奈良 済美地区社会福祉協議会
第509回

3月せいび歩こう会

春、弥生の候、京は五つの花街の一つ、北野の上七軒と香り高き天満宮に詣で辺りに坐す古刹を訪ねます。御参加ください。


日 時

3 月 15 日(日)近鉄奈良駅地下東改札口前 午前 8 時集合

コース

奈良@ 8 : 18 発=(京都行・急行)=京都=(バス)=乾隆校前…(歩く)…引接寺(千本えんま堂)…石像寺(釘抜地蔵)…大報恩寺…上七軒(花街)…紙屋川・御土居址…北野天満宮…(伴氏社)…東向観音寺…大将軍八神社…北野白梅町=京都駅=(近鉄)=奈良

交通費

交通費  1,700 円

 

奈良〜(近鉄・ 620 円)〜京都〜(バス・ 230 円)〜乾隆校前

    北野白梅町〜(バス・ 230 円)〜京都駅〜(近鉄・ 620 円)〜奈良

 

 ※北野天満宮梅林 自由とします(入園料 600 円)

昼食

昼食弁当ご持参ください。(食堂少ないです)

歩行距離

約3km


引接寺(いんじょうじ)

千本えんま堂。凡そ千年前、平安の半ば定覚という僧が念仏を始められたのがこの寺の起こり。本尊に閻魔王が祀られるので「千本えんま堂」の名があります。 800 年前再興されたのが現在の姿。夏の盂蘭盆会の精霊迎えの寺として一般に親しまれています。本堂は昭和 43 年の失火で半焼し、未だ完全に再建されていないが、このお堂は閻魔の王宮を模した建物といわれ閻魔王の座像と司録、司命の二役人像と地蔵立像が安置されています。

 

石像寺

釘抜寺。弘法大師の開基。本尊石造の地蔵。諸々の苦しみを抜き取るということから苦抜き、釘抜き地蔵と呼ばれる。

大報恩寺

本尊に釈迦如来を祀ることから、嵯峨の釈迦堂、清凉寺と並んでこの寺を千本釈迦堂と呼ぶ。開祖は求法上人義空。義空の母が薬師如来を祈願、日輪を呑み込む夢を見て懐妊され、生まれたのが義空。その義空が仏法の霊地を得んと祈り、たまたま中納言の家卒がその話を聞き自分の土地を寄進、上人はそこに小堂を建てたのがこの寺の起こり。

(おかめ塚)本堂の創建時、大工の棟梁が一本の柱を寸法違いして短く切ってしまった。これ程の木は手に入らないと困っていたが、女房のお亀の提言で無事工事が完成した。亀女は「女は口が『さがない』もの、若し私が教えたことが知れたら夫の恥。」と自害した。像の右側にお亀の宝篋印塔が建っている。お亀の墓碑であろうといわれる。

上七軒

京都の花街は島原・祇園・先斗町・宮川町そしてここ北野の上七軒。中でもこの里は最も古く、室町時代という。北野天満宮の建立の際、残った余材で七軒の茶屋町が造られた。秀吉は北野の大茶会の後この花街に遊んだという。上七軒の客は専ら、西陣の機業主、他の花街と違って地味で古風を特色としたという。最盛期には 30 数件のお茶屋があったが、昭和末期には、お茶屋 14 軒、芸妓 20 人、舞妓 2 人と地の人が云った。

紙屋川

川幅 5 m、平安時代この川で禁裏御用の紙を漉いたことからこの川の名がついた。この紙は現在の「おとし紙、ちり紙」薄墨紙と云われる。

御土居

天満宮西側の紙屋川堤に沿った堤防。延長 22.5 km現在は天満宮西側他 8 か所残る。外敵から都を護るため築かれた。出水にも備えた堤でありました。

北野天満宮

菅公、菅原道真を祀る。京都で最も著名な社で道真は藤原時平の策謀で九州太宰府に左遷され二年五ヶ月後 58 才で憤死。その死後 20 年、第 60 代醍醐天皇の次男保明親王の薨去(こうきょ)は道真の霊魂の宿怨のなすところと云われた。藤原時平とその一族も不慮の災いに会い、宮中の清涼殿には落雷があり、廷臣が震死。道真の祟りによるものと噂され恐れられた。道真の死後 45 年、この地に一宇を建て天満天神として崇められたのが始め。

東向観音寺

1,068 年余り昔、僧最珍の創建と伝えられる。当時は東西両向い合わせ、二堂があったが現在は東向の御堂のみ。それで東向き観音寺と云われる。十一面観音を安置します。

(蜘蛛塚)源頼光を悩ました蜘蛛の棲息していた所と伝えられる。

大将軍八神社

方除けの神として崇められる。素戔嗚尊とその御子五男三女を主神とし併せて聖武・桓武天皇を祭祀、社伝によれば桓武天皇が平安遷都にあたり王城鎮護のために大和春日より勧請し、京の四方に営まれた大将軍社の一つというが明証はない。あるいは、往古の道饗祭、(道饗祭とは毎年 6 ・ 12 月京外より侵入する悪神を京の四隅の路上で饗応し、侵入を押し止めるため執り行われた祭儀。)をする為に建てられた社かも知れないとも伝えられる。大将軍とは陰陽道に云われる北方の星。宵の明星。方位の神として尊敬された。それが、神道と習合して素戔嗚尊、仏教と習合しては牛頭天王、大将軍の信仰は陰陽道の発達に伴って発展、 800 年余り昔、第 80 代高倉天皇の中宮“健礼門院(清盛の娘)”の安産祈願のため、この社に勅使を派遣されたこともあったと伝わります。約 500 年前足利将軍の跡目争いの応仁の乱で焼失、 360 年後再建されたのが現在の社。収納庫に納まる木造の大将軍像 79 躯は明治の始め、境内竹藪の洞穴の中から発見されたもので、いずれも淡彩色が施され、疫病的な神としての性格がよく顕れているといわれます。


もどる