「天文月報」1990年12月号(天文月報第83巻12号)より転載 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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星へものを尋ねて(わが感情天文学) 本田 実 |
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星が好きになり、その中でも彗星に心が動きはじめたのは、いつごろだったのだろうか。いま思えば1923年のはじめごろから星を意識しはじめたようにおもう。
中国山地の戸数20戸に足らない山のなかの小さな集落の一人の少年の暮らしに恵まれていたものはなにもなかったけれど、あるとすれば、それは自然だけであったであろう。 山が高くてその谷底で見上げる空は広くはないけれど、真黒に聳(そび)える山に縁どられた夜空に横たわる星空の、ことに銀河の美しさはまさに太古のそのまま原始の空で、なにもかも心をすいこまれるような思いで見上げたのが、星へのあこがれを強くし、将来ついに身をあやまるもとをなしたのであったのであろう。
星が好きになって、まず欲しくなったのは望遠境であった。田舎の貧しい農家の少年の買えるはずもない価格の望遠鏡ではあるけれど、やはりそれだけに猛烈に欲しいとおもった。当時日本にはふたつの望遠鏡のメーカーがあり、カタログをとりよせて全部暗記するほど繰り返し繰り返し読んだのであった。 買えないと分かっていればいるほど、星への思いが深くなり、なればなるほど、寝ても覚めても望遠鏡への思いは深くなるばかりであった。 わたしの生れたところはよく雨が降る。いやそれはそのころは何の不思議でもなく、そんなものだと思っていたが、後年いまのところに移り住んでみて、わたしを星好きにひきずりこんだあの土地が、かけがえもなく星のよく見えるところだったということだ。しかしその土地は、日本海から南下する湿った空気を、横たわる中国山地がせきとめてそのため雨が多く曇りの日が続き、それはそれは天気が悪いけれど、たまに晴れるとそれは見事な星空になった。あの銀河の濃淡が黒い嶺線の山に縁どられて、心も吸い込まれそうに。あれは「射手座」付近だったのであろう。わたしを誘い込むにはこれで十分であった。それが夜毎でなく、たまの合う瀬は、思いをますます深くしたように思う。 望遠鏡を買うことのできないわたしのできる観測というのは、流星の観測と黄道光の観測としか思いつかなかった。これらはどれも望遠鏡がなくてもそれなりに出来るものばかりであった。 |
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恩 師 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
田舎の山の谷間のひとりの少年は、たったひとりで星が好きになった。好きになると、おなじように星好きの人のことを知る機会ができてきた。そのころ知った人のなかでは、その後のわたしの人生に大きくかかわった人々が何人もいてくださる。 京都大学の山本一清先生、中村要先生、広瀬秀雄先生、清水真一氏、神田茂先生、木辺成磨氏、下保茂氏、小槇孝二郎先生、伊達英太郎氏、中野繁氏、渡辺(現・佐伯)恒夫氏、荒木健児氏、浅野英之助氏などであった。 京都大学の山本博士は天文同好会の会長であったし、中村氏には一度も接する機会がなかったが、わたしの今ももっとも敬愛する天文家である。 流星の観測を、いや、(観測)らしいと自分で勝手に思うことをやったのは、1932年4月22日のことであった。この夜は満月に近く明るい夜であったが、琴座の流星群を2時間がんばって、この群の星を5個記録したことであった。 この記録を同好会の流星課長の小槇先生に報告すると、その記録がはじめて会誌に載った。うれしくて、何回もくりかえし読んだ。それ以来この琴座群がもっとも親しい流れ星群になった。それから流れ星の観測に熱が入り、ひとときは他の誰よりも観測数の多かったこともあった。流星のつぎに、望遠鏡のないわたしは望遠鏡がなくてもすむ黄道光の観測を、渡辺恒夫さんの指導をうけて生意気にも始めた。そして荒木健児氏を知った。 黄道光の観測では、のちに台湾の阿里山まで観測にいったり、北海道の皆既日食の皆既中に黄道光が見えるかどうかとでかけたりした。 |
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28ミリ・シングルレンズ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
話を少しもどすと、やはり望遠鏡がどうしても欲しくてたまらず、雑誌の広告に載っていた、28ミリの口径のシングルのレンズと、25ミリのラムスデンのアイピースをやっとの思いで買うことにした。 対物が3円、接眼レンズが2円であった。 わたしにとっては当時高価な買い物であったし、また一生を通じて記念すべきスタートの買いものでもあったのだと今思う。 さてこのレンズをつかって組み立てた、すべて手作りの望遠鏡ではじめて見た下弦の月の、あの魂を吸い込まれるような美しさをいまもわすれない。 生れてはじめての経験が深くその人に後々まで刻み込むものは、あるいは人の一生を左右するものがあるかもしれないとも思う。 |
