山梨県甲斐市中下条1933-1-2F

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ある高名な精神分析の先生の言葉に「愛することと働く事が生きていく上で重要である」というものがあります。このプログラムはそのうちの働く事に関して考え、実際に働けるように支援するプログラムです。


通院治療で薬物治療やストレスケアの発達によって症状はある程度まで改善するものの、対人関係の困難さを残したり、復学復職が困難な方が増えています。このような通常の外来診療の時間だけでは治しきれない状態の方を多職種で支援するリハビリプログラムを実施しています。

うつ病リワークプログラム

REWORK

リワークとは

リワークは「recovery to work」の略語です。うつ病などで休職している方の復職支援を目的とした専門プログラムです。復職すること、そして再び休まずに働き続けられることを目指して様々なグループワーク・個別ワークに取り組んでいただいています。

復職までの5ステップ

リワークの参加開始から復職まで、段階に応じた課題に取り組んでいます。


参加し始めのSTEP1では、生活リズムや、体調の回復を目的に、リワークに通ってもらいます。リワークに通うリズムが整ったSTEP2では、病気のことや、対処方法、治療方法などの知識を習得しながら、ご自身の発症の要因を振り返る作業をしてもらいます。STEP3では、学んだことや、振り返りの中で見えてきた自己課題に対して、実際に取り組んでもらいます。STEP4では、職場に復職リハビリの制度がある場合には、リワークに通いながら職場でのリハビリにも取り組んでもらいます。復職後のSTEP5も、引き続き外来診療やフォローアッププログラムなどでサポートをしています。

  1. 基礎的な生活リズムや体調の回復
  2. 疾病理解・発症要因の分析
  3. 自己課題への取り組み -認知行動療法・SST・SRT-
  4. 職場リハビリ
  5. 復職 -復職後サポート-

プログラムについて

1週間のながれ

9:00受付受付受付休診受付
9:30
9:35音楽療法心理教育振り返り体力リラク
10:30
セルフセルフ
11:00セルフセルフ
12:00

プログラム紹介

音楽療法

気持ちの発散、コミュニケーションの促進などを目的に音楽や絵画等に取り組んでいます。

心理教育

座学やワークを通して、病気の理解、自己理解、ストレスの対処方法などについて学んでいます。

振り返り

参加者同士の自由な対話形式で、休職の経過、現在の療養、今後の復職などについて意見交換をしています。

体力リラク

ヨガやリラクゼーション、筋力トレーニング、有酸素運動を行います。低下した体力の回復、緊張した体の弛緩を目指します。近くの荒川河川敷でウォーキング、バドミントン、テニスなども行います。

セルフ

パソコン入力など復職の際に必要な作業を想定したリハビリに取り組んでいます。再発予防のための読書、まとめ、発表の準備などをしています。

スペシャルプログラム(4ヶ月に1回)

活動内容の計画から実施までメンバーが主体となって取り組んでいるプログラムです。これまで、調理や、工作、運動、外出など様々なプログラムを行いました。

集団認知行動療法(1ヶ月に1回)

出来事の捉え方や、対処方法を柔軟にすることを目的にグループで取り組むプログラムです。グループで行うことで、一人では思いつかない発想や、考え方が意見としてもらえるという良さがあります。

