奈良 済美地区社会福祉協議会
第513回

7月せいび歩こう会

陰暦文月の候、梅雨もいまだ明けやらぬ様子、この夏を元気に過ごしましょう。この月は、京東山七条から清水山麓、歌の中山道を清水へ・・・・・。


日 時

7月5日(日)近鉄奈良駅地下東改札口前 午前8時集合

コース

近鉄奈良@ 8 : 18 発=(近鉄)=丹波橋(乗換)=(京阪)=東山七条…(歩く)…法住寺・後白河天皇陵・養源院…耳塚・専定寺…豊国神社・方広寺…三島神社…茶碗坂…六条天皇陵・(高倉天皇陵)・清閑寺…(歌の中山道)…清水寺(奥ノ院)…(五条坂)…京阪五条駅=(京阪)=丹波橋(乗換)=(近鉄)=奈良

費用

合計2,440円

 交通費 計1,540円

   奈良〜(近鉄・京阪 770 円)〜東山七条  京阪五条〜(京阪・近鉄 770 円)〜奈良

 拝観料 計900円  

   養源院 400 円  清閑寺 100 円  清水寺 400 円

昼食

弁当・飲み物・敷物必携のこと。 食堂・売店ありません


法住寺

後白河天皇陵守護のため建立されたが、御陵は、明治維新後、宮内庁管理となり寺から分離された。この寺に赤穂四十七士の像が安置され祀られている。

 

後白河天皇陵

陵は周囲 106 m中央に法ヶ堂があり床下地中に石槨(せっかく)が埋められていると伝えられる。天皇の座位三年その後五代の天皇の間、院政を行い 66 才で崩御された。

養源院

淀殿が父浅井長政の追善のため建立。父の法号を寺名とした。徳川家の菩提所とし徳川歴代将軍の位牌を祀る。本堂は唐破風付の豪華な建物で伏見城の遺構で「血天井」。徳川家の家臣鳥居元忠以下将士自刃の板間の板。

耳塚

高さ 7 mの墳丘上に五輪石塔。この塚は征韓戦争の時勝利し、その戦勝の証として敵兵の首を日本に持ち帰ろうとしたが重くて嵩があり、その為耳を切り取り塩漬けにし日本へ送った。その耳を埋めた所というが本当は秀吉が方広寺の大仏の鋳型を埋めた。その御影塚の「みえ」を耳と過って伝わったもの。

専定寺(鳥寺)

昔、専定という旅僧がこの辺りの松の根方の木陰で休んでいると、二羽の烏が松の梢で「今日は熊谷蓮生坊が極楽往生する日だ。我々もお見送りしよう」と語り合っていたので、不思議に思い見上げると、烏は熊野権現の姿になって飛び去った。後刻、蓮生坊の庵を訪ねると鳥が話していた時刻に往生したことを知った。専定は鳥のいたそこに寺を建てたのがこの寺です。

豊国神社

此処より東、阿弥陀ヶ峰の中腹に創始された秀吉を祀る社が秀頼の死後、徳川氏により取り払われたが、明治維新政府が再興しました。

方広寺

現在、当初の物は銅鐘と石垣を残すのみ。秀吉は「東大寺は20年費やして造営されたが、わしは5年で完成させる。」と豪語、然し9年の歳月で竣工。方広寺と名付け盛大な供養が行われたが、翌年の大地震で倒壊、秀頼が再建したが鐘に「国家安康」「君臣豊楽」の文字を見て家康を呪詛するものと言いがかりをつけ、これを大阪冬の陣・夏の陣のきっかけとした。

三嶋神社

大山(おおやまづみ)祇命、他二神を祀る。後白河天皇は皇子が生まれないのを憂いて摂津の三島神社に祈って高倉天皇を授かる。それで三島の神を勧請された。祈願する者は「うなぎ」を禁食、御礼には「うなぎ」の絵馬が奉納される。うなぎはこの社の祭神の使者という。木花咲耶姫が影向したという影向石が本殿前にある。

茶碗坂

京の清水焼発祥の地。この付近は古来陶器発生の地。この辺りの土は陶器の製陶用粘土の好適地で僧行基が始めて窯を築いて土器を生産した所。然し次第に窯は五条坂に移り、この地は今では廃絶。かつての清水焼発生の地は知らない。

清閑寺

東山七条の智籍院に属し平安時代の古刹、一条天皇の勅願寺で六条並びに高倉天皇を寺内に葬ったことから皇族縁の寺として崇敬された。本堂前庭に「要石」がある。この辺りから西方京の洛中が、寺の前方両側の山の中に在り、まるで扇の中にある風景画。当寺の要石といわれる石は丁度扇の要の位置。この寺は、清盛が高倉天皇のご愛妾小督の局をわが娘(高倉天皇の皇后)可愛さに小督を此処に連れ出し髪を剃り嵐山の尼寺「法輪寺」へ入寺させた所。

高倉天皇清閑寺陵

第80代高倉天皇は「平家物語」や「源平盛衰記」に多くのエピソードをとどめる天皇として知られる。天皇の陵内向かって右側に愛妾小督の局の塔が寄り添うように在る。

六条天皇陵

高倉天皇陵後方北山中 100 m先に小円墳がある。幽邃(ゆうすい)な雰囲気に満ちている所という。

歌の中山道

清水寺奥の院への山道を云う。元来この道は文人・歌人の詩歌の諷詠地、春ともなれば 桜下で連歌が興行され一日千句、二千句に及ぶこともあるそうな。これが歌の 中山道と呼ばれる所以であろう・・・・・。


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