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彗星の話 |
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1930年11月中ごろだったと思う。 その頃読んでいた新聞の広告に、東京天文台の神田茂著として、「彗星の話」という本のことがでていた。田舎の山のなかの少年がこのような本を手に入れようと思えば、その方法はただひとつ。郵便局にでかけて行って振替をくんで出版元に送金するより方法がないが、その郵便局迄は片道8キロちかくあった。ある日その道を歩いて送金した。いまその本を開いてみると、12月25日に三省堂からうけとると書いている。 田舎の暗い裸電球の下にひもとくその本には、少年の心を深くゆさぶる誘惑に満ちた逃がれようもない魅惑の文字が書かれていた。 以下に「彗星の話」から引用してみると、 |
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「この表によって日本の発見数のいかに貧弱なるかを注意せよ。 日本の2個はともに周期彗星の再現である」 そしてまた次のように続いていく。
「彗星を発見することには更に重要な意味がある。天文学のごとき時々刻々移りゆく自然現象を研究の対象としている学科ではつねに起こりつつある種々の現象をありのままに記録してゆくことは、将来の研究上甚だ重要なことであって、彗星や新星のような特別な現象は一刻もはやくそれを見出して世界の学界に報告し、各専門の学者の研究問題の対象として学界へ提出することは彗星等の捜索者の任務で、もし捜索発見するものがなく、偶然の発見にのみ任せたならば、その現象は永久に学会に知られないかもしれず、また発見されたにしても研究の時機を失して天文学進歩の上からみて甚だ寒心すべき事なのである。 (中略)現代の観測天文学には、彗星、新星、変光星、流星等の捜索、発見または観測等少壮観測者にまつべきものが少なくないのである。本書の読者にして彗星の捜索に興味をもちこの仕事をなすに適当であると自覚する人があったならば、本邦ならびに世界天文学進歩発達のため将来この方面の仕事に従事して今まで新彗星の発見が唯の一個すらなかったという国辱を雪(そそ)いで続々彗星の発見を学界に報告し得る日の近き将来にきたらんことを希望するのである」 (「」内は「彗星の話」より引用) |
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人は本が目の前にあっても、必ずしもそれを読むものでもない。 しかしその本に書かれた内容によっては、その後のその人の一生の運命を変えるような重大な意味を持っているかも知れない。 わたしはそれが本というものだと思う。 人は一生にどれだけの本を読むだろうか。 ためになる本やならない本、ただ通り過ぎるだけの本が、いままでなんと多かったことか。 それらは良いにしろ悪いにしろなんらかの影響をわたしにあたえたけれど、この神田茂氏のこの「彗星」という本ほど、決定的なものを与えたものはなかったように思う。 その意味において、いま一つこの本から拾おう。 |
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「割合に短い間に多数の彗星を発見したのはペラインで、1895年11月から1902年8月まで7年弱の間 に13個を発見した。その中でも1896年11月から1898年3月までの1年半に発見された6個は引きつづいてペラインひとりの発見であった。 ‥‥‥発見が1886年から1890年に著しく多かった時はちょうど熱心家バーナードがこの方面にもっとも活動していたときであり、それについで1896〜1900年はペラインが続々と発見を報告していたときである。 このように熱心な捜索者があれば、新彗星の発見がよほど増していることは、探せばまだまだ新彗星を見出しうべきことを意味するものであろう……」 |
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さて、ことの次第と重大さは、田舎の一人の少年にもそれなりに分ることではあるけれど、口径28ミリ30倍の手製の望遠鏡しかもたない者になにができるというのであろうか。 しかし何ができるかというのであっても、この望遠鏡でも太陽の黒点も見えるし、木星の衛星だって見えるではないか。それならこの望遠鏡で見える彗星もあろうではないか。これしかないんだから、これでやるしかないじゃあないか……。 前の年の12月から1月2月3月のはじめごろまで雪が降る。4月になると山は一勢にけぶるように若芽になり、おわりごろになると山桜が咲き、苗代のころになる。そのころから28ミリの望遠鏡でいよいよ彗星さがしを始めた。 |
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みじめなスタート | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