リワーク体験者の話

   Aさん『リワーク体験談』

Aさんの体験談1ページ目
Aさんの体験談2ページ目

   Bさん『うつ病と私』

私がうつ病で会社を休むことになったのは平成〇年九月のことでした。それ以前から朝、吐き気や頭痛、不眠が続き、休みがちなところがあったのですが、ある日、それに不安と恐怖心が加わり、倦怠感もひどくなり、一日中寝ている状態になったのでした。
そこで、心療内科に罹ることになったのですが、「抑うつ状態」ということで最初は一か月の休養だったと思います。それが、状態が思わしくないということで一か月が二か月になり、そして三か月と途中「消えてしまいたい」という少々やっかいな症状を経て会社に行く気力を取り戻したのは平成〇年の八月の末でした。
当時の精神科医に復帰したいという意思を伝え、半日出勤からという条件で承認してもらい、会社の人事課に連絡したのは九月の初めだったと思います。そのとき話したのは復帰後はどこの部署を希望するか、どのような形態で勤務するかということでした。そして、その他詳細は九月の終わりに会社での面談を予定し、詰めようかということでした。
そして面談にのぞんだのですが、そこで言われたことは、「まだ、状態がよくなさそうなので、休みなさい」ということと、急に復帰というのも大変なのでリハビリセンターみたいなところへ通ったらどうかということでした。
そのことを先生に相談したところ、再度三か月休養の診断書を書いてもらい、リハビリについては知ってらっしゃるところを紹介してくださることになりました。それが、響ストレスケアだったのです。

転院してから響ストレスケアのリワークではいろいろなことを学び、指導していただいております。毎日半日通所ですが、音楽療法、心理教育、振り返り、セルフの作業、体力リラクゼーションに加え、日々の悩み事の相談、月一回の会社面談前と後の相談、一日の生活リズムの調整方法等など、学び、実践してまいりました。
実はそのようにリハビリを続け二年余り、復帰へ向けての会社との交渉を大橋先生や山本先生たちの力をお借りながら続けてきたのですがその時点で何か月かすれば、自然退職になってしまうことと、これ以上会社との交渉を続けても一向に前進しないことから、退職することを決意いたしました。
退職してからも大橋先生と相談の上、リズムを崩さないようにリハビリに通いながら、ハローワークにて職探しをしたり障がい者就労支援を利用したりして就職に結びつけようと活動したのですが、体の不調などから現在は休止しております。勿論生活の不安も大きく、早くなんとかせねばと思っているのですが。

さて、今までの流れをつらつらと書きましたが、実は私がうつ病で休職したのは一回だけではありません。平成〇年の五年前にも半年ほど休みました。原因は、部署の移動と上司とのコミュニケーション不足でしょうか。
私が前任者から引き継いだ仕事は、当時の部署内では誰一人として内容を理解していませんでした。ですから分からないことがあると、前任者の移動先へ連絡して教えてもらっていたのですが、あまりに電話する回数が多かったせいか最終的には前任者の移動先の上司から、私の上司へとクレームが入り仕事に関して電話をすることは一切止められてしまいました。
そしてどうにもならなくなった私は、これしかないと前任者が過去に行った仕事の書類などを引っ張り出しては、その流れを学び、目の前の仕事を処理するということを繰り返しました。勿論その方法でいくと普段の倍くらいの時間がかかり、その分帰りも遅くなりました。
そんな日常の中、私は一か月ぐらい仕事に没頭していたと思います。ですが、やればやるほど段々集中力の低下や倦怠感、頭痛に襲われるようになるようになってきました。仕事のスピードも集中力不足で段々遅くなっていき、いよいよ仕事も溜まり始め、にっちもさっちもいかなくなりました。そしてそのあと 頭痛がひどいこともあり、某クリニックへ行ったところ、「うつ病」だという診断をいただきました。
その後、思い余った私は会社に迷惑をかけまいと退職の意志を伝えたのですが、「お前の代わりにこの仕事を誰がやるんだ」と止められいよいよ次の日からは、精神的にも疲れ果てた私は会社に行くことも困難になり、長期の休みに入ることになったのでした。
結局、このときは四か月ほど休み復帰後、それから五年が経ったある日に再発したというわけです。
響ストレスケアのリワークにおいては目標を考えるという作業、そして目標に向かってどう辿って行くか、復職したあとはどう仕事に対して向き合っていくかが重要になっていくと思います。それまでの仕事の向き合い方では、結局同じような状況になり病気も再発してしまう、これからは違うアプローチで仕事に向かうことを考えねばならないということでした。それは認知療法であったり、同じ病気の仲間とのフリートークであったり、その中で学んだことです。
また長い間その感覚を忘れていたのですが、自分が好きでやっていたことがなんだったのか、思い起しそれを再度続けてみたりしています。そして目標に向かっての課題を設定し、月に一度、自分がたてた課題に対する結果の発表とそれに対するリハビリ仲間のアドバイス等々、受けてきました。体力の回復にとウォーキングを続けたりしました。
その結果として持続的に心の安定は保たれています。そして今、最後の課題としてもっとも重要視しているのは体力面の回復です。過睡眠的なところもあるのでそれを調整しながら一日普通に過度な疲労を感じない程度にまで動けるようにしたいと思っています。そしてその課題の中の一環として、状態を見極めながら短時間のアルバイトを始めようかと考えております。
私の場合は回復の過程で、行きつ戻りつしながらゆっくりと前に進んできたように思います。そして今、どこの時点で殻を割るのか、極端に言えば開き直れるかが再び社会に出る鍵だと思っています。
今まで響ストレスケアの大橋先生および私に関わって来ていただいた方々には大変なお世話をお掛けしてきたと思います。改めてお礼を言わせてください。
ありがとうございます。

