Departure〜彼らのスタートライン〜
2.俺とヤマトと彼女と人生
Chapter 9
(1)
(あれから何日たったんだっけ……?)
朝、目を覚ました雪はベッドサイドに置いてある携帯用のカレンダーに目をやった。
(ヤマトがアクエリアスに沈んだのが、9月27日。古代君が部屋を出たのはその次の日だったわ。そして今日は……10月4日)
ヤマト撃沈から8日目、進が出て行ってからはちょうど一週間がたっていた。
(一週間か…… まだそんなものだったのね。待っている時間はとても長く感じる……)
この間、進からの連絡は一切なかった。雪からもしていない。連絡したくてしたくてたまらなくなる時がある。それでも雪は必死でそれを堪えた。
(古代君はきっと、何かを見つけて帰ってきてくれる…… きっと、私の元へ…… だから静かに待っていたい)
彼のことを信じていた、信じていたかった。だからそのために闘っているはずの進の邪魔はしたくなかったのだ。
この1週間の間、電話は何度か入った。その度に進からではないかと密かに期待して、そして裏切られた。だがその電話はすべて雪と進を案じる大切な人たちからのものだった。
両親、同僚、友人…… 雪は電話で励ましてくれるみんなの優しさにとても感謝していた。だがそれでも……それでも、進の不在は雪の心を消沈させる。その心を、雪は必死に奮い立たせていた。
(だって…… あの時と比べたら、今はずっと安心していられるもの)
あの時……雪は地球に一人取り残されていた。それも敵将の虜として。
(あの時は、古代君が死んだって聞かされて……それでも信じられなくて…… あの頃は、一日がひどく長く感じられたものだわ……)
生死不明の恋人の命を細い糸をたどるように信じ続けたあの時に比べれば、今の雪はずっと心穏やかであるはずだった。
(そうよね、こんなことでめげちゃうなんて、ダメダメ! しっかりするのよ、雪! いつまでも待ってる覚悟しなくっちゃ!!)
雪は自分で自分を励ましながら、ベッドを降りると着替え始めた。
(2)
朝食をとった後、雪はその日も日課にしている、島たちが入院している病院へ電話を入れた。
そしてその電話は綾乃が取るのが常だった。人員不足もあるのだろうが、彼女はあの日以来一日も休まず出勤している。愛ゆえの力ともいえるのかもしれない。画面の向こうに見える綾乃は、今日も疲れを見せず元気そうだった。
「おはよう、綾乃。みんなの様子はどう?」
「おはよう、雪。ええ、大丈夫よ。問題なし! それにいいニュースよ! 島さんはあさって、一般病棟へ移動できることが本決まりになったわ」
画面の向こうから綾乃の笑顔が返ってきた。島が予想以上に順調に回復していることは知っていたが、それが現実になっていることを知って雪はとても嬉しかった。
「えっ?ほんと! よかったぁ〜〜!」
「ええ!」
「よかったわね、綾乃!」
雪以上に嬉しそうな顔でそれを報告する綾乃を、雪がからかった。
「あ、あたしは別に……」
「うふふ…… 何今更照れてるのよ〜」
「うるさいわね、もうっ! それより、古代さんどうした?」
綾乃の反撃だ。痛いところを突かれる。といっても、毎日同じやり取りをしているのだが。
「……まだ……よ」
雪の声が小さくなると、綾乃も気遣わしげな顔に変わった。
「そう…… ねぇ、雪、一度電話入れてみたら?」
「ううん、いいの。彼も今戦っている最中だから…… もし私が必要なら彼の方から連絡してくるはずだもの」
雪の返事に、さっきまで心配顔になっていた綾乃の顔がくるりと笑顔に変わった。
「ふうっ…… 相変わらず雪は強いわ。それに彼のことを心から信じてるのね」
「うふふ……まあねっ」
「まあっ、ごちそうさまっ! とにかく、古代さんが戻ってきたらちゃんと教えてよ!」
「了解!」
毎日の恒例行事のごとく、その日の二人の会話も終わった。
(島君が一般病棟かぁ…… みんなにも知らせなくっちゃね、きっと大喜びね。あっ、古代君!? 彼にも伝えたほうがいいんじゃないかしら?)
