私は田舎で育った。
私の郷里は鳥取県の山の中で、部落の戸数が約20戸という山村で中国山脈の真中の高い山にかこまれた淋しい村であった。
私はここで育ち、ここで星が好きになった。山陰地方というのは、文字通り天候の悪い地方でよく雨が降るが、晴れるとぬけるように碧い空に太陽が輝き、夜は星が、それはまことに原始の姿そのままに美しい光で輝き、私はついにそれのとりことなった。
今思うと私はこの星のあやしい魅力にとりつかれ、ついに道を踏みあやまったようであった。
本来ならば私は鳥取の山の中でお百姓さんになっていたはずで、こんなところでこんな原稿などを書いたりはしていないはずであった。
それはそれとしてその頃、私は無性に望遠鏡がほしかった。私のうちは望遠鏡などとうてい買うことのできない貧しい家であったけれど、しかしやっぱり望遠鏡がほしかった。
星が好きになると望遠鏡がほしくなる。これは今も昔も変わりはないが、昭和のはじめ頃はいまのように望遠鏡製作所がいくつもあり、デパートにいくといつでも手に入る時代とちがって、東京のG光学と京都のN製作所などが製作をはじめたばかりで、日本中で望遠鏡の製作所はこの二つだけであったと思う。私はこのメーカーからカタログを取りよせてむさぼり読んだ。
カタログを丸暗記してしまった。そしてその中の30円の望遠鏡がほしかったが、どうしてもそんな高価な望遠鏡は買えなかった。そして一生のうちには180円の大望遠鏡を買いたいものだと思った。
当時一番高価な望遠鏡は600円もしていたのであった。
そしていまごろならならば誰でも持っているような口径15センチの反射望遠鏡を持って観測している人はそのころ日本全国で数人ぐらいであった。
さて望遠鏡がほしくなった私は、あらゆる丸くて長いものはみな望遠鏡に見えた。
雨樋、電柱、丸太など細長い円筒形のものは全部望遠鏡に見えた。
ついにはレンズも何もない竹の筒を空に向け、望遠鏡はこうして筒先を星や太陽に向けるのであろうと思ったりした。
30円の望遠鏡の買えない私はついに自作することにした。
そして5銭、10銭の小遣いをためてそれが5円になったとき、シングルの28ミリ口径の対物レンズとラムスデン式の接眼レンズ20ミリを一個買った。
それを小刀で桐の丸太をけずって対物枠をつくり、ブリキ板をまげて鏡筒をつくり、架台や三脚をつくった。
約一ヶ月ばかりかかってその望遠鏡が完成した。完成したその日夕方の空は曇りであった。
夜中に起き出してみると、下弦の月が南の山の上にかかっていた。さっそく望遠鏡を持ち出して三脚をすえた。
とどろく胸をおさえて、先ず筒先を月の方向に向けた。そして接眼レンズに目を当て少し筒を上下に動かした。月が入ってきた。生まれてはじめてみる月面の噴火口、数えきれないその姿はいまもあざやかに記憶に残り、その後大きい望遠鏡を使う現在でもあの最初の月面を見た時の驚きはいまも忘れることは出来ない。
私の17歳ごろのことである。
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