奈良 済美地区社会福祉協議会
第497回

3月せいび歩こう会

寒さ厳しい折ですが、元気にご参加下さい。

日 時

3月16日 (日) 近鉄奈良駅地下東改札口 午前7時50分集合

コース

奈良@ 8 : 18 発・京都行急行=(近鉄・西大寺経由)=京都A 9 : 23 発=( JR 東海道線・野洲行)=石山=@(京阪バス)=石山寺前…(歩く)…石山寺…石山寺前=(京阪バス)=唐橋前…湖田唐橋・龍王神社…建部大社…唐橋前=(京阪電車)=膳所…義仲寺(昼食)…膳所=(京阪電車)=三井寺(駅)…三井寺…三井寺(駅)=(京阪電車)=膳所=( JR )=京都駅=(近鉄)=奈良

歩行距離

 

費用

合計3,660円

交通費 2,560円 奈良〜(近鉄610円)〜京都〜( JR 230円)〜石山〜(バス200円)〜石山寺〜(バス200円)〜唐橋前〜(京阪電車160円)〜膳所〜(京阪電車160円)〜三井寺〜(京阪電車160円)〜膳所〜( JR 230円)〜京都〜(近鉄610円)〜奈良

拝観料 1,100円 いずれも団体割引額 (石山寺400円・義仲寺250円・三井寺450円)

食事

昼食場所ありません (西武ショッピングセンターの食堂をご利用ください)



石山寺

石光山(花の寺)

奈良時代、約1,280年の昔、聖武天皇の命により東大寺の良弁僧正が開創。奈良の都、平城京創建の時、滋賀の用材を琵琶湖や瀬田川・宇治川・木津川(泉川)を利用、奈良に運ぶ水路とし、途中の石山に石山院という役所を建て監督した。その後、石山寺とし、東大寺華厳宗を守護の寺となる。後、東寺の真言宗大本山西国13番札所となった。源頼朝の寄進、淀君の大修理によって今日の偉容がある。朝廷・貴族の信仰も篤く、紫式部・源頼朝・淀君・松尾芭蕉・島崎藤村等縁の深い寺です。石山の由来は、巨大な天然の硅灰石(けいかいせき)、奇岩、があることから。また文化財も多く、殊に頼朝寄進の鐘楼は国の重文である

瀬田唐橋(せたのからはし)

この橋は神の坐(おわす)社として、昔は橋を拝し、東海道中重要な橋であったが、通行人が橋を通りかかると橋の上に大蛇が寝ているため、恐怖し通行出来なかった。藤原秀郷(ひでさと=俵の藤太)がそれを聞き退治しようと橋を通りかかると、話の通り、橋上に大蛇が横たわっていたが、秀郷は恐れず大蛇を跨いで通ると、その夜、青衣を着た女が現われ「吾はこの橋の水庭に棲む龍神で百足(むかで)のため困っている。」と告げた。秀郷はそれを聞き、日没後、橋の上で待って、大百足が現われたので矢を百足の目に射たが効果が無い。そこで考えた末、矢の先に自分の「ツバ」を付けて目をめがけ矢を射ると退治できた。龍人は、お礼にと砂金をつめた俵と、絹の巻物、鏡等、宝物を秀郷に渡した。それから田原の藤太を「俵の藤太」と世間の人は呼んだ。橋の東南に龍王を祀る社、龍王神社(竜王宮・秀衡社)が在る。

建部(たけべ)大社

近江の一の宮、祭神は第12代景行天皇の第三皇子倭建命(やまとたけるにみこと=日本武尊=倭男具那命)、妃7人、子供7人を祀る。元は八日市、建部の郷に建てられ、その地は、お妃・布多遅 比売(ふたじひめ)と子・稲依別王(いなよりわけみこ)が住まれた所。その後、第42代文武天皇、白鳳時代この地に移された。命は16才の時「小碓命(おうすのみこと)」と云い、父・景行天皇に、大和朝廷になびかぬ熊襲族の頭目・川上梟帥(かわかみたける)の討伐を命じられた。美少年の命は少女に扮装し、仕える多くの女性に混じって宴席を手伝い梟帥に近づき、すきをみて短刀で胸を 刺した。刺された 梟帥は苦しい息の下から「貴方はどなたか?」と尋ねられたので、小碓命は名を名乗った。すると梟帥は「我国では私より強い者はいません。これからは“日本武尊(やまとたける)”と名乗って下さい」と言い残し息絶えた。その後、日本武尊は千葉県(上総の国)、奥州地方を平定したが、滋賀の伊吹山の悪神退治において病に罹り逝去された。何れの戦も父景行天皇の命によるもの、小碓命はあまりに人徳があり、頭脳明晰故に父・天皇は近くに置くことを好まれなかったので、各地へ征伐に往かせたのであろうと云われる。

義仲寺(ぎちゅうじ)

木曽義仲(きそよしなか)の墓、愛妾巴御前の供養塚、芭蕉塔や多くの歌碑がある。義仲は、後白河法王(第 77 代天皇)の第三子、以仁王(もちひとおう)の命による平家追討の令を受け、平家を西国に追い勝利し、京に入った。家臣達は勝利に思い上がり、都で我が物顔に振舞い、法王から疎んじられ、源頼朝の弟、範頼や義経に追討を命じられ、戦ったが敗れて、義仲は自害した。愛妾の巴御前はこの地に住み、菩提を弔った。その後庵となり、俳人・松尾芭蕉も度々訪れ宿舎とした。

三井寺

園城寺(おんじょうじ)

第38代天智天皇・第40代天武天皇・第41代持統天皇の産湯の泉があることから、三井寺と呼ばれ、平安時代僧円珍が密教の三部灌頂の時この水を使用したことから三井と呼ばれ、天武天皇が「園城」という額を贈られて「園城寺・三井寺」となった。奈良の東大寺、興福寺、比叡山延暦寺と合わせ日本四箇大寺と呼ばれる。梵鐘は近江八景(三井の晩鐘)として知られ霊鐘堂の釣鐘は破れ鐘と呼ばれ弁慶の引き摺り鐘、破れ鐘として有名。田原の藤太が瀬田の唐橋で百足を退治したお礼に竜宮から持ち帰った鐘、乳が16個も引きちぎられている。又破れ鐘といわれるのは弁慶が山門派との争いによって延暦寺へ引っ張り上げて鐘を釣ったところ、その鐘が「イノー、イノー」と響いたので、弁慶は怒って谷庭になげた。そのため、鐘は破れ鐘となったと言い伝えられる。


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