   Cさん『病歴まとめ』

1. A社時代
私は、30年間A社に勤務し、工事の設計・監督、現地調査、計画業務などに従事してきました。途中会社は、A’に変わり、その前後から、グループ会社であるB社との人事交流が盛んになりました。同世代の仲間が次々とB社へと異動する中で、いつか自分も異動するのではないかと考えていました。
しかし、平成*年にA’社の係長に昇任した後も事業計画に引き続き携わることとなり、B社へ異動することはありませんでした。自分の中では、「もう私はB社へ異動することはないのだろう」と勝手に思い込むようになりました。
事業計画は、10年単位であり、かつ、当時、重要計画が山積していたこともあり、私は、計画担当に在籍し続けることとなり、頭の中は事業計画のみに支配されるようになっていきました。

2. 課長昇任試験
私の中では、課長に昇任したいという強い願望はなく、逆に昇任試験を受けることがおっくうに思えてなりませんでした。しかし、周りからの過度の期待もあり、昇任試験は言われるままに受けざるを得ず、平成*年に課長昇任試験を受けました。当時、私のようにA社の採用者で一度もB社へ異動せず、昇任試験を受けて試験に合格したものは誰もいなかったことから、私は、仮に試験を受けても合格する可能性はないだろうと思うと同時に、多くのA社の先輩達を差し置いて、万が一にも合格してしまうことに恐れを抱いていました。そのことは、いま思えば、仮に試験に合格した場合、これまでと同様に、A’社の中で、そうした先輩達と一緒に課長という立場で仕事をしなければならないことをぼんやりとイメージしていたのだと思います。
昇任試験の内容は、論述と面接でしたが、私は、これまで携わってきた事業の計画について、素直に話をしただけでした。そして、その後の面接の時にも、事業の計画や、A’社の課長になった場合を想定したような質問ばかりだったので、この時、私は、もしかしたら、私のような人間でも、今後、私をA’社の課長として期待しているのかと、少し高揚した気持ちになりました。

3. 人事異動(*年3月)
3月に異動の内示があり、課長試験の結果は予想に反して合格でした。しかも、私の異動先はA’社ではなく、B社の〇課と言うところでした。これを聞いた瞬間、意味を理解できませんでした。なぜ、試験に合格したのか、なぜ、自分はA’社からいなくなったのか、〇課って自分が仕事するところなのか。現実に起こっていることは次第に理解しつつも、時間とともに頭の中は混乱して行きました。 職場の同僚から、おめでとう、なんで〇課なの、管理職になれば異動は仕方ない、何年かしたらまた戻ってこい、〇課は大変なところだ、前に局から行った人も大変な思いをしたらしい、・・・・色々と言葉を掛けられるうちに、不安は日増しに増幅していきました。夜思うように寝付けなくなって行ったのもこの頃だと思います。酒に頼って寝ていました。時間が止まればいいとも思いました。しかし、現実は変えようもなく、異動の準備に追われ、そして、4月を迎えることとなりました。

