奈良 済美地区社会福祉協議会
第501回

7月せいび歩こう会

いよいよ夏も盛り、季節は七夕、盆の迎え火そして送り火と心忙しい今日この頃、暑さ厳しい季節ですが忙中閑あり、ご参加下さい。

日 時

7月13日(日)近鉄奈良駅地下東改札口前 午前8時集合

コース

奈良@ 8 : 19 発=(近鉄)=竹田=(地下鉄烏丸線)=烏丸御池=(地下鉄東西線)=二条城前…(歩く)…神泉苑…二条陣屋…二条城(昼食)…二条城前…=(地下鉄東西線)=烏丸御池…六角堂…弁慶石…誠心院…誓願寺…矢田寺…本能寺…市役所前=(地下鉄東西線)=烏丸御池=(地下鉄烏丸線)=竹田=(近鉄)=奈良

歩行距離

2km余り

費用

合計 2,470 円

交通費  1,970円

  奈良〜(近鉄・地下鉄 880 円)〜二条城前 〜(地下鉄 210 円)〜烏丸御池

      市役所前〜(近鉄・地下鉄 880 円)〜奈良

二条城 入場金  500円

食事

二条城内休息所で。弁当・お茶ご持参下さい。城外街中に 1 〜 2 軒程飲食店あります



神泉苑

御所は最初二条城付近に造営、その南側に設けられた禁苑。常に清らかな水が湧くことから名付けられた。東西 200 m南北 400 m、大池を中心に観花、納涼、七夕、菊の節句等、歴代天皇の行幸も再々、祈雨、疫病退散の修法等、また、年の恵方社がある。

二条陣屋

小川平太郎氏の住居で祖先は秀吉の臣下、秀吉の没後近江に蟄居、その子万屋平衛門と名乗り米屋、両替商、茶種屋となり、御所や二条城に出入りし京都に屋敷を持たない大名が上洛の時、宿泊所(陣屋)とした。

二条城

東西 500 m南北 400 m、家康が京に在住の時の館。最初は二の丸だけの小さなもの、後、水尾天皇行幸の時本丸御殿を始め、秀吉の伏見城の遺構を移し整備、その後建物の一部取り壊し、また雷火で天守は焼失、最初に建てた二の丸御殿だけとなった。

六角堂(頂法寺)

四天王寺建立の用材を求めて、この地に来た聖徳太子は自身の守り神本尊、如意輪観音の夢告により霊木を得、一宇の御堂を建立したのが起り、嵯峨天皇の勅願所となり、 花山法皇も行幸、西国巡礼の一つとなり親鸞聖人の参籠、霊告によって一宗を開かれた、兵火に焼け、明治8年の再興、本尊は如意輪観音、脇に毘沙門天・聖徳太子二歳像・親鸞聖人像安置。この地は京の中央に当たることから「へそ」。石の堂前右に在る聖徳太子水浴の池(井戸)、有り、華道池坊発祥の地であることから家元華席道場が併館、太子に随行した小野妹子は本尊守護を命じられ坊を構えたので池の坊という。

弁慶石

高さ 1.5 mの岩石、弁慶が幼少の頃修業した京極寺の旧地と伝えられる。

誠心院

藤原道真が和泉式部の為建立した寺、法名に因んで寺名とし、本尊阿弥陀如来の傍らに式部の像、又、式部の塔(墓)が墓地入口にある。

誓願寺(施餓鬼寺)

天智天皇勅願所として始め、南都に創建、後深草に移り、平安遷都の時この地に移った。本市有数の古寺という。秀吉の側室松丸殿の発願で伽藍を再興、塔中子院18宇を有した大寺、然し天明の火で衰微、明治初年再建又昭和7年に焼失、昭和39年再建された。

矢田寺

約 1,170 年前大和郡山市矢田山丘陵の金剛寺の別院として創建、この地にその後移築、今から 435 年まえである。本尊地蔵菩薩像は珍しい火焔を光背とした 2 mの立像、台座の下は地下室で火災の時エレベーターで下へ降りる仕掛けとなっている。この像は開かれた満慶上人が冥土で出会った生身の地蔵尊を写して造ったと伝えられる。送り鐘は本堂のひさしに掲げられる銅鐘を云う。六原の珍皇寺の「送り鐘」に対し、ここの鐘は死人のあった時やお盆の精霊を送る時、この鐘をついて冥土へ送るのだという。

本能寺

600 年前下京区仏光寺通りに創建、「本応寺」と号し、戦乱後油小路の蛸薬師に移り、東西 150 m南北 300 mの広大な地、城のような寺院になった。世に云う本能寺の変により焼失 427 年前秀吉がこの地に再建、江戸時代類焼、昭和 3 年に鉄筋コンクリート造りで会館を建て伽藍建築と洋風建築とが両立しているさまは時勢の推移でしょうか。本堂背後に織田信長・信忠父子や本能寺の変に斃れた人々の慰霊塔がある。


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