雪は、進へ電話する口実ができたような気がして嬉しくなった。さっそく肌身離さず持っている携帯をポケットから取り出して見つめる。それは簡単な操作をするだけで、彼に通じる魔法の機械だ。雪はキーの上に人差し指を置いてみたが、そこで手が止まった。
(でも……どうしよう…… やっぱり島君が本当に移ってからにしたほうがいいのかも? それともこんなことで連絡なんてしないほうがいいのかしら……)
彼に電話したくてたまらないのに、でも一方で電話するのが恐い雪だった。
(3)
結局、雪は携帯をしまって、備え付けの電話のほうから、島のことを伝えるために相原に連絡を入れた。
雪が、島が一般病棟に移れることと、その後は一般の見舞いもできるはずだということを伝えると、相原は「さっそくみんなにも伝えます!」と本当に嬉しそうに顔をほころばせた。
晶子に会っているのかと問う雪に、相原ははにかみながら「電話で少し……」と答えた。それから、ふと思い出したようにこんなことを言った。
「あの……雪さん、古代さんって今どっかに旅行してるんですか?」
「えっ? ええ……ちょっと……真田さんから聞いたの?」
驚きながらも雪はできるだけ平静を装って尋ねた。ヤマトクルー達の情報網は相変わらず早いらしい。だが、相原の答えは少し違っていた。
「いえ、晶子さんからなんですけどね……」
「晶子さん?」
「いえ、確かかどうかわからなかったんで僕もなんとも答えられなかったんですけど……実は昨日、司令本部に古代さんに会ったという人から問い合わせがあったらしいんです」
「えっ!? どこでっ! 誰から!!」
思わず声を荒げてしまう雪に、相原は目をぱちくりさせた。
「え? あ、あの……?」
「あ……ごめんなさい」
すぐに反省して普段の口調に戻したが、相原の洞察力はそれを許さなかった。
「もしかして、古代さん家出しちゃってるんじゃないでしょうね?」
「家出……じゃないわよ。しばらく一人で旅したいって、そう言ってでかけたの」
雪が必死に言い訳するのを、相原は真剣な顔で聞いていた。そしてふうっとため息を一つついてから、訳知り顔で何度か首を縦に振って頷くような仕草をした。
「そうだったんですか。でもその気持ち僕にもわかりますよ。僕もこの間一人で一日車ぶっとばしちゃいました。やっぱりヤマトと艦長のことは堪えましたから。でも、じゃあやっぱり、あれはそうだったのかなぁ」
「そうだったって? ねぇ、古代君、どこで誰と出会ったの?」
進の消息なら少しでも知りたい雪には、尋ねる言葉ももどかしかった。
「ああ、それなんですけど、詳しいことは僕も聞いてないんですよ。確か晶子さん、枕崎のパトロール隊の人って言ってたかなぁ。九州の南端の…… その人が古代さんらしい人に出会ったそうです。それで、もしそれがヤマトの古代さんなら渡したいものがあるから連絡を取りたいって問い合わせてきたとか……」
「枕崎…… そんな遠くまで?」
一瞬雪にはなぜ進がそんなところまで行ったのか理解できなかった。しかし次の相原の言葉がそれを端的に教えてくれた。
「坊ヶ崎……近いですからね」
「あっ!!」
画面の向こうとこっちで二人が無言で見つめあった。坊ヶ崎は、大和が沈みヤマトが生まれた場所であることは、この二人にもよくわかっていることだ。
「あの、僕はそれ以上詳しく知らないんですよ、あとは司令本部に連絡して晶子さんに聞いてみてくれませんか?」
「そうね、わかったわ。ありがとう」
雪が悲しそうな笑みを浮かべると、相原も泣き出しそうな顔をした。
「古代さん、雪さんにも行き先や居場所教えないで出て行っちゃったんですか?」
「ええ、でも、いつでも連絡はできるようにしてくれてるの。でも……今はそっとしておいてあげようって思っているのよ」
「そう……ですか」
考え込むようにうつむく相原に、雪は気を取り直して尋ねた。
「相原君は大丈夫?」
「はは……僕ですか? 僕は母さんがなんだかんだとうるさいんで、落ち込んでる暇ないですよ。それに毎晩晶子さんと電話でも話してるし、へへへ……」
