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冷たい北風が僕の身体を切り刻むように吹きつけて、俯いた僕の頬を流れるものをイヤでも感じさせた。
暗闇に沈む公園の、唯一街灯の点かないベンチ。
そこは僕にとって━━僕たちにとって、特別な場所だった。
頬を伝い、ポタっと雫がコートに落ちた。
ずっと・・・・・
・・・考えないようにしてきたのに。
片手で額に触れ、髪を握り締める。
震える指先が彼女の温もりを思い出し、僕は堪らず夜空を見上げた。
まるで、見上げた先にあの日と同じ笑顔があるような気持ちになる。
そんなはずはないのに。
あの日と同じ、雲一つない夜空。
冷たい空気が辺りを包み、まるで神聖な場所のように感じた。
月明かりに照らされるその蒼い空間は、あの頃と何も変わっていない気がした。
ただ、君が、居ない。
そのことが、胸を締め付ける。
「ふ、ぅっ・・・・!」
漏れた嗚咽を、叫びたい衝動を、手で口を覆い耐える。
今まで、何故、ここに来れなかったのか。
今はよくわかる。
僕はまだ、君を待っている。
ここに来れば、君に会えるんだと。
そう心の中で思ってた。
だから、ここに来れなかった。
・・・・こうして、君がいない事をまざまざと知ることを・・・・避けたんだ。
「・・・どっ・・・して・・・!?」
あの日の君は笑っていたのに。
繋いだ手は、あんなに温かだったのに。
僕の気持ちを・・・伝えていなかったのに・・・。
君は、もう居ない。
accel. 〜言えなかったI love you〜 ♯1
教室がオレンジ色に変わっていく、その時間帯は、僕にとって胸が高鳴る時間だった。
生徒会室の前で、僕は息を整えて両手で髪を梳く。
さっきまでタイムを計っていたグラウンドを見下ろし、手で汗を拭う。
動悸が一向におさまらないのは、タイムを計っていた所為じゃない事くらい、僕はよくわかってる。
この扉の向こうに・・・僕の鼓動を早くする人が居る。
僕は深呼吸して、扉に手をかけた。
彼女はきっと、僕を見て微笑む。
そう思うだけで、息が苦しくなる。
僕は先輩を・・・・・・ずっと、ずっと。
初めて先輩に会ったのは、中学生の時だった。
僕の中学で開かれた、近隣中学のバスケの親善試合。
その頃の僕は、中学に入って始めた陸上で、その年かなりの記録を出せたこともあり、毎日毎日走り続けていた。
走ることがただ楽しくて入部した。
青空の下でグラウンドを駆け抜ける爽快さ。
記録が少しでも更新できれば、また一つ成長できたような気持ちになった。
そこには根拠のない自信や希望が溢れていて。
なのに、いつの間にかタイムに捕らわれ、走ることが苦しくなっていた。
一年の頃は、めちゃくちゃなフォームを直すとまた記録がよくなってた。
だけどそんな奇跡のような成長が、いつまでも続くほど僕はできがよくなくて。
二年に上がる頃には限界を感じてた。
なまじ走り始めで記録がでたものだから、その後いくら練習をつんでも超えられない壁にぶつかっていた。
「晃!そんなんじゃ全国大会出れないぞ!」
肩で息をする僕は、コーチに声も出せず頷いて、ぱんぱんに張った足を引きずりながら日陰を探した。
もうどれくらい走りっぱなしなんだろう?
意識を手放してしまえたら、どんなに楽だろう?
