「ノーベル賞と物質科学」  白川英樹(筑波大学名誉教授)

2001.2.9.北海道大学学術講演会 (MD録音・写真 石川昌司)

(このページは白川英樹博士ご本人から許可を得ています。講演会の主催者である北海道大学および北海道新聞社からは黙認する旨を確認しています。)

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 みなさん,こんにちは。こんなに沢山のみなさんに,私の話を聴きに集まっていただけるとはとても思いませんでした。本当のことを言うと,私は北海道大学の理学部で,先生方あるいは学生のみなさんとお話をするくらいのつもりで,長田先生(北大教授,高分子化学)からの講演依頼の話を引き受けたのですが,だんだん事が大きくなっちゃって,こんな広いところに上がって,かなりとまどっていまして,大変なことになったと(会場笑),いうわけです。

 私は昨年の3月に退官をいたしましたのでもう肩書きも何もないのですが,「大学が世の中でいかにあるべきか」ということについては常々考えていたのです。俗に,大学は学問をするところで象牙の塔だ,というようなことが昔言われていました。ところがその後,大学というところは象牙の塔であってはならない,という風に言われるようになって,誰からもあまりそういう話を聞くことは無くなったのですけれども,私自身は,やはり大学というところは象牙の塔だと思っているのです。学問をするところだと。学問を通じて,新たな学問を育てるということと,次の世代を担う人たちを育てるという役目があったわけです。それでは,なぜ象牙の塔がいけないのかというと,結局,塔の中に教官自身が閉じこもってしまい,中だけですべてをすまそうというようなことがあったからで,大学というところは学問をするところだけれども,決して世間から遊離したところではなくて,むしろ,より社会に密着をした存在でなければならないということです。科学についても同じようなことで,今日は少し難しい話になるかも知れませんけれども,なるべくわかりやすく話をするつもりでいます。

 言い忘れましたけれども,こういう機会というのは,長田先生から,ノーベル賞が決まったときに話があって,その時にはまだそんなに色々な方から申し出がなくて,それで引き受けたのです。それともうひとつは,長田先生が非常にうまいことを言われからです。10月10日に発表があって,11日から色々な騒ぎがあったのですけれども,割と早くから電子メールをいただいて,それで,少し先でもいいから雪祭りを見学がてらにどうぞということで(笑),私はついそれに引っかかってしまったのです。それで,その時に考えたタイトルというのが,みなさんの手元にパンフレットがあるように「ノーベル賞と物質科学」ということなのですが,それは先ほども申し上げましたように,北海道大学の理学部でお話をするというつもりで考えたタイトルでした。

 OHPを使うというのは,1クラス50人とか100人とか,せいぜい200〜300人くらいの人に話をするには非常にいいのですが,これだけ大勢の方たちにお話をする道具ではないものですから,なるべく大きな字で書いてはきたのですけれども,あるいは後ろのみなさんには少し見えないかも知れません。まずはお詫びをいたします。

 「ノーベル賞と物質科学」ということで,5つほどの話を考えてみました。まずはノーベル賞をいただいた前後の話。次に導電性高分子とは何だろうということ。それからこういうものの研究というのは,最近使われ出したのですけれども,物質科学と呼ばれていますが,物質科学とはどういうものか。それから科学を研究するということには,創造性と独創性が大切だと言われていますが,そのことにちょっと触れます。それから,最後に,これからの科学技術と社会との関係について,私の考えということで述べてみたいと思います。

 10月10日に発表があったわけですけれども,毎年ノーベル賞の発表される日というのは決まっていまして,10月10日に物理学賞と化学賞の発表があるのです。日本とスウェーデンでは時間差が8時間ほどありますから,むこうの午後発表があると,日本ではだいたい夜の10時あるいは10時半になります。これは,後から新聞記者や色々な方から聴いた話ですが,ノーベル財団は最近はやりのWebページで同時に発表するのだそうで,新聞各社は,ノーベル財団のWebページを表示させておいて,その時間になると更新を繰り返しながら,常に新しい情報を取り入れて,それでその日の発表を待つのだそうです。そのことを私が知ったのは,11日の午後に,スウェーデン大使の方が来られて,実際には大使は日本国外に出ておられたので代理の方が来られたのですが,その方がノーベル賞の受賞の知らせを持ってこられるのかなと思っていましたら,実際には,直接ノーベル財団あるいはスウェーデンの王立科学アカデミーとは関係なくて,単にお祝いに来られただけで,いただいたのは花束だけというわけで(会場笑),何か大したものをいただけるものと思っていましたらちょっと拍子はずれで,やっぱりどうも分からないということだったのですが,Webのページの上ではすでに発表されていて,新聞各社はそのことを十分承知して電話をかけてこられたということなのです。そのノーベル財団のWebページがこれです(OHP)。