「まあっ、それが一番の薬みたいね、うふふ……」
晶子の話題になると相原の顔はあっという間に崩れる。まだまだ恋愛を始めたばかりの二人は、本当に幸せそうだ。相原には晶子の存在が何よりの発奮材料なのだろう。
「えへへ、とにかく僕は10日後には、司令本部に復帰するつもりです。今更他の仕事する気にもなれませんしね」
「そう…… 真田さんはもうお仕事されてるし、みんな強いわね」
「心機一転、やるっきゃないですよ! 雪さんもそのつもりですか?」
言葉どおり一転して明るい笑顔を見せる相原の問いに、しかし雪は曖昧に答えるしかなかった。
「まだ……わからないわ」
「古代さん……次第ですか?」
「私ったら、主体性……ないわね」
「そんなことないですよ! 雪さんは何でもこなす人は、どこ行ったって大丈夫ですからね。それに何といっても古代さんの保護者みたいなもんですから、あの人のことほっとけないんでしょ?」
「うふふ…… もうっ! それって褒められてるのか、けなされてるのかわからないわっ」
苦笑する雪に、相原もまた嬉しそうな顔をした。
「あはは…… とにかく、こんなことがあった後だからなんですけど、早く二人の結婚式の日取りでも決めてくださいよ! いえ、こんな時だからこそ、ぱぁっ〜っと明るい話題で盛り上がりたいですからねぇ〜」
「ふふ、それこそ古代君次第だけど、彼のことだからあんまり期待しないで待っててね」
「はいっ! それじゃあ、みんなには僕のほうから連絡しますので、島さんに、来週は嫌になるほど見舞い客が行きますからって伝えておいてくださいね!」
「またぁ〜、まだ治ったわけじゃないんだから、程々にして頂戴よ!」
「了解で〜〜す!!」
そして雪は、相原との通信を終えた。意外な情報を得た思いで、雪は電話の画面の前から立ち上がった。
(4)
「枕崎……か……」
雪はそうつぶやきながら、書棚にあった地図を取り出して九州のページを開いてみた。確かに九州の最南端の岬にある街で、あの大和が沈んだ坊ヶ崎沖は目と鼻の先だった。
「古代君…… 坊ヶ崎沖は、大和の沈んだところ、というより、ヤマトが生まれたところ、よね? 彼はそこに行ったのかしら?」
雪は地図を閉じると、さっそく司令本で長官秘書として働いている晶子に連絡を取った。そして、晶子から坊ヶ崎で古代らしきと出会った重松という人物のことを聞いた。
「それじゃあ、やっぱり古代さんだったんですか?」
「ええ、たぶん…… 彼、今、旅行中なの。それに坊ヶ崎なら彼が行ってもおかしくない場所ですものね」
「そうらしいですね。重松さんって方も、実際古代さんだっていう確信はなかったみたいなんですけど、古代っていう名前は本人から聞いたらしいし、古代さんの写真を照合したら似てたっておっしゃってました。
古代さんに会って色々話をしたみたいで、古代さんに何か見せたいものがあるとかって……
重松さん自身は身分も職場も間違いないことは確認できたんですけど、古代さん本人かどうかわからなかったし、今休暇中なので、休暇が明けたら確認しますってことでそのままにしてたんですけど、よかったのかしら?」
晶子は自分の対応の仕方が悪かったかもしれないと不安げな顔を見せた。
「ええ、それはいいの。でもちょっとその重松さんに連絡してみたいんだけど、いいかしら?」
「ええ、連邦中央日本支部ポリスパトロール隊南九州第5分隊所属って聞いています。そちらの連絡先をお教えしますね」
雪は、晶子から重松への連絡先を晶子から貰っうと、折り返しその連絡先の番号をプッシュした。すぐに、パトロール隊の制服を来た若い警察官が姿を現し、雪が自分の名前と重松の名を告げると、重松が画面のむこうに現れた。
「私が重松ですが……」
重松は、制服姿の穏やかそうな初老の男性だった。
「あの……初めまして、私、森雪と申します」
「はい?」
雪を見知っていない重松は、自分に何用かと探るような視線を雪に向けた。雪は慌てて説明を始めた。
「突然のお電話、すみません。実は……私、古代進の婚約者なんですが……」