タオルで顔を拭くと、歓声が聞こえた。
「試合・・・してるんだっけ?」
体育館裏に近づくにつれ、歓声や応援、監督の怒号までを一人の選手の張りあげる声が抑えていることに気がついた。
「すごっ・・・元気いいなぁ。」
思わず引寄せられるようにして、渡り廊下まで人が溢れている体育館を覗いた。
わ、すごっ。42対8って・・・。
その試合は僕の学校が圧倒的に強くて。
一方的なその試合展開の中で、少し掠れて、でもやけに響く声を持ったプレイヤーが駆け回っていた。
長い髪を一つに結び、瞳は鋭くボールを追う。
俊敏な動きで一人コートを走る彼女に目が釘付けになった。
彼女は、僕の学校の生徒じゃない。つまり、敵のプレイヤーだ。
「故障者ばっかりだって。あのキャプテンも調子悪いらしいぜ?うちの学校ラッキーだよなぁ」
聞こえてきた言葉に、彼女以外のメンバーが皆おどおどしていることに納得がいった。
どう見ても、まだまだ実戦経験の少ない・・・一年生。
彼女の流れるようなフォームとは、雲泥の差だ。
動きも体力も試合についていけてない。
パスは読まれてカットされ、凡ミスも連発している。
それでも、キャプテンであるという彼女は明るく声を張り上げていた。
あまつさえ、敵である僕の学校のチームがゴールを決めても「ナイスシュー!」と声をかけて。
試合終了の笛の音が鳴り響くと、ボールが彼女の手から転がり落ちた。
体育館の天井を見上げ、一瞬、崩れ落ちそうな表情を見せた。けれど、すぐに両手で自分の顔を叩いて笑顔を作った。
そうして、申し訳なさそうにうな垂れるメンバーの肩を叩いて励ましていた。
「今日が初めてなんだから、顔上げて!いい経験させてもらえたじゃない!」
「なんか、気の毒。あのチーム、大会じゃいいとこまでいったんだぜ?」
気丈にすればするほど、彼女はどこか儚く思えた。
「浅生センパイ・・・!最後の試合だったのに・・・・!」
「ごめんね、カンナっ。あんたのラストゲームに怪我するなんて・・・!」
スラリとした彼女のユニフォーム姿は、僕の目がおかしくなった?と思うほどに美しく思えて。
悔しそうに泣き崩れる一年生と、足を引きずるようにして彼女の周りに集まったチームメンバーに笑顔を向けて。
「楽しかった、本当よ!?だからもう、泣かないで?」
その声は少し掠れていたけれど、心の底からそう思っているのが伝わるような声だった。
笑顔で皆を励ますようにコートを出る彼女は、くるりとコートに向き直ると笑顔で頭を下げた。
「先輩っ!」
抱きついてきた女の子に笑顔を向けて、彼女はまた歩き出した。
これが、あのコのラストゲーム・・・。
胸が妙にざわついた。
・・・・・・・・・・・だけど、僕は見てしまったんだ。
僕がいつものようにひんやりとした廊下に寝そべると、更衣室に向かうその集団から、彼女は一人外れ、体育館裏の階段に座った。
驚いて飛び起きた僕には気づかず、彼女は最初タオルを握り締め俯いて、そしてその瞳に涙が浮かんでくると、タオルで目元を押さえ、肩を震わせた。
コートの中で元気に跳ね回っていた『センパイ』の『キャプテン』の彼女は、どこにも居なかった。
悔しくて悔しくて、そしてどうしようもない悲しさが、彼女に押し寄せているのを感じた。
真剣に取り組んでいたからこそ、彼女は悔しいんだ。
漏れ聞こえる嗚咽が、僕の心をざわつかせた。
この感覚はなんだろう?
急速に芽生えた気持ちに、戸惑う。
これが、誰かに心を奪われるという瞬間なのかな?
誰かに急速に心を奪われるなんてのは初めてで、思わず手をきつく握り締めた。
名前も知らない、今日初めて見た彼女に、僕は一体どうしちゃったんだろう?
僕はそのまま、彼女から目を離せなくなった。
心臓が一瞬何かに握り締められ、血液が循環しなくなったかのように頭の中が真っ白になり、その後一気に血液が流れ出したように心臓が暴れだす。
彼女をもっと知りたい。彼女と話がしたい。
今すぐ駆け寄って、そっと抱きしめたい。
次から次へ生まれる感情は、僕が感じる初めてのもので、でも、そんな事ができるほど、さすがに女慣れしていなかったから。
どれくらい、その嗚咽を聞いていただろう?
「カンナー?どこ?大丈夫ー?」
僕の背後から声が響くと、彼女はびくっと体を硬くし、タオルで瞳から溢れた涙を拭くと「今行くー!」とあの少し掠れてるのによく通る声で答えた。
瞬間、彼女の瞳が僕を捉えて困ったように首を傾げた。
「カンナ、心配したよ!みんな探してるよ?」
そして、僕の後ろから現れた声の主に「ちょっとね、やっぱり悔しかったから怒りを静めてたのよ!一年生こっぴどく叱りそうだったからね・・・!」
瞳の赤さは怒ったフリでカバーして、わざとおどけて見せている。
「鬼キャプテンが怒らないから、みんな気が抜けてるわよ!」
さっきまでの泣き虫な彼女はすべて消して、ここにはもう『センパイ』の彼女しか居なかった。
通り過ぎるその瞬間、僕を少し見下ろして、彼女は片手で僕を拝むような真似をした。
「今のこと、内緒ね?」
小さな声で呟かれた声が、耳にしっかり残っていた。
僕より背の高い彼女からは、僕が真っ赤になっていたのは丸見えだったかもしれない。
胸に宿った感情を持て余し、僕はグラウンドに戻った。
あれが、彼女のラストゲーム。
走ったあとより苦しいことなんて、初めてだった。
彼女の涙が忘れられなかった。
憧れ?
同情?
