奈良 済美地区社会福祉協議会
第530回

12月せいび歩こう会

年の瀬となりました。頑張ってご参加下さい。元気に新年を迎えましょう。行く年の締めくくりの月です。


日 時

1 2 月11日(日) 薬師堂町 御霊神社 7時50分 集合

コース

御霊神社…(歩く)…(薬師堂町・毘沙門町・鵲町)…猿沢池東側下扇の芝付近 六道の辻…(五十二段)…植桜楓顕彰碑…(スベリ坂下る〜石段・五十二段)…三重塔・摩利支天碑・南円堂(一言観音)・北円堂…東向中町(赤穂浪士・大石瀬左衛門隠棲の地)…中筋町(中筋神社)…大豆山町崇徳寺…奈良女子大南門(奈良奉行屋敷)…奈良女子大(奈良奉行所)東側奉行所役人宅…(焼門・大仏殿裏)…大湯屋(六道辻)五十二段…二月堂(五十二段)解散

費用

 

 

 

御霊神社

元は井上町バス停前、元興寺南大門前に祭祀されていたが、興福寺との争いに焼失し、現在の地、薬師堂跡に祭祀される。京都の上・下御霊社創建に続き全国各地に建てられた社の一つ。井上内親王他怨霊併せて八霊神を祭祀する。

五十二段下六道の辻

猿沢池東南の地、三角芝は昔の罪人首切場と伝えられる。閻魔大王の裁きにより地蔵菩薩に導かれ六道の辻へ、此処はあの世の分岐点。

五十二段

仏様は如来になられるため数々の修業(五十二段階あり)をなされます。五十二の石段には多くの仏様達がおいでになります。心して上り下りして下さい。五十二段は奈良の興福寺と東大寺に各二か所、和歌山の根来寺に在り他の寺にはありません。

植桜楓之顕彰碑

江戸は南町奉行に天下の名奉行ありと称えられた川路聖謨。後に奈良奉行となり、活躍され多くの功績を残された。その功績の一つが、今日の奈良公園や佐保川の桜並木の整備などで、名奉行としての功績を称えた碑。

南円堂の石段

この石段も五十二段

三重塔

国宝。第 74 代鳥羽天皇の皇后待賢門院の創建。塔とは釈迦の骨を祀るもの。従って釈迦の墓と伝えられるがこの塔は弁財天を祀る。

近くに摩利支天石がある。興福寺の塔頭、宝蔵院の僧・胤栄(いんえい・宝蔵院流槍の名手)の守り本尊。元、その宝蔵院に在ったが近年此の地に安置された。

付近に地蔵石仏が多数あり、近頃この辺りは「賽の河原」と呼ばれている。

南円堂

藤原冬嗣の建立。八角円堂(再建)本尊(木造)不空羂索観音坐像(国宝)木像四天王、西国三十三ヶ所、第 9 番札所。

一言観音

元、春日山南、龍華院谷にあったのを此処に移された。一言、一つのお願いのみお聞き下さる菩薩と云われ、お詣りが絶えない。

北円堂

(国宝)元明、元正、両女帝の創建。鎌倉時代の仏像が多く安置されている。

東向き通り中町

一昔前、東側、南から七軒目に、赤穂浪士・大石瀬左衛門信清が、母と弟と従者と併せて4人で銅銭売買を生業として暮らしていた。元禄 15 年春に京に移り、その 12 月 14 日に討ち入りした。

中筋町

中筋神社(旧社名は勝手神社)、興福寺の僧が、吉野の勝手神社の神を、興福寺の寺の塔頭の庭に分霊し祭祀した。この辺りは、元、興福寺領で塔頭の在った地、現在は町が祭祀し、氷室神社が司ると聞く。

大豆山突抜町

崇徳寺、  開かれた上人は三河の生まれで、徳川家康と竹馬の友。「家康が大阪の陣で茶臼山から追われ、この寺まで逃げ、寺にあった鎧櫃の中に匿われ命拾いした。」という伝承も残されるが・・・

奈良時代の僧玄ムの頭を埋めたと云われる頭塔は市内の破石町に、玄ムの肘は、肘塚町に此処崇徳寺には眉と目が落ちたと云われ、その塚がある。それでこの町名が大豆山(まめやま)と呼ばれる。(昔、眉目山とも書いたそうだ。)

東大寺の五十二段

大湯屋、釣鐘堂の北側と、二月堂南側にも五十二段の石段がある。

 



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