古代の名を聞くと、重松の顔付きが一気に明るくなった。
「古代…… あ、ああっ! じゃあやっぱりあの方はヤマトの古代さんだったんですか?」
「いえ、私もそれが知りたくて」
「え?」
またもや不思議そうな顔をする重松に、雪は事情を――進が今回のヤマトのことで一人考えるために旅に出たことなど――簡単に説明した。
「そうだったんですが…… それではきっと……あの方がそうだったと思います。古代さんで間違いないと思いますよ」
「そうですか、それで古代君は…… いえ、古代は、今どこに?」
息せき切って尋ねる雪に、重松は残念そうに首を左右に振った。
「いえ、それは私も…… 私が古代さんにお会いしたのは、先月の30日のことでしたから、昨日はもうそろそろお帰りになった頃かと思って連絡したんですが……」
「そう、ですか…… それで重松さんとお会いして彼は何か話してましたか?」
「ええ、色々と……」
今度は、重松が出会った時の進の様子や会話の内容を詳しく話した。雪は黙って話を聞きながら、奇しくも大和の乗組員の子孫である人と進が出会ったことに、なにやら深い縁を感じずにはいられなかった。
「古代君……」
「あの後、どちらに行かれたんでしょうね。心配ですね」
同情を込めた重松の言葉に、雪はしっかりとした口調でこう返した。
「ええ、でも、彼はきっと戻ってきます。私、そう信じてますから」
重松は、ほおっと感心したような顔付きになってから、ニッコリと微笑んだ。
「そうですね、短い時間でしたが、古代さんは私の話を真剣に聞いてくださいました。今回のことは、古代さんにとっては大変な出来事だったのだと思います。でも、あの人ならきっと立ち直って新たな人生を歩まれると、私も信じています」
「ありがとうございます」
「それに、なんと言っても、あなたのような素晴らしい方がいらっしゃるんですから……」
「いえ、そんな……」
ポッと頬を染める雪を、重松は優しい眼差しで見つめた。
「はは…… それで古代さんが帰ってこられたらお伝え願いたいのです。さっきも話した私の遠い祖先の日記なんですが、私のほうでマイクロフィルムに撮ってデータ化してありますので、もし興味がおありでしたら、お送りしましょうかと……」
「はい、わかりました。本当に色々とお気遣いありがとうございます。帰ってきたら彼に必ず伝えます」
「それでは、これで…… お二人のこれからのご多幸を祈っています」
「重松さんもお元気で…… 今日は本当にありがとうございました」
雪はもう一度丁寧に礼を言ってから電話を切った。それから、ふうっと大きく息を吐いた。それはため息と言うより、安堵の息だったかもしれない。ほんの少しだけだが、進の行き先がわかったことが明るい兆しのような気がしたのだ。
(古代君、やっぱり坊ヶ崎に行ってたんだわ。そしてそこでヤマトのことを思って、重松さんに出会って遠い昔の戦艦大和の人々のことを知ったのね……)
日程的に言っても、進がここを出てまっすぐに坊ヶ崎を目指したのだろう。だがそこで重松と会ったのが、先月の末。それから既に4日が過ぎている。
(古代君、ヤマトの生まれたところで、あなたは何かを見つけたの? でもその後にあなたはどこへ行ったの? 今は……どこにいるの?)
一瞬浮かんだ安堵の心も、その後の彼の行き先を思うと、再び雪の心は重くなっていった。
それから数時間、雪は部屋で一人じっと時を過ごした。朝の事件――雪にとっては進の足取りがつかめたことは大きな事件だった――の後は、何事もなく時間だけが進んでいく。
九州の南端で進がどんなことを思い、どんな気持ちで過ごしたのだろう…… 雪はそれを考えていた。
しかしそれが雪の彼への思いに火をつけることになった。心の中に進への思いが大きく噴き出し始める。進の行き先を知ったことで少しは安心したはずが、逆に進への恋しさを増幅させることになったらしい。
(古代君の声が聞きたい! 古代君の顔を見たい!! 古代君の温かさに……触れたい…… お願い、古代君、早く帰ってきてっ!! 古代君っ!!)
(5)
―――古代君っ!!