4. B社勤務(*年4月~)
私は、最初のB社出勤時から、いくつもの大きなプレッシャーにおそわれました。私は、B社という全くしきたりの違う組織の中に置かれ、かつ、課長と言うこれまでとは全く違う立場で組織に置かれたことで、一つ一つの行動、会話、仕事の進め方、全てに戸惑いを感じました。しかも、そうした中にあっても、〇課と言う全く未知の仕事を、スピードを持って理解しなければならず、大きな焦りを感じていました。そしてこの頃、毎日のように寝付けなくなり、最初に脳神経内科に行き、睡眠導入剤を処方してもらったのが4月初旬の頃です。
〇課は、施設管理が主な仕事でありましたが、施設の建て替え、日々の苦情対応など、多岐にわたり気ぜわしい職場でした。直属の上司としては、二人がいました。また、〇課には、7名の正社員と4名の臨時社員がいましたが、課長として最も密接に関わる2人の部下は、私より4~6歳年上の方でした。私としては、全く畑違いの仕事であり、当初、右も左も分からないことから、仕事は部下に任せ、その報告を受ける形で進んで行きました。そして、協議案件が発生した場合は、部下の素案を基に、上司と協議するという流れでしたが、上司からは常に詳細な指導を受けました。端から見れば、かなり厳しく指導されているように見えたようですが、私としては、そのことはあまり気になりませんでした。それよりも、その内容を持ち帰り、2人の部下に説明し、再度協議して理解を得ることに神経を使いました。そして、仕事を真に理解していない私は、上司と部下の間で旨く達振る舞えないことに歯がゆさを感じていました。
このため、私は一刻も早く、〇課の業務を把握しようと、時間があれば資料をひもとき、机にしがみついていました。また、課長として初めて望む6月の社内会議への対応を考えた時、「早く仕事を覚えなくては」と言う思いにさらに拍車がかかりました。さらに、新人課長研修等に時間を取られる中で、気がつけば、朝早く出社し、夜9時、10時まで、さらに土日も出勤しているようになりました。こうした自分自身の行動は、体力的に自分自身を追い詰めただけでなく、いつしか職場の中での孤立を招き、本来は部下ともっとコミュニケーションを図りつつ、職場に溶け込まなければならないことは理解しつつも、それを変えることが出来ませんでした。

5. うつ病の発症(*年4月)
こうした日々を過ごし、4月も過ぎようとしていた頃には、全く仕事のことしか考えられないようになり、それまでやってきた家事を含め、仕事以外のことに向き合うことがおっくうになり、次第に「表情」も消えて行きました。こうした変化を心配した妻に、心療内科を受診するように促され、4月下旬、近くの心療内科を受診しました。医師からは、うつ状態にあると診断され、「出来れば少し休んだ方がよい」をも言われましたが、課長として休むことは出来ないという思いが強く、結果として睡眠導入剤を引き続き処方してもらうにとどまり仕事は続けました。

6. B社の流儀(*年5月)
5月の連休を過ぎると、翌月に社内会議が迫ったこともあり、私の頭の中は一段と仕事に支配されるようになり、職場での会話も仕事一辺倒となり、自ら孤立を深めて行きました。そうした中で、前任の課長から引き継いでいたある重要協議案件について、そろそろ方向を出さなければならない旨を部下から伝えられました。部下や上司との協議を再三行う中で二転三転し、ようやく結論が出たのは6月に入った、社内会議の直前でした。そして、この結論を持って社長決裁を取ることとなり、急ぎ決裁資料を準備することとなりました。私のA’社時代の経験では、こうした資料は部下が整えるべきものという認識はありましたが、時間的な制約の中で、上司から指示された資料の内容を旨く部下に伝えられず、結局、自ら作成し社長説明を行いました。私にとって、これはB社に来て、初めて期限を設けられた仕事であり、不安を抱く中で大きなプレッシャーを受けたのと同時に、改めてB社の流儀をたたき込まれた出来事であり、神経をすりつぶしました。

