パレスチナ点描

「いよいよハイファだね。」
「ハイファ?」
「今度のイスラエルの寄港地じゃないか。知らないのか。」
イスラエルがどの辺りにあって、死海やエルサレムの大体の位置ぐらいは知っていた。しかし、ハイファの名前などパンフレットで目にはしていたのだろうが、覚えてはいなかった。
 ある事情で時間ができたので、ピースボートというNGOの団体が主催する地球一周の船旅に参加中のことである。晴海を出航後、スエズ、パナマを通過する3ヶ月間の船旅である。他国民との交流と平和の啓蒙を目的とする主催者側には申し訳ないが、私などは完全な物見遊山であった。
 参加に当たってしておくべき事前の調べ、一般的な地理、歴史、各国の情勢のおさらい。そんなもなはしてなかったし、それ以上に気がかりなことがあった。その前の寄港地エジプト(ポートサイド港)やその前のエリトリア(マッサワ港)での食物や水が合わなかったのか、腹の調子がすこぶる不調であった。エジプトの砂塵の中には独特の細菌が混じっていて、日本人で最初の旅なら、まずは間違いなく下痢をおこすとは旅仲間の長老の話であった。
 ハイファはイスラエルの北部の港で、フェニキア時代イサベラ女王が治めたという古い港町である。中東らしい荒涼とした山並みが見え、空母が傍らにいた。
   
 イスラエルは1泊2日の予定である。いろいろとオプショナルツアーが用意されていて、事情が良ければどこかのツアーにアラファト氏が顔を出すとのことであった。死海リゾートやシリアと争っていたイスラエルの水甕ゴラン高原ツアーなどがあった。私はガザ民泊コースを選んだ。昔TVで見たイスラエル軍に対する庶民の石投げの影像が記憶に残っていたからだ。
 初日はバスでエルサレムに行き、少しばかり散策し後、ガザに行き、パレスチナ人と交流する。そこで民家に宿泊し、2日目は建国を前にして建設された国会議事堂、ガザ国際空港の見学コースである。

 時間は前後するが、まずガザでの歓迎パーティー。ここでもエジプトと同様アラビックブレッド、ヨーグルトなどの料理である。腹の調子のこともあり少し辟易していた。ガザは旧約聖書にも出てくる古い町である。英雄サムソンが捕らえられ目を潰された後、幽閉されたのがこの地である。その後神殿の柱を倒し、敵対する多数のぺリシテ人と共に神殿の下敷きになって死んだというものである。
また、「ガーゼ」はかつてエジプト綿がこの地から積み出されたことによる。

 お決まりのご挨拶の後、歓迎の歌、ダンス、お返しの踊りを背景に、パレスチナの人々との談話、飲食をする。船側の参加者の多くは20代の若者で、両者入り乱れてのダンスなど大いに盛り上がった。アラファト氏の側近というお偉いさんが、本人と電話をして、今にも来るようなことを言っていたが、とうとう見えずじまいだった。他のツアーの所に行ったというのは後で知った。
 先方の参加者は男性の若者が多く、女性の姿はほとんどなかった。その晩の宿泊先はそのパーティーで各自が話し合い、決定するというものだった。相手が青年ばかりだから、当然若い女性、アラビア語ができる者、同年代の男子若者の順で決まっていく。我々のようなむくつけき中年男などなかなか纏まらない。ここでも生存競争を垣間見たようだ。そうとはいえ設定されたシチュエーション、なんとかなるもので、結局バッセム君という若者のお宅にお世話になることになった。
 ガザ地区もオスロ合意以降には高層ビルも建設されていて、別の裕福そうな家庭に宿泊した旅仲間の話では、そのお宅は日本の住宅よりかなり広くて小奇麗だったとのことだった。

ハイファ港

空母

パレスチナ青年の歓迎のダンス

1 イスラエルからガザへ

お返しの踊り