そう呼ばれた気がして、進ははっとして起き上がった。時計を見ると、午前11時。目を開けたばかりの目に、天頂近くまで昇った太陽がまぶしい。
昨夜夜明け近くまで、進は空の星々を見つめながら色々なことを考え思った。そして明け方になって帰宅を決意した。その後ウトウトし始め、結局本格的に眠ってしまったらしい。
「ああ……もう、こんな時間か……」
進は立ち上がると、大きく伸びをした。それから手を顔にかざしながら、もう一度輝く太陽を見上げた。
(雪……? さっき雪の俺を呼ぶ声が聞こえたような気がした……)
ふと気になって、ズボンのポケットにしまってある携帯電話を取り出して画面を確認する。しかし、そこに電話もメールも着信を示すものは何もなかった。
(気のせいか? それとも、俺が恋しくなってきてるのかもしれないな、はは……)
進が家を出てからの1週間、今日この時まで、結局雪は一度も連絡してこなかった。最初の数日間は、正直なところ電話は欲しくなかった。例え雪とでも、何も話したくなかったというのが、嘘偽りない本音だったのだ。だから、そっとしてくれているのが何よりもありがたかった。
それが少しずつ奇妙な不安へと変わっていったのは、いつ頃からだっただろうか。今日も連絡がなかったと確認するたびに、安堵の他に心の奥で落胆している自分がいることを、進は知っていた。
(もしかしたら、もう、雪は俺なんかに愛想をつかして、どっかに行っちまってたりして……)
なんていうとんでもない不安が心にもたげてきたりもした。連絡がないのはもう舞ってくれてもいないからではないかと思ったりすると、背筋がぞくりと寒くなる。が一方で、
(でもなぁ、愛想つかすんならもっと前にしてるよな……)
などと、自分の過去の行状を思い起こして、心の中で苦笑いしながら自分を納得させた。確かにこれはまったく持って正しかった。それを理解できただけでも、古代進もある意味成長したのかもしれない。
(さて、これから帰るって電話しようか、どうしようか……)
進は電話した時の雪の反応が少し恐かった。それに家を出た経緯を考えると、どうも後ろめたい。
(怒られるかなぁ、やっぱり…… それとも泣かれるか?)
もう古代君なんて知らない!と開口一番怒鳴られるのか―ありえそうだな、と思いながら―
それとも、どうして黙って出て行ったの!と泣かれるのか―そう言われても答えに窮するのだが―
それがどんな反応だったとしても、そんな会話をこのちっぽけな携帯の画面の向こうとこっちではやりたくないような気がした。
(やっぱり怒鳴られても泣かれてもいいから、直接顔を見てのほうが、いいよな……)
進は帰ったときの雪の表情の色々を考えていると、不思議と笑みがこぼれてきた。愛しい思いが再び胸に大きく広がり始める。会いたい……進の心が、素直にそう思えるようになってきていた。
だが、帰ろうと心では決めていても、その第一歩を歩き始めるのは、なかなかむずかしいものである。
進は、すぐに動き出そうとはしなかった。その場に腰を下ろすと、穏やかな海を再びじっと見つめ始めた。
暖かな日差しをさし続ける太陽の光を浴びながら、進はただ輝く波間を見続けた。そして時がたち、日差しが緩み始めた午後遅く、進はようやく重い腰を上げた。
「よぉ〜〜っしっ!!」
(6)
進はずっと手に持っていた携帯をポケットにしまうと、ぐるりと周りを見渡して誰もいないことを確認した。それから、おもむろに着ているものを全て脱ぎ捨て、海に向かって走リ出したのだ。そしてそのまま海の中にダイビングした。
快晴とはいえ、10月の海はさすがにもう少し泳ぐには冷たかった。だが、それが進にとっては逆にありがたい刺激となった。突き刺すような冷たさの中、進は波に逆らい沖に向かって無心に泳いだ。そして潜り、また泳ぎ……
泳ぎながら、進は泣いていた。悲しいとか、辛いとか、自分の感情ではなく、ただ涙が湧き出てくるのだ。それは、共に戦い生き抜いてきた仲間を思い、そして戦いの中で亡くした敵味方全ての人々への思いなのかもしれない。
涙は同じ塩味の波に全て洗い流され、いくら涙を流してもその後は残ることはない。そして進の口から発せられる嗚咽は、波の音にかき消され、その声はどこにも聞こえることはなかった。
それからしばらくして、進は再び浜辺近くまで戻ってきた。
(生きているんだな、俺は…… 生きていくんだ……な、俺は……)
三浦の海に洗われた彼は、今、ここで新たなスタートを切る。冷たさに震え始めた体が、その命の証なのかもしれない。
海から上がった進は、荷物の中からタオルを一枚取り出して大雑把に体を拭いた。それから、ぶるっと頭を大きく何度か振ると、そのたびに、髪の毛から細かい水滴が飛び散った。輝く太陽がタオルで拭いた体をあっという間に乾かしてくれた。
進は身づくろいをすませると、浜辺の外に止めてある車に向かってゆっくりと歩き始めた。
歩くごとに浜辺の砂は、ざくざくと小気味のいい音をたて、海からは波が寄せては返し、ざざ〜んという音が繰り返し聞こえてくる。なんとも心地よい音たちだ。
進は、母や父の背にもたれ、何度となくこの浜を訪れ、これらの音を子守唄にして育ったのだ。
砂浜からの出口付近に来て、進は立ち止まって、もう一度海のほうを振り返った。
(俺は帰る。また来るよ、俺を育ててくれた三浦の海…… そして父さん、母さん、兄貴…… ありがとう!)
