ウッドブロック始まり物語
第1章 はじまりはひよこ教室   
第2章 吉田清治先生との出会い
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第1章 はじまりはひよこ教室

はじまりは1991年、とある幼稚園の園庭に面したテラスでのこと。
園長先生がささやいた。「ねえ、やってくれない?あなたたち。」
(もしかしたら、「ちょっとあんたら、やってくれへん?」だったかもしれないが、
ここは美化しておこう)「えっ?何を?」「ひよこ教室の世話係り!」
*ひよこ教室とは、幼稚園就園前の幼児&ママに週1回園を解放し
、園児達と遊んだ後小さな集会を楽しむものである。

管理人ぺんぺん草は躊躇した、
いや、世の中一般の常識として即答を避けただけなのが、
ひまわりさんはちがう。
「やろ!やろ!」ときたもんだ!今後のウッドブロックの活動パターンを予言、
象徴するような始まりであった。
仲間集めは原始的に行われた。そばにいた人をひっぱりこんだのである。

たまたま居合わせた芍薬の姐ご‥自宅のベランダで芍薬を育てているらしい。
階段でばったり出会ったすみれちゃん‥かわいそうに‥。
などが次々にひっぱりこまれ計8名、当時のグループ名は“ひよこ”で、
受付、紙芝居、お土産準備等の仕事を任され、1年間を無事終了。

翌1992年はお休み、1993年より復帰。新たにポトス夫人ひっぱりこみ、
メンバーの交代もあり、
音楽担当のポンポンダリヤも加わり、現在6名。
メンバー紹介はこちら。
初めての人形
たしか『たぬきのポンちゃん』の話だったと思う。
‘思う’っていうのはこの頃は人形劇をやろうなんてぜーんぜん考えていなかったからだ。
人形も主人公以外は全部既成の物を図書館で借りたし、
人形使いとセリフが別人というカミワザをやってのけていた。
が、ひまわりさんの創ったこのお話は小さい子ども達にもお母さん達にも大変喜ばれたのでる。
いつのまにか1994年3月〜
2作目
『あかずきん』だった。狼君は本を見ながら発泡スチロールを削って作った。
しかし、発泡スチロールを削るとどうなるか、考えて頂きたい。
エライことになるのである。
知恵をしぼったあげく私達は段ボール箱を用意した。
そこへ車はでかいが身体は小さい芍薬の姐ごに入ってもらい作業してもらった。
うん、なかなか・・・・・笑える光景であった。
あーそうそう、『あかずきん』であるが、狼はとにかく作った貴重な一品。
が、他は全部既製品でやっちゃたー。
3作目
名作『まっくろネリノ』であった。ほとんど絵本そのままで、毛糸のボンボンに
顔とモールの手足をつけた人形を使った。
台本読みの時はしんみりと情感たっぷりで、
演技者自ら涙ぐむというほどのいれこみであったが、セットの稚拙さもあり、
今では思い出したくない作品ナンバー1になってしまった。

第2章  吉田清治先生との出会い

1995年10月13日(私達の大切な日)

  吉田先生との出会い

この出会いがなければ今の私達はない!と断言できるのだが、
 ここでまた前述の園長先生が登場されるのである。
 先生はまたしてもささやかれた、「あなたたち、吉田先生とお話する?」と。
 園長先生はこうやっていつもカルーイ気持ちでチャンスを下さる。
 その後もずっとサポートして下さりありがとうございます。
 で「えっ!そんなおえらい先生が私どものような者と・・とんでもないです・・
 でも一応皆に相談してみます。」
 ということで、ぺんぺん草はひまわりに電話した。
 「いやー!ほんま?お話しよしよ!」・・・・・さすがである。
 かくして、幼稚園のなのはなのお部屋で吉田先生とド緊張の会談をさせて頂くはこびとなった
 吉田清治先生。
   人形劇団クラルテの創立に参加され、当時は代表をされていた。
   多くの作品の脚本演出美術をてがけられ、浄瑠璃などの古典を人形劇で上演することにも
   精力をかたむけられ、大阪文化祭賞大賞の他、全国児童、青少年演劇協議会賞も受賞されている。
   全国に出向き、後進の指導にもあたられていた。
   
が、1996年突然天国へ旅立たれてしまう。
人形劇団クラルテ、HPより引用させていただきました)

