お茶屋の時間 第2回 お茶を料理にたとえたら。

 料理の仕事をする方々にお茶の話をする機会があったので、お茶を料理になぞらえて考えてみました。

「茶の木」の葉を炒ったり揉んだり乾燥させたりして作る「お茶」。味はちょっと違いますが、干し椎茸や大根の漬物に喩えてみたらどうでしょう。

加工の仕方も然ることながら、本当においしいものを探そうとおもったら、まず吟味しなければならないのは元々の椎茸や大根の味がおいしいかどうか、ですよね。その味わいを考える時、大根なら畑の土壌の質、椎茸なら「ほだぎ」を使ったものとおがくずの違い、またそれぞれが健康に生育したものかどうかが味に影響すると言われています。

最近はよく「日本の野菜の味や香りが薄くなった」と言われます。肥料や土、栽培方法の変化が関係しているようです。山菜やきのこも、栽培ものと天然の山のものとは、香りも味も格段に違いますよね。これも育った環境の土や水の違いなのでしょう。

私の師匠、宋勇進はよく「我々がお茶に与えたものを、お茶もまた我々に与える」と言います。

お茶は元々野生のものでした。人間が栽培を始めてから千年以上の歴史がありますが、つい十数年前までは、ほとんどが少量の有機肥料を与えるだけでした。

それが今や「旨み」や「華やかな花の香り」など、市場に求められる味を「作る」ために、大多数の茶園で、化学肥料を沢山入れて育てています。化学肥料を入れすぎた畑のお茶は、私にはどろんとした味に感じられるし、自然の生態系の循環の中で肥料も入れずに育ったお茶は、飽きのこない爽やかな味を感じます。

人間が与えてくれたものを、与え返してくれる、という意味では、牛乳や牛肉も同じかもしれません。放牧され、山の牧草を食べて育った牛と、牛舎の中で運動をせず輸入穀物による濃厚飼料を食べさせた牛とでは、乳や肉の質が違ってくるのと本質的には変わりないことだと思います。

現在市場に出ているお茶の多くは、かつて白居易や蘇東坡など中国の文人が詩に詠んだお茶や、千利休を始めとした昔の日本の茶人たちが飲んでいたお茶とは、全く違う育ち・味わいになっているのだと思います。生の茶葉をそのまま食べる機会はないので分かりづらいのですが、「お茶」を論じるなら、もっと生の茶葉の質、お茶の木が育った土や水といった環境に目を向ける必要があると思います。

なかなか難しいお茶栽培の現状ですが、もしおいしい生葉を見つけることができたら、次は加工の段階です。干し椎茸なら、乾燥の巧拙が味に大きく影響してくることでしょう。落花生だったら炒り具合が重要なポイントです。

お茶はまず、発酵(酸化)によって紅茶なり緑茶なりウーロン茶なり、好きな味わいに作り上げ、その後、焙煎をします。焙煎をしていないお茶は生椎茸みたいなものです。干し椎茸は乾燥させることで、生の椎茸にはなかった甘みや濃厚な旨みが出てきますが、お茶もよい焙煎をするとすっきりとして持続性のある甘味が現れてきます。

そうして出来上がったのが、乾燥した「お茶葉」です。「お茶を淹れる」とは、八百屋から野菜を買って家で料理するようなもの。素材の味がいくらよくても、料理の仕方が悪ければ、素材を生かしきることができません。

素材としてのお茶を知り、水を知り、急須やポットの特性を知り、自分の好みの味わいにお茶がはいるようにする。これはもう実践あるのみ。料理の時にも長年の勘を駆使し、鍋の特性を考慮しながら、無意識のうちに調整をしているはずです。

おいしいお茶を淹れるのは、おいしい料理を作るのと同じです。まずはおいしい素材(茶葉)を選び、その上で淹れる分量や時間など「よい加減」をつかみ、そして一番大事なのは「愛情のスパイス」、おいしくなるように心を込めることです。そうして淹れたお茶は、きっと心身にしみわたる一杯となるでしょう。


(「家と人。」9号 2004年8月31日発行 泣潟買@ープレス社 掲載)
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