アメリカの本「神との対話」の世界

ニール・ドナルド・ウオルシュ著 吉田利子訳 「神との対話」全3巻はサンマーク出版より発売中で、文庫版もあります。1990年代に
書かれた本ですが、私がこの本を知ったのは比較的最近で、大変感銘を受けたので、ここにご紹介したいと思います。
「神との対話」などというと宗教の本だろうと思われる方も多いでしょうが、内容はむしろ逆で宗教を否定するような色合いが強いです。
事の起こりは、著者のニールが人生がうまくいかず苦しんでいるとき、神に八つ当たりするような内容の手紙を書いて、ペンを置こうと
したとき、何と自分の手が何かに押さえつけられているように勝手に動き、させるままにしておいたら予想もつかないような答えが紙に
書かれ、ニールの考えの中に神と対話する霊感のようなものが浮かぶようになったそうです。しかし、本の中で何度も言っているように、
ニールというフィルターを通して書かれたものだから全部を鵜呑みにしないで欲しいとあります。実際にこの対話を筆記して出版したのは
ニールなのであり、神ではありません。
 本当に神の意見なのかどうかは、読者それぞれが判断すればよいと思います。私は単なる読み物としても面白いし、奇抜な意表をつい
た答えが次々に出てくるので、役立つかどうかは別としても手放せない愛読書となっています。
 平均的な日本人は多宗教でかつ無神論などとも言われますが、宗教に凝り固まっていない分、実際の人生に役立つ効果は大きいと考
えられます。本の中で神は人間社会を観察した結果を述べている部分は多いのですが、宗教のことは全くボロカスに言っています。この
場合の宗教はキリスト系で、仏教はブッダの言葉が少し出てくる程度、またイスラムに関しては全く一言もでてきません。神は自分と他人
は一つ、自他一体が真実だとしつこいほど言います。概して仏教の思想の方がキリスト教よりは神の考えに近いような印象です。
 日本に関してはアメリカの歴史教育で一方的な見方がされる例として、日本の2都市に核攻撃がされたことが自分に都合よく教えられ
ているという例で出てきます。
 「神との対話」では人生をよりよく楽しく生きるためのツールが沢山出て来ます。そういうツールも別にご紹介したいと思います。

●何といっても大切なことは、人間にはよりよく生きるための方向がわかるような指針が、はじめからセットされているということです。
 他者を基準にせず、自分を権威として行動しなさいと、神はくどいほど強調しています。
 
 

                             ☆「神との対話」 基本的な3つの知恵

                    ☆☆☆ わたしたちはすべて一体である。(神しかいない。人間も神だ、全ては神の分身だ。)

                    ☆☆☆ 充分である。(お金であれ資源であれ仕事であれ充分ある)

                    ☆☆☆ しなければならないことは、何もない。(人間には何一つ義務はない。人生は学校ではない。)

 

まず、全て一体である。これが進んだ社会の基本的な認識で、我々でも人生に一番応用出来るツールだといいます。現在の地球上の様々
な不幸は「我々は別々、バラバラ」という認識から起こっているといいます。ここらへんはまさに仏教思想なんですが、人に与えなければそれ
は自分に与えないのだ、全ては自分なのだからと口を極めて言っています。
 充分である。これも仏教的ですが、そもそもこの世は無い世界で幻のようなものだそうです。神の目的は神の絶対世界というような完璧な
世界では、神は自分が何者なのかを知ることが出来なかったといいます。そこで、神はこの宇宙空間という相対的な場を造り、自らを知ろう
としたそうです。相対的とは高低、寒暖、長短といった対極です。私一人だけなら背が高いか低いかわかりません。比べる他人がいないから
です。そんなわけで神は自らを分割して様々な宇宙のものを造り、その一つが人間です。神は地球のものが不足するようには造らなかった
そうですが、実際は人間が繰り広げる争奪戦で餓死者も多数という始末。そもそもこの世界は幻ですから、人間がツールを使って創造などが
可能ということでしょう。
 しなければならないことは何もない。ここは人間には理解しにくい部分でしょう。人は何らかの使命を持って生まれてくる、などという人も多い
ですから。しかし、人間としてこの世に存在する自体がそもそも魂にとっては災難のように大変なことだそうで、神は人間であるだけで、何もし
なくても立派に役に立っているといいます。神にとってみれば、人間が自由な意思で創造して、その結果を体験することが望みというわけです
から、義務で人間を束縛するようなことは出来ないというわけです。
 人生とは自分が何者であるかを決め、それを体験するプロセスである。

●さて、まず最初に私が驚いた点である、死についての見解を抜粋してみたいと思います。この死についての対話を読むと、何か死が大変
 素晴らしいものに思えてきます。死は救いであり、新たなはじまりだということが信じられてきます。神は死についても、それを否定しないば
 かりか、自殺した人でも愛するといいます。お釈迦様の「人生は苦である」という言葉を引用したりして、人間に簡単に死なれては神の希望
 は叶えられないハズなのですが、死は存在しないということで、人間にとっては救われたという感じがする、まさに「読みどころ」です。

 あなたが死と呼ぶものが実は誰にとっても最高の出来事だと言ったらどうかな? あなたは地上の暮らしの方が天国での命よりも良いもの
 だと思っているのか? いいかね、死の瞬間にあなたは、かって味わった最大の自由、最大の平安、最大の喜び、最大の愛を知るだろう。
 
 生命は永遠にいつまでも続く。死ぬということはありえない、形を変えるだけ。
 
 死は決して終わりではなく、つねにはじまりだ。死は閉じられたドアではなく開かれたドアだ。生命が永遠であることを理解すれば、死は幻想
 で、その幻想があなたの意識を身体に集中させ、身体が自分だと信じさせていることがわかる。

  死者は悼んでほしいなどとは、さらさら思っていないよ。 あなたがたの言う「あの世」を一瞬でも体験し、自分と神についての最も偉大な考え
 にふれることができれば、葬儀のとき心から微笑むことができるだろうし、心は喜びに満たされるだろう。

 ヒトラーが犯した過ちは、彼が死に至らしめた人びとをなんら害することも、侵すこともなかった。あの人びとの魂は、地上の束縛から解放さ
 れた。さなぎから蝶が解放されるようにね。 残された人びとが彼らの死を悼むのは、彼らの魂がどんな喜びへと分け入ったかを知らないか
 らだ。 死を経験したら誰も死を悼んだりしないよ。 彼らは時ならぬ死をとげたのだから「間違っている」とあなたは言うが、それは、宇宙で
 は起こるべきでないことが起こりうると言っているのと同じだ。 宇宙で起こることはすべて、完璧に起こるべくして起こっている。

 死んでも創造をやめない理由は、死にはしないからだ。死ぬことはできない。あなたがたは、生命そのものだ。生命が生命でなくなることは
 できない。したがって、死ぬことはない。では臨終のときに何が起こるか・・・・・生き続けるのだよ。
 だから、「死んだ」ひとの多くは、自分が死んだとは信じられない。死を経験しないから。それどころか、自分を非常にいきいきと感じる。
 
 自殺は悪いことじゃないんですかー? あなたを満足させるような答えはできないな。なぜなら、問い自体に間違った概念が二つ、ふくまれて
 いるからだ。 二つの間違った前提のもとに、二つの誤りがあるからだよ。 第一の間違いは「正邪」があるという考えだ。第二の間違いは、
 殺害が可能ということだ。

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