雲間から射す光 その日、彼はとても複雑な気持ちで家を飛び出した。 一昨日から降り続いた雨は明け方近くに止んだが、薄い雲はまだ空を覆っていたし。 道端に生える草の葉や花の上には、雫が乗ったままで、地面はまだまだぬかるんでいた。 じめじめとした空気を吸い込み、泥を跳ねながら、彼は愛馬を駆った。 少しでも、屋敷から離れた場所に居たかった。 少しだけ、考える時間が欲しかった。 その日、彼の家では新しい家族を迎える予定だった。 彼の腹違いの妹。 これが今、彼の胸中をざわつかせている原因だった。 その感情は、怒りに似ているようで、悲しみでもあった。 今は亡き実母に対する後ろめたさでもあり、父親への失望でもあった。 とにかく、その時の彼は、酷く混乱していたのだ。 彼はずっと、父親と母親の愛を信じていた。 いや、そのときも。 揺るぎながらも、疑いながらも、信じたいと思っていた。 そうでなければ、子爵家の跡取りとして以外の価値を、自身の中に見出せなかったのだ。 実は、彼は正妻の子ではない。 いわゆる私生児である。 彼の母親は流浪の民の出で、子爵家の跡取りであった父親とは、到底結ばれるはずもなかった。 しかも出会った当時、子爵には身分のしっかりした正妻がおり、女子ばかりとはいえ、子供も3人あった。 それでも、子爵と母親は恋に落ちてしまった。 添い遂げられぬと知りつつも契りをむすび、やがて彼が産まれた。 そして、母親が急逝すると、幼かった彼は、実の父親である子爵に引き取られたのだった。 繰り返すが、彼はずっと、父親と母親の間の愛を信じていた。 たとえ、妻子ある身であったのだとしても、そこには真実の愛があったのだと。 自分はその愛の結晶なのだと。 そう、彼は信じていたのだ。 しかし、ここにきて、事態は複雑化した。 それが、件の異母妹(いもうと)君の存在である。 彼女もまた、正妻の子ではない、私生児なのだ。 彼女の母親の希望により、二人は修道院で暮らしていたのだが、先日急逝してしまったのだという。 それで、彼女の将来を案じた父親が、このたび彼女を引き取る運びとなったのだ。 これまで彼は、二人の愛を純粋に信じてこれたのだが、さらに愛した者があったとなれば、話は別だ。 しかも、彼とは一つ違いの年の差だという。 子爵と彼女の母親に、どんな事情があったのか知らないが、彼が困惑するのも無理からぬことだった。 昨日今日、急に報らされたわけではなかったのだが、未だに彼は心の準備が整っていなかった。 それで、居たたまれなくなり、彼女の到着を待たずして、屋敷を飛び出してしまったのだった。 もうとっくに、彼女は屋敷に到着しているはずである。 どんな人物なのか、気にならないはずはなかったが、今更戻ることもできなかった。 彼が屋敷に居たたまれなかったのには、もう一つ理由がある。 彼の継母でもある、子爵夫人の存在である。 主人の希望で引き取ったとはいえ、正妻の子爵夫人が、このまま黙っているわけがない。 夫人は、夫の不実に諦観している風ではあったが、容認しているわけでもなかった。 また、自身が生粋の上流階級出であることから、自尊心と階級意識の強い人間でもあった。 そんな夫人が、流れ者の母を持つ彼の存在を疎ましく思わないはずがない。 しかも、正妻である自分の子を差し置いて、彼が子爵家の後継と目されているとなれば! 子爵の子種で唯一の男子とはいえ、夫人の心中を察するのは難しくない。 彼も、継母の自分を見つめる瞳が、時に殺気を感じるほど冷たい、ということに気付いてはいた。 彼はずっと、継母の顔色を伺い、継母の機嫌を損ねないよう接していた。 また、それでも夫人の嫌悪が強まるばかりなのを知ってからは、なるべく関わらないようにした。 或いは、夫人の方から避けていたのかもしれない。 そこに現れた、二人目の私生児。 子爵夫人がどう出るかを想像すれば、彼は気持ちが暗くなった。 屋敷を離れて、どれくらいの時間が経っただろうか。 どこへと向かうわけではなく、彼は馴染みの場所を行ったりきたりして、結構な時間を潰していた。 屋敷を出たときには、まだ雨上がりとはいえ雲もまだ分厚く、夜明け前のように暗かった。 