その気持ちがなんなのか、まだ僕は知らなかった。
説明の出来ない感情の波に飲み込まれていた。
「晃、いつまで休んでるつもりだ!?次、ロード行くぞ!」
「はいっ」
* * * * *
彼女を忘れることができなかった。
陸上大会で知り合った彼女の学校の陸上部員から、彼女が3年生で僕の一つ上であること、「浅生 果奈」という名前であること、あれが彼女のバスケのラストゲーム――理由は誰も知らなかったけど――だったことを知った。
だけどそれだけ。
僕は父と母の離婚で転校することになり、彼女との距離も広がった。
彼女の進学希望先が「響明」だということを聞けたのは、本当にラッキーで。
あの日、試合の後に見た彼女の涙が、何故か僕の見失っていたもののような気がしていた。
練習がキツクて、記録にこだわって。
だけど、本当は走ることが純粋に好きなだけ。
誰より早く走りたい、ゴールに飛び込む・・・あの一瞬が好きだ。
そんな気持ちを思い出させたのは、彼女の涙。
僕は転校先でも走ることを選んだ。
もう走れなくなるとしたら、僕は今のままで後悔はしないだろうか?
あれから、僕はそう思いながら練習をするようになった。
彼女のラストゲームが・・・あのコートを出る瞬間の彼女が・・・泣いていた彼女がいつまでも心に住み続けていた。
想い出の中だけで、誰かを想えることに・・・誰よりも自分が驚いていた。
* * * * *
彼女との再会を夢見て、僕は「響明」に入学した。
彼女は響明に入学したと聞いていた。
陸上選手としても、これからの進学にも申し分ない学校であったから、彼女だけを求めて高校を決めたわけではなかったけど。
2年間、誰とも付き合わずにいた、なんて純愛じゃなかった。適当に女の子と遊んだし、付き合って欲しいと言われれば、付き合いもした。
でも・・・・僕は彼女の姿をいつでも探して、追っていた。
憧れなのか、なんなのか、この気持ちの正体を知りたかった。
あの時彼女に見下ろされた身長も、少しは追いついた?
僕にとって、身長はいつだってコンプレックスだった。
160しかなかった僕は、中学時代何度もコーチに「後10cm身長があれば・・・」と言われた。
リーチが変われば、記録も伸びる!と散々言われ続けたのだから、そのコンプレックスも仕方ないと思う。
卒業式を前にかなり伸びた。それでもまだコンプレックスは付きまとう。
ようやく、彼女に追いついた「響明」だけど、記憶の中の彼女は僕よりずっと背が高かった。
今、身長差はどうだろう?
そんなことで悩んでいたことが、今では凄く笑ってしまうけど・・・。
だから、入学式で・・・・思いがけず彼女が受付に居た時には、僕は一人真っ赤になって固まってしまったんだ。
この学校に居れば、必ず再会できると思ってはいたけれど、突然すぎて心の準備が出来ていなかった。
想い出の彼女が、今、僕の前に居た。
「アキラ?どうしたんだよ?」
先に胸にリボンをつけてもらっていた幼馴染の透・・・内川 透が、立ち止まってしまった僕に向かって訊ねた。
透とは幼い頃から仲が良かった。透も長距離ランナーで、将来を有望視されていたから、僕らはいつだってコーチにしごかれていた。転校しても、お互い連絡をとりあっていて、陸上を伸び伸びとできる「響明」を一緒に受験した。
気心の知れた透は、僕の顔を覗き込んで「アキラ?」と手をひらつかせて呼んだ。
「あ・・・」
咄嗟のことで言葉も出ず、動けなくなっている僕に、彼女は不思議そうに名簿を見て――僕の名を呼んだ。
「どうしたの?顔が赤いわ・・・・えぇーと、1年3組の・・・・久遠 晃くん?」
忘れもしない、彼女の声は、やっぱり少し掠れていて。
何故だろう、記憶の中の彼女はあれほど生命の輝きに溢れていたけれど。
真っ白な陶器のような肌は、壊れてしまいそうな華奢なものに変わっていた。コートで大きな声をあげて走り回っていたなんて、言っても誰も信じないだろう。
それはそれで、女らしさを感じて、僕は馬鹿みたいに魅入ってしまった。
女の子って、こんなに急激に変化するものなの?
そんな僕の額に、彼女の細い指先が伸びて、そっと触れた。
冷たいその指先が触れると体がびくっと震えて、思わず彼女の指を払いのけた。
「なっ・・・!?」
「ごめん、熱でもあるのかと思って。大丈夫?顔が赤いから・・・・急に触れたりしてごめんね?」
気まずそうに首を傾げ、リボンを僕の胸に留めながら彼女は笑顔で言った。
僕はまだ彼女より、少し身長が低かった。
「入学おめでとう、久遠くん。楽しい高校生活を送ってね!」
その笑顔は、あの時コートで見た何倍もの輝きで、僕の気持ちを捕えた。
「アキラ?」
真っ赤になったまま、講堂へと進む新入生の群れの中で、僕は透の肩に手をかけてようやく息を吸い込んだ。
顔が火照って熱い。
振り向くことも出来ずに、僕は彼女がつけてくれたリボンを握り締めた。
2006,2,23