奈良 済美地区社会福祉協議会
第500回

6月せいび歩こう会

春も程なく季節は夏に移ります。うっとうしい梅雨の候も最近。

せいび歩こう会が始まったのは昭和 47 年の秋 10 月、もう 41 年と 8 ヶ月、この月は 500 回を数えますのに鑑み、「記念歩こう会」と致しました。式典と奈良町の隠れた神仏を訪ね、融通念仏宗大本山は大阪平野の大念仏寺の地方檀家寺「徳融寺」において、ささやかながらのお茶席を設けました。ほんの一時の縁をお楽しみ頂きます。

日 時

6月8日(日) なら町音声館(済美地域 鳴川町):2階 9時30分 式典開始

コース

音声館…(歩く)…川之上町(地蔵堂)…川之上突抜町(白山比売神社)…鳴川町(徳融寺)お茶会 解散(昼過ぎ自由解散の予定です)

歩行距離

約1km

費用

なし



川之上町(地蔵堂)

飛鳥小学校門前道路下を流れる小川、この街を通り紀寺から築地の内を抜け、元興寺を、そして鳴川から西木辻を縦断し、北大安寺をそして菩提、佐保川、岩井川に流れ入る。昔は飛鳥を忍んで大宮人は飛鳥川と呼び上流を飛鳥と懐かしんだ。その川上にあたる処。この町を川ノ上町となったと野村胡堂の坊目拙解に書かれている。同町に祀る地蔵尊像に対して日々のお勤め、信仰の深さ、住民の健勝を願っての行為、尊崇の心意ここに見る思い・・・

像は岩上に坐し、片足を足下の岩の上、他の右足を曲げ左足膝頭に乗せてのお姿、半跏像。お厨子には慶安5年1月15日と墨書があります。江戸の初期365年前と窺えます。地蔵信仰は鎌倉時代700年前、お堂は近年新築、院内よく整備されています。

川之上突抜町(白山比売神社)

奈良坊目拙解に江戸時代400年の昔、慶長年間に新しい道が開かれこの町を突き抜け民家が建ったことから町名を突き抜け町(突抜町)となったとその由来が書かれている。また近年の郷土史家山田熊雄先生が書かれている奈良風土記に川之上町15軒、突抜町30軒とある。白山神社は、江戸時代から明治の頃、この町に住居した杉本氏の邸内に祭祀された同 家の鎮守社であった、と近隣古老の話。その邸は現在の松倉病院の地とも云う。現在の社の位置が当時の所とすれば杉本家の邸は相当大きな邸宅と思われる。祭神は 白山比売神、菊理当ス(きくりひめ)と申される。この神が世に現れた時は不明である。また、系統も解らないが伊弉諾、伊弉冉夫婦縁を取り持った神と云うことになると造化三神後、程なく天地創造の時代に次ぐ国土経営の時代の神ではと考えられる。この神を祀る本社は石川県と岐阜県に跨る海抜2,702m富士山より1,000m低い。富士と立山と並ぶ日本三名山の一つ、信仰と伝説の山。白山その山頂に鎮座する本社・禅定本宮、そしてその山下に在る七社を白山神社と云う。現在は突抜町が祭祀する。町の鎮守社という。本殿は勿論境内も清々しい。

徳融寺(鳴川町)

南都年代記に慶長16年(400年の昔)建立された鳴川大念仏寺とあり、高林院と号したとある。又、同慶長年間に融通念仏宗に改めたとも。本山は大阪平野の大念仏寺、この徳融寺時代のご住職はその本山の長老を勤められたのは、ほんの一時前、この歩こう会が第292回・平成9年2月、そのご本山を訪ねた時、お出になり特別のご配慮を賜りました。当寺の斜め右向い、尼寺の三棟寺は奈良時代右大臣藤原豊成卿夫妻と娘、中将姫三人三つの屋敷跡、三つ棟の建っていた址という。姫の死後の霊を弔う寺が尼寺、三つ棟寺が今に在る。中将姫の母は義理の母。或る雪の朝、庭の松の木に縛られ、その母は割り竹で折檻、また、裏庭の崖から母に突き落とされた。その場所は当時の墓地に、また、父・豊成卿と中将姫の供養碑が正門内左側に二の門正面には土造りの衝立があるのも珍しい。

(参考)鳴川町の町名の由緒

(飛鳥川の下流)

奈良教育大北側の源流飛鳥川はこの辺りに来て当時の元興寺の一院、小塔院(現在音声館の東前の寺)で護命僧正が読経の際、群 蛙がやかましく鳴いたので読経のさまたげと神呪を唱え止めさせた。後世、蛙の声を聞かなくなったので不鳴川(なかずがわ)その町名を 鳴川町になったと風土記に記される。さらにその下流に浄言寺があり、この川はその寺を横切っていたので浄言寺川と名付けられたと記される。


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