蔵尊、賽の河原はこの地という、亡者を幸に導く仏、地蔵尊の座すところ、元は江州の堅田にあったが足利初代将軍尊氏の帰依によりこの地に移されたと伝わる。足利第8代将軍義政の夫人富子は木像に祈って後の第9代将軍義尚(よしひさ)を産んだ。また地蔵の信仰が盛んな頃には賽の河原はこの西院にあったと信じられ、当寺は庶民の信仰を集めた。本堂前の大きな地蔵石仏は洛東黒谷の山麓から移されたと伝わる。痔病平癒祈願の信仰がある。

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