奈良 済美地区社会福祉協議会
第517回

11月せいび歩こう会

暦も早、霜月(立冬)益々元気に、ご参加ください。


日 時

11月15日(日)午前8時30分 近鉄奈良駅地下東改札前 集合

コース

近鉄奈良=東寺(駅)…(歩く)…東寺…六孫王神社…平家西八条邸址…児ノ水不動尊…羅城門址…矢取地蔵…謙建稲荷…西寺址…吉祥院天満宮…唐橋址… JR 西大路(駅)= JR 京都駅=(近鉄)=奈良

費用

合計 1,710 円

交通費  1,360 円

 奈良〜(近鉄・ 620 円)〜東寺 

 西大路〜( JR ・ 120 円)〜京都〜(近鉄・ 620 円)〜奈良

拝観料 東寺 350 円

食事

弁当ご持参下さい(食堂少ないです)。敷物あれば重宝です。


東寺

桓武天皇が平安京造営に際し国家鎮護のため建立された官寺で、朱雀大路の左京東に位置するので東寺とされた。弘法大師・空海を別当とし、平安時代 1,132 年創建、その後、大規模な火災にあい主要堂塔のほとんどを失い荒廃していたが、秀吉、家康の庇護により金堂・五重塔などが再建された。今も、弘法大師の寺として一般庶民の信仰を集めている。

五重塔は高さ 55 m、日本一の高さを誇る。
六孫王神社(ろくそんのうじんじゃ) 祭神は第 56 代清和天皇の孫・源経基(みなもとのつねもと)。源経基は平将門(たいらのまさかど)の反乱を天皇に報告、その功績により鎮守府将軍となり、源氏名「清和源氏」を賜った。 45 才で没す。この地は源経基の邸宅址。その子満仲が父の霊廟を建てたのが神社の起こり。付近は平家一族の西八条殿、この地だけが源氏発祥の地として今に残る。室町時代、足利氏同族争いの応仁の乱により、社殿は衰微した。

平家西八条邸址

広大な地、国鉄梅小路駅とその南側の東海道本線の敷地を占める。この地は、清盛はじめ平家一族の邸宅が甍を並べ、清盛の邸には亭(あずまや)と館五十余宇あった。六波羅にも平家一門の広大な邸宅があった。然し清盛は神戸の福原に多く居住したという。

児(ちご)の水不動尊神社

(尼寺の水)眼病平癒に霊験ありという。今なお清泉が湧く。祭神は不動明王(井戸の傍に)

羅城門址

門はかなり高層、江戸時代 243 年前台風で倒壊、往時を偲ぶものは何もない。

矢取地蔵

石の座像で面貌(めんぼう)はあまり良くない。口碑(こうひ=石碑に刻んだ言い伝え)によると、西寺の守敏僧都(しゅびんそうず)が東寺の弘法大師を妬み、弘法大師の帰途を狙い、矢を射た。矢は大師に当らず、地蔵尊に・・・大師は難を逃れた。それで矢取り地蔵、または、矢負地蔵と呼ばれる。

鎌達(けんたつ)稲荷

平安時代、陰陽師・安倍晴明が祭祀した神社で、倉稲魂命(稲荷神)と猿田彦を祀る。江戸時代は金物商が崇敬、近年は勝運の神、賭博の神として信仰される。

西寺址

約一千年前、東寺と共に平安遷都の時、建立された官寺で東寺は真言密教の道場として弘法大師に、西寺は鎮護国家守の道場として敏僧都(しゅびんそうず)に賜った御寺。しかし西寺は平安半ばに焼失、わずかに残っていた塔も鎌倉時代に焼失、その後再建されなかった。今残る土壇は講堂の址、三個の礎石がある。現在は児童公園となっている。

吉祥院天満宮

菅原道真の曽祖父・菅原清公が遣唐使として唐に向われた時、海上で嵐にあわれたが、同船していた伝教大師・最澄が吉祥天女を祀って難を逃れた。帰朝後、邸内に一宇を建て菅原家の守護神として吉祥天を祀り、吉祥院とした。後に、菅原道真が大宰府で薨(こう)ずると、その神霊をここに遷し霊廟を建てた。

唐橋

西国街道の京へ入る重要な地。外国の使臣がこの橋を渡って京へ入ったのでその名が・・・また、秀吉が朝鮮出兵の折、この橋を渡ったのでその名が・・・とも。現在、この橋は西高瀬川に架かる橋。当時の木製の橋はない。


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