言葉にはしないけど。

10、抜けない棘

眠っている時に、私がそこにいるのを確認するように私を抱き寄せる。朝目覚めると、必ず私の頬に触れる。家でコーヒーを飲む時には、カップの持ち手を持たず、上部を持って口づける。初めて私が作る料理は、やたら褒めちぎる。
そんなくうの仕草や癖は、私の中でもう浸透してしまっているもの。
疲れている時に私を抱き寄せ鼓動を確かめるように頭を寄せることも、怒っている時に美しい笑顔を張り付けることも。
直視することがいまだに照れくさいくうの身体も、少し癖のある柔らかな髪も、優しい指先も、私を甘やかす瞳も、言葉も、付き合いだしたその日から、私だけが独占してきた。


ずっと、このまま続いていくんだと思っていた。


「なんだか変な感じだな。」

玄関の鍵をかけたくうが、少しだけ寂しそうな表情で鍵を持っていた右手首を上下に動かした。
私はぼんやりしていた自分に気づき、こめかみにこぶしをあてて2回押した。
そしてくうが動かす軽やかでしなやかな手首を見つめた。
当たり前のようにそこにあった腕時計。
今はそこに時計はなく、ただYシャツの袖がコートの中から見え隠れしているだけだった。
一緒に時を刻んできた時計。
メンテナンスが終わるのは明後日になる。
たった4日ほどだというのに、私は言いようのない不安を感じていた。

「どうかした?そら。」

くうの声に、私は慌てて顔をあげた。
くうはコートに鍵を入れながら、私の顔を覗き込んだ。表情が一瞬曇り、私がそんな顔をしていたんだと気がつく。

「なんだか寂しいなって思って。」

私は右手をぷらぷらと振って顔をあげた。
すると、くうは私の手を掴んで「これでも寂しい?」と微笑んだ。
その笑顔があんまり愛しくて、私はきゅっと胸が苦しくなって「ううん」と首を横に振るだけで精一杯だった。

「寂しくない。」

温かな幸福感と、ほんの少しの痛み。
ようやく、私はこの痛みに慣れてきた。
この痛みに名前があるなら、それはどんな名前がつくのか私にはわからない。
ただ、いっぱいになりすぎた想いが溢れて、私はいつも苦しくなってしまう。

「今週は早く帰れそうなんだ。」
「それじゃあどこかで待ち合わせする?」
「なんだかデートみたいだ。」

くすくすと笑うくうの横顔を見上げた。

この手の温もりも、笑顔も、私は当たり前になってしまった。
こんなにも幸せなのに、何故胸が痛み続けるんだろう。

動き始めた街の静かな息遣い。
寒さに震えながらも、一週間の始まりに見えないエネルギーが高まっていくのを感じる。
駅に向かういつもの道。
私はくうと手を繋いで歩きながら、泣きたくなるくらいの幸福感と切なさでいっぱいだった。



* * * * *



「松下さん、元気ないじゃない?」

加湿機が出すスチームの向こうから田上さんが現れて、私は驚いて「うぁっ」と変な声を上げてしまった。
彼女はそんな私の顔をじっと見つめて、まるで風船が割れたように大きな声をあげて笑いだした。
昼休み中で職員室の内も外も賑やかだとはいえ、一斉に私達へと視線が向けられたのを感じて、私は真っ赤になってしまった。

「た、たがみさんっ・・・!」
「あ、ごめんなんさい。あんまり素っ頓狂な声を出すから。」
「す、すみません・・・」
「今日、なんとなく元気がなかったから気になってたのよ。」

田上さんは手にしていた出張命令簿を私に渡して首を傾げた。
私より二つ年下の彼女は、仕事中かけている眼鏡を少しだけ持ちあげて「ほら、もう一人気にしてる人が。」と私の後ろの席を指さした。
その言葉に促されるように視線を動かせば、福田先生と話していた時田先生が慌てた様子で顔を背けた。

「・・・また私、何か失敗しちゃった?」

ぽつりと呟くと、盛大な溜め息とともに田上さんの両手が肩に置かれた。

「・・・ほんと、こんな鈍くて、よく結婚できたわね・・・というか、だから、かしら・・・?」
「?・・・田上さん、それどういう・・・?」
「時田先生、松下さんのこと気になって仕方ないんじゃない?」
「それは、嫌われてるみたいですから・・・」
「あーあーもー!!」