7. 初めての社内会議(*年6月)
課長となった私にとって最大の不安材料は、社内会議対応でした。4月以降、時間があれば過去の議事録をひもとき、自分なりに理解しようと努めましたが、その内容は多岐にわたり、とても短期間で全てを網羅できるものではありませんでした。そして、半ばあきらめかけた状態で、最初の社内会議を迎えました。事前の情報を基に前日夜遅くまで一問一答を考え作成しましたが、全く自信はなく、当日朝から大きな緊張感に包まれました。結果的に、たまたま想定した質問に終始したことから、無難に切り抜けたのですが、その後、周囲から、「初めての社内会議とは思えない」などと言葉を掛けられる度に、「次回も失敗できない」という新たなプレッシャーがのしかかってきました。

8. うつ病の自覚(*年5月~6月)
当初、医師からうつ状態にあると言われた際には、それほど深刻には受け止めていませんでした。しかし、5月、6月と日が経つにつれて、自分がうつ病であることを徐々に意識し、自覚するようになりました。家に帰ってもテレビにも新聞にも興味がなく、ただ薬に頼って眠るだけの生活で、休みの日にも疲れて横になっている様な状況でした。妻に言わせれば、全く笑わなくなり表情がないと言われていました。ただ仕事に関しては、当面の課題を何とかクリアしていたことから、うつ病であったとしても、何となくこの先も乗り切れるのではないかと安易に思っていました。また、この間、何度か職場等の飲み会もありましたが、眠剤を処方されている関係で、医師からアルコールは控えるよう言われていたため、わずかにビールを口にして酔ったふりをし、うつ病の治療を隠しながらお付き合いすることは、元々お酒が好きな私にとっては、絶えきれないほどの憂鬱な時間でした。

9. 決算監査(*年7月上旬)
7月に入ると前年度の決算監査が待っていました。社内会議から間もないことから、またしても時間との戦いでした。事前情報が流れてくるのですが、前年度の内容については、私に分かるはずもなく、部下に相談してみたところ、手短な説明と関連資料を渡されました。私は、それを基に一問一答を作成しましたが、どうにも自信がないことから、部下に監査への同席をお願いしました。結果は散々たるもので、途中、部下の助けを求めました。やはりにわか勉強には限界があり、私は〇課の業務を真に理解していないことを痛感するとともに、これが本来の実力なのかとショックを受け、心が折れた出来事でした。
上司曰く、「決算監査は一つに区切りだ」そうで、4月からの仕事も一段落するのだそうです。この言葉につられるように、この頃、私は、ぽっかり穴が開いたような気の抜けた感覚に陥りました。仕事中もボーっとしたり、眠気が襲ったり、仕事に集中できなくなってきました。一方そんな中で、私は、7月後半に予定されていた「〇協会」での議長や「課の歓送迎会」での挨拶やら、幹事長を任されている「〇総会」の開催など、なぜこうも色々と行事が重なるものかと憂鬱な気持ちで準備を始めていましたが、今振り返ると私にとっては、これら全てがストレスとなっていたような気がします。

10. 社内規則改正(*年7月中旬)
7月中旬、部下から、これも前任者からの引き継ぎにあった、ある社内規則の改正について、9月社内会議にかける必要があり、そのためには、原案を8月の審査会にかける必要があると伝えられました。改正については、以前より、その手法について検討している旨を聞いてはいたものの、1ヶ月もない中で原案を協議し作成すると言うことに、私はとてつもない大きな不安を覚えました。そもそも、この改正は、前年度の社内会議からの追求、要望を受けたものであることから、9月社内会議での説明、質問も頭をよぎり、不安を増幅させました。私は、部下の作成した改正案を基に、協議を進めましたが、上司からは、別の改正方法を含め様々な指摘を受けました。本来であれば、この指摘を持ち帰り、部下とさらに協議を深めていくべきでありましたが、時間的な制約が焦りと不安を生み、すでにかなりの混乱状態の中で集中力が切れかかった私は、上司からの指摘内容を旨く整理できないまま、部下には、上司が示した別の改正方法に変えていくよう一方的に指示しました。部下は困惑した様子でしたが、結果として改正方法を見直すこととし、案を修正して行きました。この改正については、その後どのような経過をたどったのか、その後職場を去った私には分かりません。