進は今度こそはっきりと、家へ――雪が待っている自分の居場所へ――帰ろうと決意した。
九州は坊ヶ崎で出会った老警官との会話で、生きる意味をもう一度感じた。そしてこの三浦の海で出会った少年とその母に、これからの自分がなすべきことを再確認させてもらった。
心の傷は、まだ深い。だが、それも愛する人と一緒に少しずつ癒していこうと決めた。彼女が共にいてくれるのなら、自分にもまだ未来はあるのだと……そう思えるようになったから。
あの少年やこれから生まれてくる子供達がいる限り……彼らの夢と希望が未来を作ってくれるのだと、信じられるようになれたから。
進は車に乗り込むと、すぐにエンジンをかけた。車は来た時と同じように静かに走り始めた。
(7)
進が一路我が家を目指しハイウエイをひた走っている頃、雪はようやく落ち着きを取り戻していた。
(私ったら、だめね…… さっき重松さんにもあんなにはっきりと、彼は必ず戻って来てくれると信じてますって言ったはずなのにね…… しっかりしなくちゃ!)
自分で自分を叱咤する。そしてその一方で、
(でも…… 彼が帰って来てくれるまでは、やっぱりちょっぴり辛いな)
恋しい人に甘えたい気持ちは、やっぱり消えることはない。
(しかたないっか…… 古代君に惚れた弱み……よね)
雪は一人自嘲気味に微笑んだ。
雪にとっては、古代進がいてこその我が人生。雪は今回のことでそれを本当に思い知った。
それは、片時も離れず一緒にいる、ということではない。離れていてもかまわない。ただ、ひとりじゃないとわかっていられればそれでいいのだ。彼の存在と愛を信じられることが一番の幸せ。
進と出会ってから今までのいろいろな積み重ねが、雪にそう告げてくれている。
(古代君、待ってるわ、いつまでも…… でも、早く帰って来てね)
「さぁてと! もうそろそろ晩御飯のしたく、しなくちゃね」
気を取り直した雪は、立ち上がると台所に向かった。冷蔵庫の中身を見繕って、ごく普通の食事の支度をする。食事はいつも2人前を作る。進がいつ戻ってきてもいいように。
(でも、また今夜も半分は冷凍庫行きね、ふふ……)
2人分作っては、余らせて残りは冷凍保存へまわしている。進が出て行ってからもう1週間が過ぎ、冷凍庫もそろそろ空きがなくなってきた。
(もう、古代君ったら、帰ってきたら、しばらく毎日冷凍物ばっかり食べさせちゃうんだからね〜!)
一人、いない彼に文句を投げかけてみて、雪は自分でおかしくなってくすくすと笑った。
「で〜きたっ! 仕方ないわね、今夜も雪ちゃん一人で食べま〜〜す!」
誰がいるわけではないのだが、わざと明るくそう宣言して、雪は食卓に食器を運び始めた。ピンポ〜ンと、玄関のドアベルが鳴る音がしたのは、その時だった。
(8)
(今頃誰? ママかしら?)