田上さんはじれったそうに俯くと、ひとつ深呼吸をして顔をあげた。
「そうじゃなくて」とひとり呟いて。

「それで?元気なさそうだけど、何かあったの?」
「何も、何もないですよ?」
「・・・本当に、嘘が下手ね。」

微苦笑して肩を竦めた田上さんは小さく首を振って、だけどそれ以上詮索しようとはせずに「この書類、今日中にね」と指さして事務室へと戻って行った。
私はデスクに向き直り、ボールペンを引出しから取り出した。

『嘘が下手ね』

これはよく言われる言葉だ。
少なからず、社会に出ていれば自分の気持ちを誤魔化したり抑えることは必要なスキルだし、くうが話してくれたように"笑顔"も円滑な人間関係を築く上で大切なものだと思う。
『嘘』をあえて吐く必要はないとは思うけれど、気持ちをデフォルメさせることは必要で、私はそれが下手なのだ。
ストレートに表現することも、デフォルメさせることも苦手。
いつも曖昧な態度になってしまう。それでも、その曖昧さですら見抜かれてしまうほど、私は一つひとつがぎこちない。
自分だけではないのだと強く意識すればするほど、情けないけれど上手く立ち回ることができないのだ。

学生時代に比べたら、随分とマシになったとは思う。
それはくうと出会って"それでもいい"と言ってくれる人ができたからなんだとわかる。
ぎこちなさを微笑んで受け止めて。
くうはいつも私の嘘を見破る。
それを私は悔しいと思っていた。
言葉にしなくても気持ちが伝わってしまうことは、隠す術を知らない私にとって、初めの頃はただただ驚いて、そして少しだけ脅威だった。
それでも、それが心地よいと知ってからは、それが安心感へと姿を変えた。

そらは賭けごとに向かないね、と笑われる。
嘘を吐くのが下手だね、と。

「あの角を曲がって最初に出会った人が男の人なら手を繋ごう」
「雨が降ったらキスしよう」
他愛もない、言葉遊びのような甘い賭け。
上手く気持ちを伝えられない私に、くうはいつもそうやって戸惑う私に手を差し伸べてくれたから。
くうの隣にいることに、いつも意味をくれたから。

小さな嘘。
見抜いてくれることを望んだ嘘。
私は賭けに負けた。
それがどんな大きなダメージになるかなんて・・・わかっていたはずなのに。

ペン先が涙でぼやける。
仕事中に、こんな風になってしまう自分は、やっぱりどうしようもない。
俯いたまま、零れてこないようにそっと目の端を拭うように指先を動かす。

愛されているのに、これ以上はないほど大切にされているのに、何故不安になる必要があるの?

昼休みの終わりを告げるチャイムが、私の思考を見抜いたかのように鳴り響く。
馬鹿げた感傷は、もう、終わりにしなさいと、ここは職場なんだと、私に気づかせてくれる。
いつもなら、それで気分転換ができるのに。
それなのに、今日は駄目だった。

こんなことじゃ駄目よと自分を叱りつけて、少し早いけれど教室へ行こうと立ち上がる。

「松下先生、そんな顔で受験生の前に出ないでください」

教科書を持った私の背後から、時田先生が言って腕を掴んだ。
職員室は午後の授業に向かう先生たちが忙しなくデスクを片付けたりコピー機の前でやりとりしている。
そんな中、私は声も上げられず給湯室に引きずられて行き、そこで酷く怒った顔の時田先生に見下ろされていた。
アコーディオンカーテンで仕切られるそこは、大人が3人も立てばいっぱいの狭い空間だ。
数センチ先の廊下では、生徒たちが教室に戻っていく足音が響き、残像のような影が小さく開いた隙間から見えていた。

「時田せんせ・・・」
「そんな、辛そうな顔して、生徒の前に出るつもり?」
「あ、あの」
「どこか悪いなら、さっさと早退しろよ!」

とても突き放したキツイ言い方なのに、その言葉は相手を思いやる言葉。
私は強く掴んでいる時田先生の手にそっと触れて「イタイです」と苦笑した。彼ははっとして私の腕から手を離すと、バツが悪そうに俯いて「悪い」と小さく謝罪した。

「体調悪いわけじゃないんです。ごめんなさい。また自覚が足りなかったです。」

これだから非常勤は!といつもの言葉を覚悟して、確かにその通りだと詫びるつもりでいたのに、彼は小さく悪態をついて私を抱き寄せた。抗う暇もなく時田先生の胸に押しつけられ、頭の中がパニックを起こす。
ぎゅっうっと強く抱きこまれてしまって、瞳から涙が溢れた。
時田先生のコロンの甘すぎる香りで苦しくなる。
これは、くうじゃないのに、くうと錯覚してしまう。
錯覚して、行き場のない想いが溢れだす。

違うのに。
違うのに――くうの腕の中は、私だけの場所なのに。

イヤダ。
抱きしめないで。
その腕に、誰かを抱きしめないで。
あの人を抱きしめないで。

私の中で、私が叫んでる。

どうして彼女の匂いがするの?
7年前と同じ。
どうしてくうの胸の中で、あの人の香りがするの?
何故私の嘘を見破れないの?