 これが2000年度のノーベル化学賞の発表で,これで王立科学アカデミーは,Heeger先生,MacDiamid先生,そして私に導電性高分子の発展ということに対して賞を与える,というようなことが書いてあります。よく見ると,ちょっと小さくてわかりませんけれども,私が日本人であるということで,新聞発表のための日本語のページが用意されておりました。それが,このページです(OHP)。先ほどの日本の旗をクリックするとこのページに移るわけですけれども,スウェーデン王立科学アカデミーは2000年のノーベル化学賞を電導性ポリマーの発見と開発に対して以下の3人に授与することに決定した,と書いてあります。向こうの,多少日本語の出来る方が翻訳したのでしょうか,「科学において重要な位置を示める」なんていう,本当はここは「占」の字を使うのが正しいと思うのですけれども(会場笑)。そういうことで,Webページで受賞の知らせを行っているということを,私は自分が受賞して初めて知ったのですけれども,しばらくしてからWebページを見て,ああなるほどな,と思ったのです。先ほども話しましたように,私自身は大学を退官した後でしたので,もうノーベル賞をいただくということはあるまいと思っていたのです。ですから,ある意味では,突然にそういう知らせがあったということになります。実際,10月10日にノーベル財団が発表を行うということも,以前は覚えていたこともありましたが,昨年はそんなことはすっかり忘れてしまって,前々日までは旅行に行っていたりして,帰ってきたばかりだったのです。日本の報道関係者も,最初はどこの誰かわからなくて,すごく慌てたみたいですけれども,私はそれ以上に慌てました(会場笑)。例えば福井先生の受賞の時は割と身近に感じていましたので,世の中が大騒ぎになるということは分かっていたので,こんな騒ぎになるのは本当のところは御免こうむるという気分だったものですから,ある意味では当惑していたわけです。ただ,突然かどうかということに関しては,もう何年前でしょうか10年か15年前にノーベル化学賞に推薦していただいたこともありましたので,私自身はそういうことは十分承知していたのです。

 それともうひとつは,ノーベル賞候補というかノーベル賞の対象となる重要な研究テーマに関して,ノーベル財団はたびたびいわゆるノーベルシンポジウムというシンポジウムを開催していました。導電性高分子についても,1991年の6月13日から18日まで,スウェーデンのストックホルムからずっと北の北極圏に近い町でシンポジウムをやりました。そのシンポジウムは第81回だったものですから,NS81と呼ばれました。ここには世界各国から40人ほどの導電性高分子を研究している研究者が集まって,私もその一人ということで参加しました。導電性高分子あるいは高分子化学というのは日本ではずいぶん盛んに研究されている学問領域で,研究人口もたくさんいるので,40人のうち6人が日本人でした。福井謙一先生も招待されていたのですけれども,ちょっと色々な事で参加をされませんでした。したがって招待されたのは7人ということです。これは突然決まったのではなくて,その2年前の1989年の5月にはノーベル財団のシンポジウム委員会で開催が決定され,その2年後に開催されたのです。この時に地元の新聞社が来まして,写真を撮りました。その時の写真がこれです(OHP)。左は,アラン・MacDiamid先生,右はアラン・Heeger先生です。この写真は地元の新聞社がそのまま持っていたそうで,10月10日に3人の受賞が決まったときに,ノーベル財団がすぐこの新聞社からこの写真の版権を買い取ったのだそうです。左側に大きな見出しがあるのですが,私はスウェーデン語は全然分かりませんので,最初の頃は何のことか気にも止めてなかったのですが,ここには将来,ノーベル化学賞を受賞する候補者であるというようなことが書かれているらしいのです。それにしても9年という長い時間がかかったわけですけれども,やはりスウェーデンの王立アカデミーは,その後の導電性高分子の科学あるいは化学上の位置,またはその後の発展ということをじっくり見ていた,ということだろうと思います。