昨夜も雪の母美里から電話が入っていた。まだ彼が帰らないこと、連絡がないことを告げると、心配そうな顔をして、「一度あなたの顔を見に行くから」と言っていたのだ。断ったが、そんなこと気にする母ではない。
だからきっと……美里がやって来たに違いないと、雪は思ったのだ。
(ママったら、相変わらず言い出したきかないんだもの〜〜 ほんと、困っちゃうわ)
そんなことを考えながら、インターホンを押す。
「はい、どなたですか?」
――ママよ、雪、いる?――
そんな声が聞こえてくるものとばかり思っていた雪の耳に入ってきたのは、意外な、それでいて一番望んでいて、ずっとずっと待っていた声だった。
「雪? 俺……」
(えっ!?)
その声を聞いたとき、雪は思わず大きく息を呑んだ。自分の耳を疑いながら、震える手で映像ボタンをオンにすると、そこには雪がずっと待ち続けていた愛しい人の姿が映っていた。
「古代……くん……!?」
「雪……あ……」
雪の声に答えて、インターホンのむこうで進がまだ何か言おうとしているのも聞こうともせずに、雪は一目散に玄関に走った。
(古代君っ! 古代君が帰ってきたっ!!!)
雪は玄関のドアに飛びついてすぐに鍵を開けようとするが、興奮しているのと焦っているのとで、手が震えてしまって思うように鍵が開かない。一刻も早く開けたいのに開かない扉に、いらだたしい気持ちでガチャガチャと力を込め、やっとのことで錠をはずした。
そして体ごと飛び出すようにドアを勢いよく開けると、目の前には本当に進が立っていた。
「古代……く……ん……」
確かに彼が立っていた。出て行った日と同じシャツを着て、同じGパンのまま。けれど顔は、出て行ったときよりも焼けて、だが無精ひげだらけの顔は少しやつれていた。
それでも間違いなく、彼は古代進だった。
だがその姿もあっという間に見えなくなってしまう。涙のせいだ。次から次へと勝手に湧き出してしまう涙が、雪の瞳が愛する人の顔を見るのを邪魔してしまう。瞬きしても瞬きしても、一瞬で涙に埋もれてしまうのだ。
一方進は、飛び出してきたものの、進の一歩手前で立ち止まったまま、動かなくなってしまった雪を、困ったような顔で見ていたが、ようやくゆっくりと口元を緩めて微笑んだ。優しくもすがすがしい笑顔だった。
「ただいま、雪……」
そしてゆっくりと一歩前に出て、雪に触れると、またゆっくりとその体を自分のほうへ抱き寄せた。
「ごめん……」
短くそうつぶやく進の声を、彼の胸の中で聞きながら、雪はただ小刻みに首を左右にふるだけだった。
後はただ抱きしめあった。お互いのぬくもりを心から温かいと感じながら、静かに、そして強く、愛しい人の体を大切に包むように……
by かずみさん
しばらくして、ようやく抱擁を解いた二人は互いをじっと見つめあった。
「おかえりなさい……」
雪が微笑んだ。その笑みが進を慈しみ包んでいく。進も微笑を返した。
「うん……ただいま」
進は思った。
――ここが俺の帰るところ、ここが俺の居場所……なんだ―― と。
肩を寄せ合って部屋に入る二人の背中は、温かな愛に包まれていた。
後日、進が重松に礼の電話と共に送付を依頼した、彼の遠い祖先の日記の最後には、こう記されていた。
大和と別れたあの日も、我が国が戦争で敗れたと知ったあの日も、自分はもう生きている意味がないと思った。けれど今、亡くした戦友(とも)を見送り、新しい時代の幕開けを見た私は、未来にも命が続いていくことを知った。
私はこれからも生きていこう。失った命よりも多くの新しい命を見るために…… 大和は永遠に我が心に生きているのだから。
僕はこれから、彼女と一緒に僕の人生を生きていく。遠くへ逝った皆が望んでいたように、未来に繋がる新しい命を、産み育てそして守っていこう。
さらばヤマト…… けれど僕は君を永遠に忘れはしない。
ヤマトよ、本当にありがとう……
『Departure〜彼らのスタートライン〜 2.俺とヤマトと彼女と人生』完
(背景:Atelier Paprika)