   吉田先生はとても素敵な方だった。私達はいっぺんで好きになってしまう。
   きさくで、ざっくばらんで、‥(一緒か‥)率直で笑顔が優しい。
   とてもえらい先生なのに、同じ目線で話して下さる。私達の今の活動状況を話す。

   『まっくろネリノ』の話になると先生はこうおっしゃった。
   「おもしろないやろなあー、その劇。そのまんまやもんなあー。」・・・と。
   そして、“脚色する”ということを中心に人形劇について熱く語って下さった。

    
「人形劇は芝居よ。そして、ファンタジーよ。」

  
「すすきがいるからいうてそこらの本物取ってきたあかんよ。
   作るンよ。考えるねん、ずーっと考えるんよ。そしたらある時そうや!てひらめくんよ。」
   と、いうような事を・・・初心者の私達に語って下さった。
   もっともっといろんな話をして下さったのに、………きちんと思い出せない。
   ごめんなさい。


   
この時「姫路の子どもの館で人形劇中級講座があるから参加したらええねん。」とすすめ下さった。
   講師はもちろん吉田先生である。お調子乗りの私達は即申し込んだ。
   ひまわり&芍薬の姐ご&ぺんぺん草の3人が参加した。
 1995年10月〜(なんでこうなるの?の日々)
たたき台
人形劇中級講座にはとんでもない苦難が待ち受けていた。
申し込みの電話を軽ーい気持ちでかけたぺんぺん草であったが、
向こうで受話器をとったA先生は思いもかけない事をおっしゃった。

私達に「講座のたたき台になれ!」というのだ。
「無理です。出来ません」を何度繰り返しただろう。
こんな事勝手にOKしたらあとの二人に袋だたきにされる。
実際まともな人形劇など1作もないのだ。
不可能だ!私は必死でことわり続けた。‥‥‥が、全ては無駄な抵抗であった。
私は部屋の隅でちぢこまり、二人の顔色を伺いながら上目使いで報告した。
・・・・しばらくの沈黙の後、ひまわりが力強く言った!「わたしがことわるわ!!」

講座第1日目、
A先生に直接おことわりしようとひまわりを先頭に我々は事務室をおとずれた。
‥‥‥しかし、またしても徒労に終わる。‥‥‥‥‥‥‥‥。

その日から産みの苦しみが始まった。とにかく日がない!
手元にある狼とネリノの人形を使える台本をかくしかない。
ひまわりとぺんぺん草はマクドで相談。
台本完成!翌日曜日、我が家の2階で練習。
「たすけてー!!」「いっひっひ、まてー!」「はっはっは!!」
休日の朝からおばさんの嬌声がとびかう我が家。
御近所のみなさま、すみません。階下のだんなと息子からはあきれられたが、まあいい。

たたき台になる日、いつもより早い電車に長ーい棒、大きな木、それぞれの人形などを持って乗り込む。
    まだ誰も来ていない部屋で練習する。
かた付けていると、ガラス窓の外を吉田先生が通られた。
『あんたらがやるのん?がんばりやー』というような笑顔を向けて下さった。
が、午前の講議も昼食も味はなかった。

いよいよ本番。
ペンペン草の挨拶が最高だったとひまわりがいまだに誉めてくれるのだが
本人はあまり覚えていない。
さあやるぞ!題名もない劇。楽器はピアニカ。

父と子ども二人が『3匹のこぶた』を読んでいる。そして森へ遊びにいく子ども達。
狼に追いかけられ家にもどる。
野球のバットで父がやっつける。そして「おおかみってやっぱりばかだねえー」という話

終わった。
後ろの方で見てらした吉田先生が一言「おもしろいよ、おもしろかったよ。」
とおっしゃった。
えー?ほんとー!嬉しかった。初心者を励ます言葉であったろうが嬉しかった。
その後細かい注意はたーくさん頂いたが、素直な気持ちで聞けた。
もともと素直な私達なんだけどね。
ひまわりの台本、初めと終わりがちゃんとつながっていると誉められ、
芍薬の姐ごの声はとても魅力的だ言われたのだ。ありがたや、ありがたや・・・。
「姫路に新しいタイプのグループがでてきたね。ナンセンスなパンチ劇!」
あーこりゃこりゃ!!と思わず踊りそうになったのだが、心はヤッホーと叫んでた。
 ―調子に乗るなー!!とおざぶがトンできたところでお・わ・り。

吉田先生、感謝しています。

天国から少しは見ていて下さると信じています。

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