11. 病状の悪化と休暇申請(*年7月下旬)
4月の異動以降、さらに言えば3月の異動が決まった瞬間から、私は常に「不安」の中に身を置きながら仕事や生活を送ってきました。元々、神経質で慎重な私は、仕事を含め全てのことに対して、常に十分な準備段階を踏まえないと落ち着かない性格でした。したがって、一つの仕事をこなすにしても、ある程度の時間が必要でした。別の言い方をすれば仕事が遅い方だと言われるかもしれません。それでもA’社時代は、自分自身でスケジュールを組み立て、時間が足りなければ残業もし、何とか仕事をこなしてきました。しかし、B社に異動して以降、仕事の内容が全く分からない状況の中で、次から次へと押し寄せてくる仕事に対して、それまでの自分のやり方では絶対的に時間が足りず、そこに焦りが生じ、結果的に残業を続ける中で、肉体的にも苦痛を伴うようになりました。それでも6月社内会議までは運にも味方され何とか乗り切ってきたのですが、7月以降になると、仕事、各種行事の準備、さらに、9月社内会議、秋の新人課長研修など、先々の予定を考えた時、「どうやって、こうしたスケジュールをこなして行けばいいのか、やはり自分にはやっていけないのではないか」、不安は限りなく膨らんで行きました。そうした中で、次第に仕事に対する集中力と意欲が薄れて行き、人と会話していても、相手の話している内容を整理して把握することが出来ず、言葉が出なくなっていったように思います。
こうした中で、それまで処方されていた眠剤も効果が薄れ、再び眠れない日が続くようになったことから、医師に相談して現在処方されている眠剤に変えていただいたのが、7月18日のことでした。しかし、睡眠は取り戻したものの、日常の会話さえ思うようにいかないことをはっきりと自覚するようになり、その症状は日増しに悪化して行きました。そして、8月1日、医師から「改善する様子は見られない。休んで下さい」との言葉に、悩みに悩んだ末、8月3日、上司に相談の上、傷病休暇を申請するに至りました。

12. 休職と転院(*年8月)
休暇に入りましたが、放り出した仕事のことや「部下はどのように自分のことを見ているのだろう」と言った不安は消えませんでした。同時に私は、「休暇」と言う、ついに最悪の事態に陥ってしまったという新たな「不安」にも駆られるようになりました。当初、医師から渡された診断書には、2ヶ月間の休養が必要とありました。私は、休暇に入った瞬間から、2ヶ月後、どのようにして職場に復帰すればよいのか、思い悩むようになりました。とりわけ、日中家族がいなくなると、一人、家の中で「自分はこれから先どうなるのだろう」と言う、胸が切り裂かれそうな不安感に包まれ、全ての意欲が失われ、横になって動けないような状態になりました。そして、ついには、手足が震える感覚を覚えるようになりました。私にとって、休暇は苦痛以外の何者でもありませんでした。
通院した際に、こうした症状を医師に相談したところ、「不安感」を取り除く薬を処方され、ようやく落ち着きを取り戻しました。しかし、「復職」のことは頭から離れず、どのようにして毎日を過ごせばよいのか思い悩む日がしばらく続きました。そうした中で、私の様子を見ていた妻が、友人などにも相談したところ、大橋先生の名前を知りました。すでに大橋先生の下へ相談に訪れていた妻は、復職へのケアが整っている「響ストレスケア」への転院を私に勧めてくれました。そして、私は妻とともに大橋先生の下を訪れるに至りました。