いま思えば、知らないとはいえなんと無謀なことを始めたことかと。 しかし今だからまた思う。予備知識はなにもなく、星図なるものもなにも持たず、いや星図というもののあることさえしらない田舎のひとりの少年の彗星探しへの船出であったことにはちがいないと。 しかし、向かっていたところはどこであったであろうか。望遠鏡を向けていたところはどこであったであろうか。 それはまぎれもなく太古からいままでたくさんの彗星が現われては消えまた現われる、かつては、メシエやバーナードが活躍した同じ天空というフィールドであった。 舞台だけは新米もベテランもなく、世界の彗星さがしと同じ空であったということは一体どういうことであろうか。 さて、ある夜わたしの望遠鏡に彗星のように尾をひいたものが、かなり鮮明にうつった。 初めてこのようなものを見ることとて、スワッ彗星と大騒ぎをしたが、これは金星のかたわらに見たゴーストであったことがわかった。 みじめなスタートではあった。 |
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南十字星とともに | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
星図をもたない彗星さがしでは、ひとつこんな思い出がある。 1941年から1946年まで、わたしはひとりの兵士としてマライ半島の戦場にいた。はじめて見る南十字星や、そこによこたわる銀河やマゼラン星雲は星好きのわたしの心を夜毎楽しませるものであった。 ある日わたしは戦場で、こわして捨てられている8cmぐらいの望遠鏡の対物レンズを拾った。そのレンズをつかって20倍の望遠鏡を組み立て、それで彗星を発見しようと思いたったのである。 戦場の常として自分の居場所を何処にも伝えることができないので、新しい星を発見することによってあるいはそれを知らせることができるかもしれないと思いたったのであった。(注=居場所を妻に知らせること) わたし達の駐屯するシンガポール島のチャンギー地区は、ゴム林に囲まれてこれが戦地かと思える静かなたたずまいであった。そこの宿舎の庭に望遠鏡を据えたのであった。 宿舎は一日に一度ははげしいスコールに洗われる。 スコールが通り過ぎると空は美しく晴れて、夜は見事な観測日和になるのであった。
さてしかし、彗星を発見するといっても比較する星図がない。星図がないとすると彗星を見分ける方法はただひとつ。これから出会う彗星らしい星団や星雲に出会えば、それを必ず、少なくとも2回以上観測して、それが移動するかどうかを確かめて彗星か星雲かの判断をしなければならないことであった。そのような手間のかかる方法しか彗星を見つける方法はないようであった。 捜索をはじめたある夜であった。望遠鏡の視野のなかに、ひとつの9等ぐらいの星雲のような天体がはいってきた。しかもそれは観測をはじめて、最初にはいってきた星雲状の天体であった。 やがてその天体はゴム林のかなたに没してしまったのであったが、とにかく怪しい天体は翌日をまって2回調べてみなければ彗星かどうか分からないので、翌日をまつことにしたのであった。 翌日も空はよく晴れた。待ち遠しい時間がすぎて、南国の空に陽は落ちてあの星の見える時間がきた。おどる心をおさえ、しずかに昨日の位置に望遠鏡を向けてみると、なんとそれが動いているではないか。しばらく、呆然とした。意識が蘇って、それが動いているとなれば彗星ではないか、彗星にちがいないとすれば…、と思うまでにはしばらくの時間がかかった。 この星のことは、このあと何人もの人の好意がはたらいて、シンガポールから東京天文台まで記録が運ばれたが、新彗星ではなくてグリグ・スケレルプ周期彗星であることが後になってわかった。 手元に比較する星図もないのに彗星を発見しようなどという無謀な思いで始めたこのことが、その望遠鏡に最初にはいってきたものが彗星であったとは、今思い出しても不思議でならない。 |
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彗星のあでやかな姿 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1946年6月、日本内地にわたしは帰ってきた。そして、それからいくつかの彗星にかかわりあいをもつことになった。