 そういうわけで12月にストックホルムに,ノーベル賞を受賞するために行って来ましたけれども,12月8日がノーベル賞受賞の記念講演をするということで,午後それぞれ1時間づつ時間をいただいて,いわゆるノーベル・レクチャーをやりました。3人話が終わりまして,最後にもう一度壇上に呼び上げられまして,昔の写真を出してお祝いをしていいただいたというわけです。一番右側におられる人は,この日の司会と授賞式には受賞理由の説明をされたビエン先生です。この先生がノーベル化学賞の選考委員長なのだそうです。

 Heeger先生は物理学者です。これは後でちょっと触れたいと思いますが,物理学者に化学賞ということでどう思っているかなと,ストックホルムで話を伺ったら,全く意に介していないのですね。物理学賞はそうでもないのですが,化学賞というのはわりと科学の広い概念で受賞対象を探しているということもあって,過去にも純粋な物理学者が化学賞を取っているということもあるし,とりわけ私たちが受賞対象となった導電性高分子の研究領域というのは,化学とか物理とか,従来の縦で割った学問には少し入りきらない領域なのです。それは先ほど触れました「物質科学」ということです。それから,MacDiamid先生は,1927年生まれですから現在74歳です。それからHeeger先生は私と同じ1936年生まれですから64歳です。

 10日の授賞式で国王からいただくのはメダルと賞状の2つです。その後,11日か12日でしょうか,ノーベル財団に直接行きまして,そこで賞金をいただくのです。正確には,賞金をいただく契約書にサインをするのです。この3つがノーベル賞の3点セットみたいになっています。いただいたメダルの表側は,アルフレッド・ノーベルの横顔になっています。これは,ラテン語の数字なんでしょうか,1833年生まれで1896年に亡くなったと書いてあります。彼は遺言を書いて,前の年に人類に大きな貢献をした人にこの賞を与えるということで,物理学賞,化学賞,生理・医学賞,それから文学賞,平和賞,というのを創ったということです。色々ないきさつがあったようで,実際には与えられたのは1901年からですから,私が2000年度,つまり20世紀最後の年に100年目の記念すべき賞をいただいたというわけです。ここに,このメダルを作った人の名前が書いてあるのですけれども,1902年にこのメダルが最初にデザインされたのだそうです。裏側はなかなか意味のあるモチーフが描かれているのです。2人の女神がいて,1人は雲の上でベールをかぶった女神で,これは自然の女神なのだそうです。もう一人は科学の女神でベールを剥ぎ取ろうとしている。自然を明らかにする行為が科学であるということなのだそうです。ここに受賞者の名前,すなわち私の名前が刻まれています。化学賞,物理学賞は多分同じデザインが1902年から延々と続いているようです。

 国王からいただいたもうひとつのものが賞状で,日本で賞状というと1枚の紙しか思い浮かべられないのですが,向こうの賞状というのは,片側だけでもA4くらいの大きさの2つ折りできる皮で表装された立派なものなのです。これはスウェーデン語で書かれてあって,ここに金文字でノーベル・プライスだろうと思いますが,書かれていて,私の名前と共同受賞者の名前が書かれています。すべて手書きです。絵を描いた人,それから字を書いた人の名前も書いてあります。

 導電性高分子の話をしたいと思います。導電性高分子というのは,すごく常識に反しています。つまりプラスチックというのは私たちの生活に入り込んでいて,これもプラスチックですが,すべて電気の絶縁体です。それが,金属とほとんど変わらないくらいに電気をよく流すものを見つけたということで,非常に独創的な発明をしたととらえられるかも知れません。しかし,実際には,もしかしたら有機物にも電気が通るかも知れない,と考えた人は,もう20世紀のはじめにはいたのです。それから,もしこういう分子構造にすると金属になるかも知れないという理論は20世紀の半ばには論文が出ていました。アイデアとしては急に出てきたものではないのです。ところで身の回りのプラスチックにどんなものがあるかというと,こんなものがあります。ポリエチとかポリスチとかいうのは,ポリエチレン,ポリスチレンです。塩ビとはポリ塩化ビニルです。その他,アクリル樹脂とか,PETという飲み物の容器に使われているものは,ポリエチレンテレフタレートの頭文字をとっているわけです。その他に商品名として,ナイロンとかテフロンとか色々あるわけです。これらはすべて電気の絶縁体で,何故絶縁体かというと炭素と炭素の結合が飽和結合だからです。つまり炭素の持っている電子の全部が隣の原子との結合に使われてしまっているわけです。ですから金属のように,結晶をつくるときに電子をひとつとかふたつとか,自分のところから放り出してしまって,それがどの原子にも属さないような状態,つまり自由電子と呼んでいますけれども,そういった自由電子が全くない絶縁体だというわけです。