13. 復職への思いと治療(*年9月~11月)
9月に入り、私は、抗うつ薬の投与を受けるようになり、同時に先生からは、一日の行動を記録するよう指導を受け、徐々に、図書館などに通い過ごすことや、散歩など軽い運動を行うなどして、日常の行動の幅を広げていくように指示されました。また、傷病休暇が9月下旬で終わる旨を伝えたところ、引き続き、1ヶ月の療養が必要との診断を受け、職場に休暇の延長を申し出ました。私はこの時、「10月下旬には、職場復帰になるのか」と言う、勝手な想像をしていました。そして、9月も終わろうとする頃になると、早く復帰しなければと言う思いと、果たして復帰してやっていけるのかという不安が錯綜するようになりました。
こうしたことから、10月に入り最初に受診した日、私は、職場復帰について焦る気持ちと不安な気持ちを正直に話してみました。これに対して先生からは、「職場復帰は今時点でも可能だが、2週間もすれば、元に戻ってしまうだろう」、「治療には時間が必要なことを自覚してほしい」、「発病の原因を考え、この先、A’社へ戻って仕事をしたいと言う希望があるのであれば、2月頃に今の職場に一時復帰し、異動を考えるべきであろう」、「復職が可能であろうと思えてきた段階で、ショートケアへ通ってみてはどうか」など、色々とご指導をいただきました。
「2月」と言う言葉を聞いた時には、正直、ショックを受け思い悩みました。しかし、現時点でも職場復帰してやって行く確かな自信がないことも事実です。出来ることなら、A’社へ戻り、仕事をしたいというのも私の今の正直な気持ちです。
今は、ショートケアに通いながら、今後、必ず職場復帰を果たすためにも、今の病気と向き合い、現在の到達点をしっかりと受け止めて、引き続き、治療に専念して行きたいと考えています。

14. 病歴を踏まえた今後の課題
今回、改めて病歴を振り返った中で、なぜ、うつ病に陥ってしまったのか、ぼんやりとですが、その原因が整理できてきた部分があります。まず一つは、全ての仕事に対して、完璧な成果を求めていたという点です。私にとって、課長職は、決して望んでいたものではないにも関わらず、課長に昇任した瞬間から、必要以上にその立場を意識し、知らず知らずのうちに、職場の上司や部下の視線、評価を恐れていたのではないかと思います。もう少し、自分自身で自らの能力を客観的に評価し、他人の評価など気にせず、思い悩まず、「なるようにしかならない」と言う気持ちを持つことが必要ではなかったかと思います。二つ目は、不眠症、食欲不振、そして、終日のデスクワークによる急激な体力の低下です。うつ病の悪化は、体力的な衰えとともに進んでいったように思います。やはり、第一に良好で十分な睡眠を確保し、規則正しい生活習慣を送ることが、何より大事だと考えるようになりました。過度の残業による生活の乱れは、肉体的にも精神的にも、気づかないうちに徐々に自分自身にダメージを与え、結果的に職場からの長期離脱という事態を招いてしましました。そして三つ目は、4月の異動以降、ほぼ4ヶ月間、仕事のことしか頭になかったことです。やはり、健全な精神を維持するためには、肉体と同様に柔軟性を保つことが大切であることに改めて気づきました。仕事以外に頭を動かすこと、夢中になれることを見つけることが今後の大きなテーマです。
今回、うつ病を発症し、長期にわたり職場を離れ、療養、治療に費やした時間と経験を無駄にすることのないよう、ここで見つけた自分への課題を真摯に受け入れ、職場へ復帰して行きたいと思います。

【課題への対策(目標)】

  • 完璧な評価は求めない。
    他人の評価は気にせず、自分の力量に見合ったレベルで仕事に取り組み、その評価を素直に受け入れる。時には手抜きもあり?
  • 過度の残業はしない。
    基本的に残業はしない。やむを得ない場合、20時までに帰宅する。
  • ストレス発散の時間を設ける。
    うつ病の発症とともに休んでいた活動を再開する。(VF甲府の観戦、釣り、旅行)

利用開始までのながれ

  1. 電話予約
    お電話で初診の予約を入れていただきます。専用枠がありますので、リワークプログラム参加希望の旨をお伝えください。
  2. 診察
    当日は健康保険証、紹介状(主治医、可能であれば産業医。通院医療機関がなければ不要。)薬剤情報提供書をご持参ください。担当医が休職経過、病状などを診察でうかがいます。希望があれば施設を見学していただきます。
  3. 準備期間
    2週間の準備期間を設けています。その間に生活リズム管理、病歴・休職の経過のレポート作成を行います。紹介状、準備期間の様子などを参考にして、スタッフによる受入会議で参加決定をいたします。
  4. 参加開始
    参加同意書などを用意し、参加開始となります。開始はプログラムの関係で水曜日からです。