奈良 済美地区社会福祉協議会
第489回

7月せいび歩こう会

半夏の候、初夏の候となりました。剣豪の里、柳生を訪ね、信仰の山、笠置に参ります。ご同行をとお誘いしました。

日 時

7月7日(日)午前8時  JR 奈良駅西側ターミナルに集合

コース

奈良駅西口@番バス乗場 午前8時12分発=(バス・石打行)=近鉄奈良駅北側A番乗場=柳生…(歩く)…正木坂道場・芳徳寺・柳生家墓地 …(正木坂)…陣屋跡…(摩利支天山・碑)…旧家老屋敷…(十兵衛杉・道半ばから上り坂)…笠置山・笠置寺(本坊・椿本護王宮・大師堂・磨崖仏本尊・正月堂・十三重塔)…行場・後醍醐天皇の二の丸跡・行在所跡等有…(上り坂)… JR 笠置駅=(ディーゼル)=加茂(乗換)=(電車)=奈良

歩行距離

4km強 坂道多い

費用

合計 2,000円 (老春手帳お持ちの方は1,150円)

交通費:奈良〜(バス)〜柳生950円・老春手帳持参の方は100円

JR 加茂〜( JR )〜奈良 320円

拝観料:(団体料金)法隆寺180円 家老屋敷280円 笠置寺270円

食事

食堂有ります(雨天の時弁当の場所ありません)



正木坂道場

柳生石舟斎新陰流の道場で元正木坂に有り現建物は登大路町県庁舎と男子師範学校の間に在ったのが戦後県庁舎の移転整備により男子師範は旧奈良連帯跡へその時県武道館は柳生の地に移された。現在の外観は城の外壁を模っている。

芳徳寺 江戸時代初期375年前寛永45年徳川三代将軍家光の時、柳生但馬守宗矩が父石舟斎の供養のため創建、柳生家の菩提寺で友人沢庵禅師の開基。この地は元柳生家の居城の地、この里は大和、山城、伊賀の国境、徳川幕府のため、畿内の大名の動静を窺うに最適の地、天守閣はなかったがこの山は自然の天守閣の役目を果した。

柳生家墓地

芳徳寺の北裏山、松林の中に柳生一族80余基の墓石がある。その中に、笠の型をしているのは十兵衛の墓石。酒樽の台に徳利の塔、盃型をした八代目柳生乏斎(ほうさい)の墓石が特に目立っている。

柳生陣屋跡

柳生宗矩(むねのり)が建てた陣屋(大名の城に代るもの)一万石の地、100年後に全焼、この陣屋に登城する坂道を正木坂といい、道場は元この坂の付近に在りそれで正木坂道場の名がつけられたのでしょう。

旧柳生家老屋敷

小山田主鈴の旧邸で近年作家の山岡壮八が一時所有し「春の坂道」の構想をここで練ったという。
十兵衛杉 樹齢350年の老杉、昭和48年落雷により立ち枯れた。現在柳生のシンボルとなっている。

(参考)

奈良市の上水道は戦後までは木津川の木津から、現在は柳生の布目川(布目ダム)の水を地下に流し奈良に送水されている。
笠置寺 1,300 年の昔、東大寺の実忠和尚、そしてその師、良弁僧正が笠置山の大岩石に仏像を彫りその仏を当寺の本尊とし、山全体を修業の場として栄えた寺で、鎌倉時代784年前、元弘三年後醍醐天皇が足利氏を倒す計画に失敗され、京からこの寺に約一か月、足利軍と戦われ、笠置山は焼かれ、吉野へ逃げる途中、奈良の興福寺の春日神社に逃げかくれ、足利勢に攻められて更に吉野へ落延びられた。室町時代に復旧されたが江戸中頃荒廃、明治の廃仏令により無住寺となり、狐狸の住む寺となった。丈英という僧が明治9年より約20年間復興に努力され今日の姿となった。本坊の後に笠置山を一周する行場があり、山上に後醍醐天皇の行在所跡、一段低い所に二の丸跡、多くの磨崖仏始め大石の数々をくぐり、またぎ本尊の磨崖仏、弥勒仏を始め毘沙門堂、正月堂、十三重塔、又大師堂、鐘楼、護王宮、山門近くに本坊が在る。山内一周800m、又窟や胎内くぐり、蟻の戸わたり、貝吹岩、太鼓石に平等石、千手窟等がある。一周すると足が疲れる。寺から笠置駅までの下り坂は勾配がきつく長い。


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