奈良 済美地区社会福祉協議会
第496回

2月せいび歩こう会

寒さ厳しい折ですが、元気にご参加下さい。

日 時

2月16日(日) 近鉄奈良駅地下東改札口 午前7時50分集合

コース

奈良@ 8 : 18 発・京都行急行=(近鉄)=京都…正行院…市比売神社…文子天満宮…渉成園…東本願寺…藪内家…西本願寺…興正寺…道祖社…京都駅=(近鉄)=奈良

歩行距離

 

費用

交通費 往復1220円 奈良〜(近鉄610円)〜京都 

参観料 500円(渉成園参観者協力寄付金)

食事

ご自由にして下さい



正行院(猿寺)

亀通山と号し、北山の山中に庵をむすび修行の時猿や鹿等を小紙片に書き災害除けとして与えたので猿寺と呼ばれ、猿とは悪事災難が去るという意味から呼ばれた。

 (輪形地蔵)門前の地蔵堂に京都から伏見に通じる竹田街道上に車石が敷かれその石面に二本のくぼみをつくり車の回転を滑らかにした。その車石が後に取り外されて地蔵尊像を彫り、交通安全の守護地蔵とした。

市比売神社

左大臣藤原冬嗣が1,200年余の昔、平安時代始め、九州筑前より宗像(むなかた)三神(美人姉妹神・市杵島姫他)を京の東西両市の守護神として祀られた社。

(天の眞名井・あめのまない)第56代清和天皇より第86代後鳥羽天皇に至る28代の間、皇子降誕の時産湯に使われた井戸(水)がある。

文子(あやこ)天満宮

菅原道真を祀る。昔この地は道真の乳母多田文子(ただあやこ)の宅地で道真の死後「吾を祀れ」との夢告があり、邸内に小祠を建てた。京都には25社有りその内の一つに数えられる。

渉成園(しょうせいえん)

枳殻邸(きこくてい)

東本願寺別邸、周囲に枳殻(からたち)が植えられているのでその名がある。200メートル四方の地、面積53,000u徳川3代将軍家光から賜った地。ここは東本願寺の正面に当るので東殿又は東園と呼ばれ、京都名園の一つに数えられ200余年後またその6年後2回も焼失、現在の建物等は明治に再建された。これは本願寺13代目の上人の隠居所として建てられたものです。

東本願寺

豊臣時代末伏見桃山時代12世の法主教如上人が家康から六条烏丸に四町四方の土地を頂き本願寺より別離創建されたのが始め、現在南北400m東西200m、約26,000坪。南から阿弥陀門・御影堂門・勅使門・玄関門、建物は門に従って南から阿弥陀堂(本堂)・御影堂(大師堂)と続く、大師堂の高さ38m、横幅58m、正面76m。その他書院・能舞台等。親鸞は浄土宗の開祖。

藪内家(茶亭)

千利休の高弟藪内流の家元で千家・上流、藪内流は下流と云う。藪内紹智は西本願寺の茶の師範。

西本願寺

竜谷山浄土宗本願寺派の大本山。正式には本派本願寺という。740年前鎌倉時代半ば、東本願寺より330年前開かれた云わば本願寺の本家、親鸞の末娘覚信尼が亡父の遺骨を奉じて本山の大谷廟を誕生させた。寺域は東西330m、南北290m東本願寺よりやや大きく南から御影堂門その奥向うに御影堂(大師堂とも)そして阿弥陀堂門その奥に阿弥陀仏を安置する阿弥陀堂が、北端に太鼓楼、その奥に国宝・秀吉の京の邸宅であった聚楽第他白・黒書院・能舞台等多くの建物がある。唐門や大玄関門は南隣の興正寺との間の小通を西へ、奥南門内に在る実に豪華絢爛、東本願寺に勝るものである。

興正寺

真宗興正派の本山。670年余昔、室町時代了源という僧が山科に一宇を建て、その後東山に移し仏光寺とし本願寺派の蓮如上人に帰依後、この山科に寺を移し、興正寺とし、本願寺と意見があわなくなって明治9年この地に独立した。ご本尊は阿弥陀仏。

道祖神社

猿田彦と天細女(あめのうずめ)の夫婦神を祀る。道中安全の守護神として古道に祀られる七条堀川通りは竹田街道への重要な道、それで守護神が祀られたのでしょう 。


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