1948年ごろわたしは、15cmの彗星さがし用につかっていた望遠鏡を下宿の裏山の頂きに置いていた。 その夜松林のなかの小道を足元をちいさな灯りで照らしながら登っていた。と、目先の暗闇からばたばたと大きな山鳥が飛び立っていった。その音におどろいて胸をおさえながら山小屋について屋根を開いた。そして見上げた空のペルセウス座のなかに1948g彗星が肉眼で見える4等ぐらいの明るさで長い尾を引いて輝いていた。これは、いままでわたしが肉眼で出会ったただ一つの星であるが、このときのあの山鳥の闇の中のはげしい羽ばたきと、その後でペルセウス座に見たこのホンダ・ベルナスコニ彗星の、あのあでやかな姿をいっしょにいつも思い出す。 1965年のイケヤ・セキ彗星は、発見された9月19日の同じ時刻、台風一過の美しい空にわたしもその空を見ていた。しかし、わたしの望遠鏡の前には、ちょうどその位置にとなりのお家のこんもりとした庭木があった。 この庭木のこんもりとした黒い陰をいまも時おり思い出すのである。 1934年の12月ヘルクレス座に現われた明るい新星は、夜毎にこと座のヴェガの近くの空にあやしく輝いて、星が好きになりはじめたころの私の心をうばっていった。それが、新星というものに深い関心をもつようになったそもそものはじめだったように思う。 1936年6月のとかげ座新星、それから同じ年の10月に現われた射手座の新星、このふたつは日本人の発見であっただけに心をときめかせたものであった。そしていつのほどにか、わたしもと思うようになったのであった。 その後にもまた、1967年いるか座に現われたし、1975年の白鳥座の星などは圧巻でもあった。 |
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迎えるのはたったひとり | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
あれやこれや、夜毎空が晴れて山小屋の屋根をあけると、星のほうでそこに待っていてくれる。 なにもしつらえなくても星のほうで待っていてくれるなんて、なんともったいないことか。 ほんものが、人に例えれば、本人がそこに迎えてくれるのです。 それは最高の歓迎ではないですか。そのような人達に、なにを観測だ、検索だであろうか。 ただただ星に教えてもらえばよいと思う。 悠久の空にある星々や彗星や新星にものを尋ねる、このことさえも謙虚さを欠き、思い上がりにもおもえるのに、今夜も次々と星は昇り、わが山小屋を訪れてくれる……。迎えるのは、たった一人だと言うのに。 |
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遺稿中の見出しと注、説明は管理人 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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本田さんからの最後の便り |
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香西洋樹さん(現・佐治天文台長、元国立天文台)のお話 |
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本田さんは1913年2月26日のお生まれだから、行年77歳と、ちょうど半年ということになる。 本田さん、といえば誰れでもが“ああ、彗星の!”という。財団法人・倉敷天文台の台長職(といっても職員は台長1人?)として、また財団法人・若竹の園保育園の園長として激務をこなして来られた。そのかたわら、私設の観測所「星尋山荘」を倉敷市の北・賀陽町の山中に設け、ほとんど毎晴夜観測に出かけられ、星にものを尋ねる生活をしておられた。 私の手元には、1通の速達封書がある。その封書の表書き宛名は、国立天文台・太陽系情報室・香西洋樹と、墨痕あざやかな毛筆書き。倉敷郵便局のスタンプは8月25日であり、三鷹局への到着日付は8月26日である。 8月26日は日曜日で、郵便物の配達はなく、天文台へ配達されたのは翌27日月曜日のことであった。速達の内容は8月23日の21時22分から21時32分までの問に露出した“たて座”の写真の中に不審な星像があるということで“同封の変光星を教えて下さいませんか”と記してある。 本田さんは常々、「星にものを尋ねているといろいろなことがあります」といっておられた。今回も同様で、この様なお問い合せを、毎年10〜20回近くいただいて来た。今回のお間合せに対しては御葬儀の際に(たて座の変光星385番だと)御報告させていただいた。
さて、ここ(「天文月報」)に掲載させていただいた本田さんの一文は、新星研究者として、また最近ではリラ一彗星(1988a)の発見でも知られるW.Liller氏の依頼により、Liller氏の著書の中に英訳されて掲載されるはずの随筆である。 英訳されて出版されたとしても、日本では多くの方々の目にふれる機会は少いであろう。そしてまた、多分本田さんの絶筆かも知れない。そういうわけで奥様のお許しを得て、「天文月報」1990年12月号(天文月報第83巻12号)に掲載させていただいた。執筆の日付は、つまびらかではないが、1990年6月上旬であることは間違いない。 本田さんの最期は、本当に安らかであった由。この悲報に接し、多くの天文学の愛好者が涙と共に葬儀に参列した。本田さんの法名は徳星院彗光実道居士である。 |
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「天文月報」1990年12月号(天文月報第83巻12号)より転載=転載bf01-2 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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