「うっ〜っ・・・・・っ」

声を殺して、私は溢れてしまった感情とともに流れる涙をどうすることもできずに唇を噛んだ。
くうに聞けない言葉たちが、私の中で出口を求めて渦巻く。
積み重ねてきた歳月が足元から掬われていくような感覚に、私は恐怖心さえ感じていた。

なんて醜い感情を持っていたんだろう。

「・・・とっ・・・・せんせ・・・・もう、放してくださ・・・・」
「卑怯だ。そんな風に泣かれたら、俺は・・・」

「!!」

顎を持ち上げられ、唇を塞がれた。
背中に冷たいものが伝う。
突然の出来事に瞳は見開かれたまま、ショックで閉じることもできずに時田先生の閉じられた瞼を凝視してしまった。
呼気を奪うような激しさに、私は咄嗟にその場にしゃがみこんだ。身体全部が悲鳴を上げるような感覚が私の動きを妨げようとするから、気付かないフリでカーテンを掴んで立ち上がり、隣の更衣室に駆け込んだ。

「松下先生!」

名前を呼ばれ、私は震える手で鍵をかける。カチンという無機質な音が響くとすぐにドンと扉を叩かれて、私はその場にずるずると座りこんだ。

私は、何をしたの?

唇に感じた熱は、私の知らないもの。
くう以外の。

頭の中で蘇るシーンに身体がガタガタと震えだす。

「・・・悪かった。急に。」

扉越しに聞こえた声が微かに震えている。
私は震える体を抱きしめて首を横に振った。

「わ、私が、いけないんです。泣いたりして、ごめんなさっ・・・」

無防備すぎると、くうに言われる意味がわかった。
年相応に振る舞えない私が、悪いのだ。

「・・・大丈夫、ですからっ・・・ちゃんと、生徒の前に出れるように、しますからっ。」

余鈴が鳴る。
授業まであと5分。

「お願っ・・・行ってくださ・・・い」
「くそっ・・・!」

背中越しに、時田先生の足音が遠ざかっていくのを感じながら、私は唇を何度も擦っていた。
情けない自分自身を叱りつけながら立ち上がり、備え付けられている簡易洗面台の蛇口を捻った。
勢いよく流れだした水を手で掬って顔を洗う。
唇も。
鏡の中に、生気のない亡霊のような自分が佇む。
鏡の端は何故かひび割れていて、ちょうど心臓のあたりに棘がささっているように見えた。
そっと、胸に手をあてる。

抜けない棘。
私には、ずっと、これが刺さっている。



* * * * *



「そら!」

改札を抜けた私を見つけて、くうが名前を呼ぶ。
私は痛む胸を無視して微笑み、くうが改札を出るのを待った。

「凄いタイミング」
「本当に早く帰れたんだ?」
「俺もびっくり。」

向かい合って、どちらからともなく笑う。

「帰ろう?今日は俺も料理手伝うよ。」

差し出された手に、自分の手を重ねる。
こんな何気ないことが、本当はとても幸せなことなんだと今更ながらに思い知る。
そっと触れた手のひら。お互い手袋をしているけれど、それでも体温を感じる。
ほっと息を吐く。一瞬息を止めていたことに気づいて、緊張していることを自覚した。
身体が強張っていた。お昼休みの、あれからずっと、私の全部が強張ったままだ。
学年会議があった時田先生とは、あの後一度も顔を合わせていない。
ただ、走り書きのようなメモがデスクに挟んであった。

「・・・」
「・・・?どうかした?」

いつまでも歩きだそうとしないくうに、私は不思議に思って声をかけた。見上げた私の視線の先、くうは私をじっと見つめていた。
一瞬、フラッシュバックが起こる。
身じろぎしかけた私をくうの手が引きとめる。

「・・・そら、何か・・・」

ひゅっと息をのみ込む自分の喉にぎくりとした。
私の様子に、くうは焦燥感を持ったようにぎゅっと手を握って引き寄せた。

「何かあった・・・!?」

瞬間、くうの携帯が鳴った。
スーツの内側から響く呼び出し音に、くうは焦れたように左手を使って取り出した。
右手はしっかり私の手を握っている。

『あ、くう?』

携帯越しに聞こえた声に、私だけじゃない、くうも身体を強張らせたのがわかる。
それまできつく掴んでいたくうの指先から、力が抜けていくのを感じていた。
私の手がだらりと落ちる。

「葉月?なんで・・・」

私の手からくうの指先が離れる。さり気なく背を向けたくうが、声を落とした。
その名前に、心臓がズキンと音を立てて軋む。

「何、おまえ、勝手な・・・・!」

(葉月さん・・・!)