そうしているうちに、雲は次第に薄くなり、太陽も一番の輝きでもって空を照らす頃。 彼は、子爵家の別邸近くにきていた。 自分の庭とまではいかないまでも、見知った場所。 いつのまにか足を踏み入れていたその森も、どこにつながっているかよく知っていた。 ほどなくして木々の連なりが途切れはじめ、新緑の香りに水の匂いが混じりはじめる。 森を完全に抜けると、目の前に広がったのは、小さくも清明な湖。 そこで彼は、世にも美しい光景と出会った。 さながらそれは、一幅の絵のようだった。 雲の切れ間から射しこんだ一すじの光が、薄霧にけぶる湖のほとりを照らしている。 その光の先に佇む一人の女。 しかし、自らを照らす光にあそぶようなそぶりはない。 ただじっとしていて、だからこそ、瑞々しい絵のように見えるのだった。 愛馬を降り、徒歩で彼女の元まで歩み寄れば、女はさっと警戒の色を浮かべた。 無理もないのだが、彼はその女に笑顔を向けてもらえなかったことに、少なからず落胆していた。 近づいて初めて気付いたのだが、彼の期待を裏切らず、女は大変に美しかった。 だが、彼を驚かせたのは、その美しさではなかった。 彼女は、彼と同じ年頃の少女だったのだ。 「……なんの、御用でしょう?」 清水が岩を打つような、涼やかな声音だった。 毅然と彼を見据える彼女の瞳は、萌え出たばかりの新芽が宝石になったかのような、鮮やかな緑色。 その瞳に見つめられれば、身体中の血液が顔に集まろうとしているのでは、と思わずにいられない。 「『なんの御用』もないさ。強いて言うなら、こいつの水飲み休憩ってトコかな」 そう言って彼は、おとなしくしている愛馬に視線を送った。 「お嬢さんこそ、こんなところで何をやっているんだ?」 「……水が……美しい湖だな、と思って……見ていただけです」 そう言いながら、彼女は再び水面に視線を落とした。 明け方まで雨が降っていたにも関わらず、水は比較的透き通って見えた。 普段は、もっと透き通っていることを、彼は彼女に教えてやりたかったのだが、言葉が出てこない。 そればかりではない。 あれもこれもと、間をつなげる話をしたいのだが、どれもこれも喉の入り口辺りで止まってしまう。 ついつい、彼女の動作一つ一つに目を奪われてしまうのだ。 「……わたくし、そろそろ失礼させていただきます」 ドクン、と彼の心臓が飛び跳ねた。 ここで別れたら、二度と出会えないかもしれない。 その事実が彼を焦らせる。 まだ、自身の名さえ告げていないのに、彼はつい彼女の名を尋ねてしまった。 礼節など、すっかり頭から抜け落ちてしまっていた。 「お嬢さん、せめて名を……」 「……ご存知……ないのですか?」 わずかに彼女の表情が翳った。 だが、何故彼女がそんなことを言うのか、彼女がそんな表情をするのか、彼には全くわからない。 まるで、彼女は彼を知っているかのようなのに。 「お嬢さんは、一体……?」 「……お許しください……」 彼が伸ばした手から逃げるように、少女は身を翻して走っていってしまった。 追うのは簡単だったはずだが、彼は微動だにできなかった。 許しを請うた最後の言葉を、拒絶、と彼は受け取ったのだ。 何も知らない彼は、それが彼女の彼に対する謝罪だとは、夢にも思わなかっただろう。 そのため彼は、彼女の背中が完全に森の中に消えてしまうまで、呆然としていた。 愁いを帯びた瞳が、その横顔が、彼の頭に強烈に焼きついて離れなかった。 何が、それほど彼女の瞳を暗くさせているのか。 屋敷へと戻る道すがら、彼は、名前を聞くことすらできなかった美しい少女のことで頭がいっぱいだった。 彼は望んだとおり、この後すぐ少女と再会を果たすこととなる。 ただ、その再会はけして甘美なものではなく、むしろ彼を苦しみの底に突き落とすこととなるのだが。 『彼』の名は、ブラウンシュヴァイク子爵家嫡男。 エドヴァルド・マルクグラーフ・フォン・ゼクト・ナーエ・ブラウンシュヴァイク。 そして『彼女』こそ、ブラウンシュヴァイク子爵家現当主の落とし種。 エドヴァルドの異母妹、フリーデリカ・フロイライン・ブラウンシュヴァイクであった。 |