 それじゃ,どうして導電性高分子あるいは電気を通すプラスチックができたのかというと,それには2つの条件があります。よく必要十分条件といいますね。必要条件は,共約系高分子であること。共約系とはどういうことかというと,単結合と二重結合が交互につながったような高分子を共約系高分子といいます。しかし,導電性高分子を私たちが見つけたのは1977年ですが,それ以前にすでにある種の共約系高分子は作られていて,エンジニアリング・プラスチックとしてジュポンが商品化していました。ですから私たちが初めて共約系高分子をつくったというわけではないのですが,ただ,彼らは電導性高分子の十分条件を知らなかったのです。十分条件とはドーピングです。このドーピングというのは,この共約系高分子から電子を引き抜いたり与えたりするような化学反応のことを言います。世間では,オリンピックの選手が,いわゆる興奮剤を使って記録を伸ばすというようなことでドーピングという言葉を知っていますけれども,ある意味では同じようなことです。そういう必要にしてかつ十分な条件を満たすようなものを,もう少し図で説明したいと思います(OHP)。

 必ずしも正確な表現をしているわけではないのですけれども,この青い玉が炭素原子です。黄色い原子が水素原子です。ですから,CH,CH,というのがずっとつながっている。少し大きなピンク色に色づけしているのはパイ電子です。先ほどの隣の原子との結合のために使われている電子とは少し性格が違っている電子です。ある意味では,パイ電子の隣同士を,難しい言い方でいうと,波動関数を重複させて結合を作っている,という言い方をするのですが,ここは二重結合,ここは単結合,ということになるわけです。実際にはパイ電子は丸いわけではなくて,もっと空間に広がっています。これが,ポリアセチレンです。元々はここがひとつの単位になっていて,C2H2のCの間が三重結合になっているのですけれども,触媒が三重結合を開いて,隣のアセチレンと結合する。そういうことによって二重結合と単結合が交互に出来るというわけです。高校で化学を習った人は,こういう二重結合は自由回転しないから2つの異性体があるということを学んだと思いますが,トランス型とシス型という2つの異性体があります。

 実際にはどんなものになるかというと,こんな薄い膜状に合成することができるのです。これは幅が5cmで長さが20cmくらいでしょうか。合成したものを短冊形に切ったわけですが,なかなか写真に取りにくいのです。表面が金属光沢をしていて光を反射する。アルミホイルと同じで,反射光が強い。何故反射をするかというと,先ほどお見せした,まだドーピングはしていませんからこの中には自由電子はないのですが,このパイ電子が空間に大きく広がっているものですからある程度自由電子的な性格を持っていて,この電子の広がりが,外から入ってくる電磁波を強く反射します。そういうわけでこんなにピカピカなフィルムができるというわけです。いかにも電気が通りそうなのですけれども,これは必要条件を満たしているだけで,まだ十分条件を満たしていない。これに,ヨウ素とかリチウムとかナトリウムとか,そういうヨウ素のような電子を取り易いもの,アルカリ金属のような電子を相手に与えやすいもの,そういうものを入れると金属になるというわけです。

 じゃあ,導電性プラスチックというのは何に使えるかということがありますけれども,ちょっとたくさん書きすぎました。といういことはそれだけ応用の広がりがあるということです。3つに分けると,現在使われているもの,開発中のもの,将来開発されるだろうものになります。