思わず声に出しそうになって、慌てて口を押さえた。

「駄目に決まってるだろ!」

普段にない、くうの怒った声。
多分、くうをこんなに振り回せるのは、彼女だけだ。
私はくうの背中に手を伸ばしかけてやめた。
こんな時だから、くうに触れていたかったけれど、もしも、もっと遠くに離れてしまったら・・・と弱気な気持ちが躊躇わせた。
ふと、私の携帯もメロディーを奏でていることに気づく。
すぐに切れたそれはメール着信を知らせるものだ。
私は逃げ道を見つけたように携帯を取り出して、メールを開いた。
送信者は誰かわからない。登録されていない、見慣れない文字列。
メールを開くと、そこにはデスクにあった走り書きと同じ文字が飛び込んできた。

"今日は、ゴメン。"

誰かから聞いたのだろうか?
職場で携帯のアドレスを知っているのは、限られた人たちだ。
最初の頃、私に警戒心を抱いていた女性教諭たちは、今では既婚者ということで警戒心を解いている。
画面はそこで終わりではなく、しばらくスクロールすると、また文章が始まった。

"キスするつもりは、なかった。気持ちが抑えられなくなった。
俺はあなたのことが、"

そこまで読んで、私は携帯を閉じた。

「とにかく、駄目だから!」

強い言葉で拒絶して、同じようにくうも携帯を閉じ、コートのポケットに携帯を入れた。
そして私の顔を見ずに私の手を掴んだ。携帯を握りしめたままの手を。

「あ、」

私は慌ててもう片方の手で携帯を掴んでバックに放り込んだ。
そんな私の様子をちらりと見たくうは、あの背筋が冷たくなるような綺麗な笑顔を浮かべていた。

「そら、携帯、誰から?」
「あ、の、先生からっ・・・・く、くうこそ、誰から?」
「先生、ね。」
「くう・・・!」

やけに早足で歩くくうは、私の問いかけに答えずに気のない返事をしただけだった。
空気がピリピリとして、私はそれ以上突っ込んで訊ねることもできずに歩き続けた。

誰からかなんて、聞かなくてもわかっている。
多分お互いに。

いつもは歩幅を合わせてくれるくうが、自分のペースで私を引きずるようにして歩く。
もともとのリーチが違うのだから、しばらくすると私のつま先は痛みを感じ始めた。
それでも、必死についていく。
置いて行かれたくない。
離れたくはなかったから。

「ぅっ・・・・」

泣きたくないのに、涙が溢れてきて俯いた。
最初の一滴が頬を伝うと、くうは立ち止って私を抱きしめた。
抱きしめながら、大きく深呼吸している。

「そんな、声を殺して泣かないで・・・悪い、俺、ホントそらのことになると・・・」
「くう・・・」
「ごめんな。どうかしてる・・・俺。」

気がつけば、私たちはすでにマンションの前に立っていた。
慌てて離れようとする私を抱きすくめたまま、くうは私の涙を追いかけるように唇を落とした。

「見せつけてくれるわね。」

可笑しそうに響いた声に、私はようやく緩みかけていた体中の緊張の糸が、先ほどより強く自分を締め付けるのを感じた。

「こんばんは。」

凛とした声が響く先、マンションのエントランスへと視線を動かす。
見慣れた場所が、急に異空間に変わってしまったような衝撃。

「葉月」

見開かれたくうの瞳。
予期せぬ訪問者は、ヒールの音を響かせながら私たちに微笑んだ。
6年という歳月が全て糧になったのだとわかるほど、にっこりと笑う彼女は眩しかった。
圧倒的な存在感。
それは学生時代より、ずっと強くなっていた。
こんな風に年を重ねられたら・・・と、誰しも思うほどに。

「実はね、さっき電話した時にはもうここに着いていたのよ。まさか二人一緒にご帰宅とは思わなかったけれど。」

相変わらず仲良しね、と目を細めた葉月さんは、それまでくうにだけ向けていた視線を私へと向けた。
急に、恥ずかしさがこみ上げて私はくうの腕から離れて「こんばんは」と頭を下げた。
こんなにも対照的な二人もいないだろう。

