奈良 済美地区社会福祉協議会
第520回

2月せいび歩こう会

立春とは名ばかり、春めいた節日。然し気候は冷雨、冷波、寒風吹き荒れる日も多く、配意してのご参加を願います。


日 時

2月14日(日)午前8時 近鉄奈良駅地下東改札前 集合

コース

近鉄奈良A 8 : 16 発=(西大寺・学園前)=鶴橋=( JR )=大阪=(阪急)=総持寺…(歩く)…磯良神社…総持寺(駅)…水無瀬…桜井駅跡…三島=( JR )=山崎…離宮八幡宮…関戸神社…宝積寺…観音寺…山崎=( JR )=京都=(近鉄)=奈良

費用

交通費 2,120円

奈良〜(近鉄・ 670 円)〜大阪〜(阪急・ 270 円)〜総持寺〜(阪急・ 220 円)〜水無瀬

三島〜( JR ・ 120 円)〜山崎〜( JR ・ 220 円)〜京都〜(近鉄・ 620 円)〜奈良


総持寺

西国観音 霊 場22番札所、平安時代の創建。藤原山蔭は幼い頃川に落ち行き方知れずとなり、父高房が長谷寺の観音に祈願されたところ、昔助けられた大亀が川瀬に山蔭を乗せて現れ、助けられた。その山蔭が創建した。本尊は長谷観音自ら童子に化身して彫った像と伝えられる。

磯良神社

疣(いぼ)水神社とも。九州の安曇氏の祖を祀る。境内の「玉の井」は神功皇后が三韓へ遠征の時立ち寄られ、この水で顔を洗われると美しいお顔にみるみる疣や吹き出物が出来、醜い男のような姿になった。皇后は男装して出征し、無事凱旋され、再び此処に来て顔を洗われたところ、元の美しい姿に戻られた。それでこの社の祭神を疣・おでき等万病に効く霊泉「玉の井」と云われる。

桜井の駅址

奈良時代、平城京と各地を結ぶ交通路を整備されたとき、街道の要所要所30里毎に駅を設けられた。楠正成が兵庫で足利尊氏と戦う時、我が子正行をここに呼び寄せ、別れを惜しんだ所、正成の子別れの地(場)。正成は若し兵庫で討ち死にの時は、お前が天子様のために足利氏を討てと約し帰した。

離宮八幡

僧行基が大分県、豊前の宇佐八幡宮より勧請された際、此の地に神霊を一時止め、翌年男山に遷した後その由緒によって祭祀した。この地は嵯峨天皇が水無瀬神宮の地に狩に来られた所、水無瀬離宮の在った地。現在の水無瀬神社の地。その時の宿舎の地、河陽(かや)離宮、それで離宮八幡という。本殿の祭神は応神天皇・酒解神(大山津見神=大山を守る神)田心姫・ 市杵島姫・湍津(たぎつ)姫の五座。当社の祠官が油を作って灯明料としたことから油司との口宣(くぜん)(てんのうからの命)を賜り、鎌倉時代後、油座の長として明治の頃まで油の製造・販売権を独占し、それでこの神社は裕福で近世まで神殿も荘厳を極めたと云う。明治に東海道線の布設により境内にも中断され境内の規模も縮小した。

関戸神社

山城と摂津の国境・関所「関戸院」という公的の宿舎があった。この関所の守護神として創祀された社で 疫神を祀るとあります。伯耆の国(鳥取県)大山に祀る大智大明神。前の道は中国街道。

宝積寺

天王山の中腹、打出の小槌に因んで宝寺と呼ばれ、聖武天皇の勅願により、僧行基の開創、行基は山麓の淀川に橋を架け橋寺として創建又後小松天皇の勅願所となり真言宗となり、この地は戦略上要所であった関係から度々の戦場となる(天王山の戦場地等)。明治後寺運は衰退する。然し多くの古文化財を有し、この辺り屈指の名刹、本堂に桃山風の見事な彫刻、本尊十一面観世音、閻魔堂、又「打出の小槌」を祀る「小槌の宮」聖武天皇子供の頃夢中で竜神より賜った小槌で、男は左、女は右の掌を叩くと印があるという。「街宵の鐘」鐘楼がある。

観音寺

山崎の聖天さん。昌泰三年の創建と云うと平安の初期900年前の創建。本尊は十一面観音境内に聖天堂あり歓喜天(聖天)は信仰が高く「山崎の聖天さん」と親しまれる。木食位空上人が住友・鴻池・三井など富豪の支援によって再建されたが550年程前兵火で一山灰燼に帰し大阪・島本町の観音寺を移し聖天堂・鐘楼・鎮守社等を創建、再建した。


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