 私たちの目にはなかなか見えにくいのですけれども,みなさんが持っている携帯電話のメモリーをバックアップする電池の,小さなツメの先ほどの電極は導電性高分子から出来ています。私たちはそれをプラスチック電池と呼んでいます。その他に電子回路中に一時的に電気を貯めておく素子がたくさん使われています。コンデンサーと呼ばれているものです。これは日本の独壇場で,5社の売り上げが年間1000億円に達するのだそうです。その他,透明な電極とか,電磁波を漏らさないようなフィルムとか,帯電防止剤とか,日本ではあまり言われないのですけれども,夏の強い太陽光線を遮るスマートウィンドウというのがアメリカに行くとよく聞かれますが,これは2枚のガラスの間に導電性高分子を挟んであって,光が当たると色が濃くなって透過光を押さえるようになっているガラスです。

 それから,開発中のものとしては,発光ダイオードとか携帯電話やミニテレビの表示画面。今では液晶表示の装置が使われていますが,液晶表示というのは暗いところでは見えないのです。裏から光を当ててやる必要があるので,割と小さくはできるのだけれども無駄な電気をどうしても使うのですが,この発光素子を使うと自ら光りますので暗いところでも見えるということです。その他に電子素子ですね。トランジスタとかダイオードとか,それから太陽電池とか。これらは開発中のものです。

 それから将来のものですが,これはノーベル財団のWebからそのまま取ってきた言い方ですけれども,分子エレクトロニクスの起爆剤になることは明らかだ,という言い方があります。どういうことかと言いますと,先ほど二重結合と単結合を繰り返したポリアセチレンの分子構造をお見せしましたが,あれをドーピングしますと,分子そのものが電気を通すわけです。つまり分子1本あれば電線になる。単に電線になるだけじゃなくて,一方からしか通さないような,例えば右から左にしか電気を通さないような構造のものをつくることも可能だといわれています。そうするとひとつの分子だけでダイオードが出来る。そのダイオードを組み合わせればトランジスタができるというわけで,分子トランジスタといわれるものが出来るわけです。そういうものを組み合わせますと,分子でコンピュータが出来る。いわゆる分子コンピュータですね。そういうものを総称して分子エレクトロニクスと言うのですけれども,これがどうやら見えてきたということがあって,スウェーデンの科学アカデミーが非常に注目しているというわけです。実際に,東芝がそろそろこのエレクトロルミネッセンスを使った,携帯用のフルカラーの表示装置をここ2・3年以内に実用化するというようなことが,今朝の日本経済新聞に載っていました。今は緑色の単色なのですが,数ヶ月以内にはフルカラーの試作品が出来る,数年の内には製品化できるというわけで,携帯電話や携帯の情報端末なんかには使われるだろうということです。

 ところで,このノーベル化学賞の3人に共通するものは何なのでしょうか。先ほども話しましたけれども,Heeger先生は物理学者です。もう少し細かく言いますと固体物理学という学問領域を研究している先生です。MacDiamid先生は化学者ですけれども,無機化学を主として勉強され研究されてきた人です。私自身は高分子化学者であるつもりです。同じ化学でも,無機化学であり有機化学であるわけで,今までの縦割りの学問領域では全然別の領域の研究をしていたことになるのですけれども,じゃあ3人の共通項は何かというと,結局はこの物質科学ということなのです。高分子化学というのは,そんなに古くから使われていた言葉ではなくて,物質科学と言うときに,間違って物質という言葉の方に重きを置かれて,物質科学は化学だと思っていらっしゃる方がいるかと思いますが,それはちょっと見当違いで,実は物質科学は,物理学や化学や生物学にもまたがる総合科学なのです。その中味は,新しい物質を作る,評価をする,それで利用する,そういうことをカバーする新しい学問だと考えていただいてよろしいだろうと思います。まだまだそんなに世間で認知されているわけではないのですけれども,私はノーベル賞をいただいた後,文化勲章と文化功労者をいただいたのですが,そのときに私についた肩書きというか,専門領域が,物質科学という言葉で,誰が決めたのかは知りませんが,私としてはむしろ従来の高分子化学とか有機化学とか言ってもらった方が嬉しいことは嬉しかったのですが,別の意味で物質科学という領域を認知していただいたきっかけになったのじゃないかとたいへん嬉しく思いました。

