中国のお茶に魅せられて(中) 多様性から普遍性へ

「中国茶」と聞くと、「体にいいお茶」「やせるお茶」「独特のクセのあるお茶」「ウーロン茶」「プーアール茶」「ジャスミン茶」などを思い浮かべる方も多いと思います。でもそれは「中国茶」のうちのほんの一部のお茶のことだったり、単なるイメージだけだと聞いたら意外でしょうか。

「中国茶」の定義とは、読んで字のごとく「中国」で作られた「お茶」です。お茶とは、ツバキ科の植物「お茶の木」の葉を摘んで作ったもの。中国のウーロン茶も日本の緑茶もインドの紅茶も、どれも同じく「お茶の木」の葉を使って作られています。緑茶、紅茶、烏龍茶という違いは、葉を摘んだ後の処理の仕方によるので、例えば緑茶を作る静岡のお茶の葉で、紅茶も烏龍茶も作ることができるのです。

私は8年前、台湾の烏龍茶の放つ花のような清らかな香りに惹かれて、中国のお茶の世界に足を踏み入れました。そして、何千種類あるという中国茶の中で、花や桃の香りの烏龍茶や、梅の香りのプーアール茶、豆の味の緑茶など、美味しいと言われるお茶を片っ端から飲もうとしました。

現在の「日本茶」は、「やぶきた」という品種で作られる「緑茶」が大部分を占めていますが、一方の「中国茶」は、産地毎に特有の品種がいくつもあったり、同じ木を使って紅茶や緑茶など様々な味わいのお茶が作られていたりして、実に多様な香りと味わいがあります。中国茶を飲み始めた頃は、多様性こそが、日本茶とは違う中国茶の魅力だと思っていました。

ところが、究極の「中国茶」を求め台湾の宋師匠の下で勉強を進めるうちに、数え切れないくらいある中国のどんなお茶も、更には日本茶も、同じ「お茶」という植物で出来ていて、その原料はお茶の木が吸い上げた土や水の養分しかない、というシンプルな事実に気づかされました。世界のどの地域で作られているお茶も、単なる「お茶」だと捉えれば、お茶の質の良し悪しは、生葉の品質・その基礎となるお茶の木の生育環境(土や水など)と加工技術で決まってくるのです。

それまでは、味や香りといった表面の多様性ばかりに目が行って、植物としてどう生きてきたのか、飲み物としてどう身体に影響していくのかという、普遍的なお茶の本質を見失っていました。例えばニンジンを思い出してください。煮ても炒めても漬物にしてもサラダにしても、美味しさの決め手は、元々美味しいニンジンかどうか、そして上手に料理したか、ではないでしょうか。緑茶か紅茶か、は、漬物か煮物か、という違いのようなものなのです。そして、美味しいニンジンを作るのも美味しいお茶を作るのも、土、環境がカギを握ることは共通だと思います。

その環境が今、日本でも中国でも荒れています。肥料の過投入によって、産地では硝酸性窒素による汚染が広がっていますし、お茶の味もまた肥料によって本来の味から変化しています。なぜこのような事が起こっているのでしょうか。それは「売れるお茶を作るため」です。

市場が求める「うまみの強いお茶」「華やかな花の香りのお茶」を作るため、また見た目の色合いのいいお茶を作るため、肥料の投入がどんどん進んできたのです。お茶は自然な飲料だという印象がありますが、今のお茶の味は、肥料によって作られた部分も大きいのです。そして、売れるお茶を目指したにも関わらず、何煎か淹れたときのどろっとした味には、今では批判も出てきています。

 お茶はもともと野生の植物でした。私も宋師匠も、できるだけ肥料を使わず農薬も使わないで育てたお茶を選んで、それを焙煎して提供しようとしています。肥料・農薬を全く使わない樹齢数百年のお茶の林から摘まれた「千年古茶」はそのよい例です。このお茶は決して華やかではないが、爽やかな自然な甘味を持っていて、ずっと香りを聞いて心地よく、飲む人に気持ちよい後味を残します。このお茶を初めて召し上がるお客様がよく「懐かしい味、香りですね」と表現することが多いのは、生き物としての古い記憶が呼び戻されるからかもしれません。

現代人は、他の様々な動植物に対してと同様、お茶という植物をもまた、自分の思うままにし過ぎてきたのではないでしょうか。「お茶の木」の前で、人間はもっと謙虚であるべきではないか。そうしたら「お茶の木」は、中国、日本、そして世界のさまざまな地域で、また爽やかで力強い味わいを人間に与えてくれるのではないかと思うのです。



(ねんりんクラブ第106号 平成16年9月15日発行 ねんりん舎 掲載)
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