お茶屋の時間 第5回 岩手のお茶「気仙茶」その2

 岩手のお茶「気仙茶」の爽やかな甘みに、私はすっかり惚れ込みました。この味は、冷涼な気候が、茶葉をゆっくりと滋味を蓄えるように成長させてきたこと、そして、販売を前提とせず、肥料も農薬も使わず、茶樹にほとんど手をかけず年に1度だけ摘む、という状況が自然と培ってきた、茶樹の力によるものだと思います。

しかし、気仙茶について知るにつれ、産業として成り立たない気仙茶生産は、風前の灯なのだということにも気づかされました。

 今、気仙地方でお茶づくりの担い手は主に、80代、90代のお年寄りです。次の世代、60代、50代の方々で、お茶づくりに関わっている方は少ないようです。増して30代、40代や、それより下の代になると、気仙茶を飲んだことさえない人が多いのです。「お茶は、仏事でよくもらうから、わざわざ作るまでもない」「静岡のお茶の方が美味しい」という声も聞こえます。江戸時代から作られ続けた気仙茶ですが、今、お茶づくりの火を燃やしていかないと、あと数年で、気仙茶があったことさえ伝説になるかもしれない、という危惧を感じ始めました。

 自然な味わいのお茶を扱うお茶屋の私にとっては、かけがえのない、価値のある気仙茶の茶樹。日本全国を探しても、樹齢の大きい、ほぼ無農薬無肥料で栽培されている茶樹は、大変貴重だと思います。一度切ってしまったら、深く根を張って健康に生きてきた茶樹が付ける新芽には、二度と出会えなくなるかもしれません。しかし、茶畑の所有者ではない私には、お茶の木を残して欲しいと思っても、切ることを止めてもらう権利も力もありません。

 初めての気仙訪問で、管理放棄された茶樹が予想以上に多いことを聞き、茶摘みができる喜びと同時に、漠然とした不安を感じて帰ってきた頃、気仙地方の大船渡市からSさんというお客様が訪ねていらっしゃいました。中国のお茶がお好きでいらしたのですが、話をお聞きするうちに「実は我が家にもお茶の樹があって、何年も摘んでいないんです」とのこと。「是非摘ませてもらいたい」と申し出ると、快くお引き受けいただきました。

 Sさんは、お茶の樹との関わりを話してくれました。「母が嫁いでから少しずつ植えたのだそうです。父と母が元気な時は、毎年お茶を摘んで作っていました。父はそのお茶が大好きで、一日中、茶葉を代えずに何杯も飲んでいました。でも数年前に父が亡くなり、母も体が弱って畑仕事ができなくなって、それ以来、お茶の樹も構わないでいました。ただ、母がせっかく大事にしてきたお茶の樹を、このまま放っておくのは忍びない。切ってしまうのも寂しい、と思っていたところだったんです。」

 この春、Sさんの畑の茶葉を使って、ウーロン茶を作りました。とても爽やかで花のような香りのするお茶が出来上がりました。宋さんは「このように質の高いウーロン茶を作るのは、ウーロン茶の本場である今の台湾でも難しいことだ」と言いました。出来立てのお茶をSさんの家で飲んだ時、工場で飲んだ時より、一段とよい香りと味わいがしました。「お茶が家に帰ったんだね」宋さんがつぶやきました。

 Sさんと一緒に進めるお茶づくりは、この地域でお茶を作る意味を改めて考えさせてくれました。また、気仙地域には、Sさんのようにお茶の記憶を大切に持っている方が他にもたくさんいらっしゃり、私の試みを親身になって支えてくださっています。

気仙には300年を超えるお茶の歴史があると言います。お茶の木と共に生きてきた気仙の人々の思いに包まれながら、気仙のお茶の木を生かす活動を続けていきたいと考えています。

(「家と人。」12号 2006年1月 日発行 泣潟買@ープレス社 掲載)
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