 時間もなくなってきましたが,次に科学とは何なのだろうということを考えてみます。普通科学というと,狭い意味では自然科学なのですが,社会科学もあれば人文科学もあるということで,必ずしも科学というのはいわゆる理科系ということではないということを改めて認識していただきたいと思います。難しいことをいうと,科学とは普遍的真理や法則の発見を目的とした経験的に実証可能な学問領域のことです。経験的に実証可能という点が大切です。例えば誰かがオバケを見たと言ったとします。オバケというのはいるのだ,と。しかし,それはもしかしたら,主観に基づくものかも知れない。ですから第三者が経験的に実証しなければそれは存在したとは言えないのです。したがって,体系的な知識の中にオバケを組み込むことは出来ないというわけです。

 それともうひとつは,科学の世界には国境はないのだと言われます。科学の成果というのは国際社会の共通資産であるというわけです。私は科学者だけではないと思いますが,科学者はとりわけ国際的に通用する職業です。国際的に通用するとなると,日本語だけでは通用しないので,どうしても英語を勉強しなければならないことになります。ところが,日本での英語の教育というのは,文法から始まってしまうということで,コミュニケーションをとるということになると今の私でもちょっと抵抗があるくらいです。私は,英語については苦い思い出がありまして,中学校の何年生からか英語を習いはじめたときに,英語の試験で,月曜日から始まって日曜日までの7つの曜日と,1月から始まって12月までの月の名前を書きなさいという問題が出ることになって,私はしめたと思って,全部きれいに,スペルも絶対に間違わないように書いて,これでめったにもらえない100点をもらえると思っていたのです。ところが何週間かたって,答案が返ってきて,見たら0点なのです。愕然としました。スペルは間違いないのにです。僕はもう暗澹たる気持ちで,これだけは先生に聞かなくちゃいけないと思って,先生のところに聞きに行きました。先生は「週の名前や月の名前は固有名詞です。固有名詞は大文字で始まります。あなたはみんな小文字で書いてきたでしょ?それでは点はやれません。」と言われたのです。会話するときに,これは大文字であるというようなことは考えなくてもいいはずなのですけれども(会場笑)。それで僕はこんな試験は試験じゃないだろうと。人を陥れる罠みたいで(会場笑)。その後,私は大学で教えるようになって,私自身も試験を行うようになったのですけれども,試験をするときにはそういうことのないように考えながら試験を作るということをやってきたのですが,英語の教育というのももっともっと考えていただかなくちゃならないかな,と思っています。

 それで,研究とは何かというと,科学者は研究をし,その研究の成果が国際的な資産になるということですが,辞書を見ると「ものごとを深く調べて真理を明らかにすること」と書いてあります。やはり,知的な好奇心,どうして?何故か?ということが最初にくるのです。それから,独創性とか創造性とかいうことがよく言われます。これも辞書を調べてみますと「模倣によらず自分一人の考えで独特なものをつくりだすこと」というようなことが書いてあります。実際には,先ほど導電性高分子というものは突然独創的に出てきたものじゃなくて,先人がすでに言っていたことを実現したのですから,ある意味では実現できただけ,ということもできます。つまり,先人の努力の積み重ねの上に成熟したものを独創性ということができる。それから創造性ということが言葉の上では違うのですが,やはり自分の考えや技術などで初めて作り出すという意味があるわけです。独創性や創造性に富んだ人というのは,科学者だけに限らず,個性が豊かな人間であるだろうと思います。ところが,日本の社会の中では,個性豊かな人間というのは,最も受け入れられないタイプの性格なのではないかと思います。

 それに対して,ヨーロッパやアメリカでは個人主義ということがよく言われます。個人主義的な社会の方が独創的な研究者を生み出す土壌があるというわけです。実ははっきりさせとかなくてはいけないのは,個人主義というのは,自己中心主義ではないのだということです。そこら辺がちょっとなかなか理解されていないというところがあるわけです。例えば,今年の成人式で問題になった爆竹を投げつけるとか,会場に陣取って酒盛りをするとかいうのは,あれは個人主義ではなくて自己中心的な考え方ですね。これも今朝の新聞ですが,朝日新聞の朝刊に,衆議院の憲法調査会が昨日あったそうで,そこで前東北大学学長で,今,岩手県立大学学長の西澤潤一先生が,個人主義と利己主義を線引きできないのが社会の色々な問題の原因なのではないか,という問題提起をされています。まさに私の言いたいことも個人主義は自己中心主義とは違うということです。

 私自身はノーベル賞をいただくまえに,大学のパンフレットの中で「大学で学ぶこと」と題して,こんなことを書いているのです。人は生まれながらに認知力や洞察力や好奇心や探求心などを持っている。持って生まれたこれらの能力は磨かなければ年をとるに従って急速に退化する。大学はこれらの能力に磨きをかける場であるということを書きました。この大学というのは,大学に限らないのであって,高校でもそうだし,中学でもそうだし,小学校でもそうだし,あるいは最近言われるようになった生涯教育でもそうで,生涯を通してこれらの能力に磨きをかけなければならないということです。京都大学の医学部に本庶 佑(ほんじょ たすく)先生という方がいらっしゃいます。彼が昨年の秋にネット上で公開討論をやったのです。独創性,独創的研究とは何かというネット討論です。この中で,9月6日にかなり長文の意見を寄せられて, 「私は教室の若い人に優れた研究者になるための6つの「C」 を説いている。すなわち,好奇心 (curiosity) を大切にして, 勇気(courage)を持って困難な問題に挑戦すること(challenge)。 必ずできるという自信(confidence)を持って,全精力を集中 (concentration)し,そして諦めずに継続すること(continuation)。 その中でも最も重要なのは,curiosity, challenge, continuation の3Cである。これが凡人でも優れた独創的と言われる研究を 仕上げるための要素であると私は考える。」 と書かれました。私がノーベル賞をいただきにストックホルムに行っているときにも,3人の化学賞受賞者にインタビューがあったのですが,インタビュアーが,研究を行うための原動力は何か,というようなことを聞いたときに,私は常々「こだわり」というようなことを言っているのですが,Heeger先生は一言の下に,persistence(固執,持久,執拗,耐久等の意味)と言われました。これはもう私と同じ事を言っているなと思いました。continuationをpersistenceに置き換えることができると思います。

 予定の時間が過ぎていますので,最後に,これからの科学技術と社会に関して,私の意見を述べさせていただいて,それで私の話を終わろうと思います。長田先生に紹介していただいたときに,私の今の仕事が,総合科学技術会議の議員であると紹介していただきましたが,科学技術基本計画について,平成13年度から5年計画,平成17年度までに国家的社会的課題に対応した研究開発の重点化ということで,全部で8つのテーマを挙げているのですけれども,その中で最も重要なテーマとして4つを挙げています。生命科学,情報通信(IT),環境,ナノテクノロジー・材料の4つです。ところが,生命科学にしても,情報にしても,環境にしても,これらは万人に関係することであって,ある特別の人だけが恩恵を受けるという性質のものではないのです。つまり,これは国民全員に関わる問題であるというわけです。日本だけじゃなくて,世界全部に対する問題,つまり人類共通の問題でもあるわけで,もし,こういう科学技術で日本が寄与できるとしたら,これは世界への貢献だし,世界からのそういう面での信頼を受けることができるだろういうことで,非常に重要な問題になるわけです。ところが,科学技術というのはいつもいいことだけかというとそうではなくて,必ず裏があります。どんな裏があるかというと,必ずしも役に立つということじゃなくて,公害とかの負の側面があるということです。そいういうことで,社会はその成果をどのようにして受け入れるかということも,これからは問題にしなければならないのです。従来研究者というものは,研究の成果を学会に発表する,その成果の評価を受けるということでした。学会がその成果をマスメディアに公表し,マスメディアがそれを解説・論評して私たちが色々なことを知るというわけです。実は,研究者と社会,これまでは何もなかったのです。こういう状態ではこれから,特に先ほど挙げた4つのテーマのようにグローバルな問題に対してはなかなか進むことは出来ないというわけで,これから問題になるのは,研究者は学会に成果を発表するだけじゃなくて,どういう研究をしているのか,その意義,どういう波及効果があるのかということも,やはり社会に対して説明をする必要があるのではないかということです。つまり,大学が旧来の象牙の塔ではダメで,開かれた象牙の塔になる必要がある,ということです。必ずしも研究者が社会の役に立つ研究をするばかりじゃなくて,場合によっては,さしあたっては何の利益ももたらさないかも知れないということを・・・・・・

(ここでMD容量切れ。最後の2〜3分を録り逃しました。読者のみなさん,どうもスミマセン・・・(^_^;)







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