太陽のような眩しさを持つ彼女と、その影のような私。

「お久しぶり。空さん。あら、お勤めしてるの?くうの稼ぎだけじゃ食べていけないのかしら?」

彼女は冗談めかして明るく笑った。私はくうを見ることができず、そのまま彼女の視線を正面から受け止めていた。
私の戸惑いを承知した顔で葉月さんは肩を竦め、挑むような瞳でシンプルな紙袋を差し出した。

「急に来ちゃってごめんなさい?」

「はい」と突き出されたその紙袋を両手で受け取り「ありがとうございます。」と抱きかかえた。
その後に続く私の言葉を予測しているような表情に、私はありったけの力を振り絞って口を開く。
心の中で、言っちゃ駄目よ!と声がしていたのに。

「立ち話じゃ・・・・なんですし、あの、片付いていませんし、たいしたおもてなしはできませんが・・・・どうぞ?」
「ああよかった!ほら!空さんは快く招いてくれるじゃない!まったく、くうは心配症ね!」

さっと向きを変えた葉月さんは、くうの腕をとって微笑みかけた。
ふわりと、葉月さんの香水が香る。
その仕草にまた痛みが走って、私は思わず顔を背けた。

「そういうことじゃないだろう?こんな急に来て、こっちの都合とかも考えろよ。」
「あら、この前お願いしたのに、くうったら返事くれなかったんじゃない!」

彼女の腕を振り払うようにして、くうは私の腰を後ろから抱いた。
促されるようにして歩きだした私は、隣でくうを見上げる葉月さんに釘付けになる。
二人の会話がダイレクトに脳に響いていた。
何か話そうと思うのに、二人の会話に入っていく隙がなかった。
私にはわからない言語のように、それはやがて耳障りなものへと変化していく。

「言ったでしょ!私こっちでマンションのデザインコンペに出ることになったんだって!ファミリータイプなんて初めてなの。だから、部屋を見せて欲しいって言ったじゃない。古すぎても駄目、最近の流行りでもつまらないの。私がイタリアで手掛けてきたものがどこまで通用するのか、実際に住んでいる人の部屋が見たいのよ。くうならわかるでしょう?私の夢を応援してるって言ってくれたじゃない!」



くうが鍵を開ける間、葉月さんはその後ろ姿を切なそうに見つめていた。
ああ、まだ、この人はくうのことが好きなんだ。
そう実感せずにはいられない瞳。
私の視線に気づいたのか、葉月さんは私を見て微笑んだ。

「ごめんなさいね?」

その言葉の真意がどこにあるのか知るのが怖かった。
私は強張った顔で「いいえ。」と返すだけで精一杯だった。

「ざっと見たら、帰れよ?」

くうの声がどこか許すような諦めたような響きを持つ。
この強引さに慣れていて、それを懐かしいと感じているのだ。
何故、今、私はそんなことがわかってしまうのだろう。

それは、私に向けられる感情じゃないから。

コートを脱いでコーヒーを用意する間、葉月さんが質問するあれこれに答えながら室内を案内した。
くうは疲れたようにソファーに座って、誰かに電話し始めた。

「ねえ、空さん、くうはいい旦那でしょう?」

バスルームを覗き込んでいた葉月さんが、振り返って訊ねた。
私は「はい」と頷く。

「私には勿体ないくらいの、旦那さまです。」
「そうよね。本当に勿体ないわ。だって、本当は、私がこうして一緒に居るはずだったのに。」

バスルームから出てきた葉月さんは、備え付けの洗面台の下を開けたり素材を確かめながら、なんでもないことのように言葉を続ける。
「・・・あら、今回は言い返さないの?」

喉に張り付いてしまった声が、私の息の根を止めようとするかのように、私は呼吸することもできなくなっていた。
葉月さんは顔を顰め「面白くないわね」と呟いて、キッチンへ向かった。

「あ、手伝うわよ?」
上着を脱ぎ、Yシャツの袖をまくったくうが来客用のコーヒーカップを手にしている。
葉月さんはそこに向かって嬉しそうに駆け寄った。

「ねえ、キッチンは使いやすい?」
「いいから、触るなって。もういいだろ?座ってろって!」

(そこは、そこには、入らないで・・・!)

くうの隣で微笑む葉月さんに、私は声に出せない叫びをあげていた。
バラバラになってしまいそうだった。


葉月さんが滞在したのは、1時間に満たない時間。
野住さんが車で迎えに来て、葉月さんは帰って行った。
エントランスまで送っていったくうが、もう戻ってこないかもしれないと思えた。もちろん、すぐに帰って来てくれたのに。

「ごめんな、そら。あいつ、昔っからああで・・・。」

私は首を振った。

(あやまらないで。)

くうに謝ってほしくなかった。
多分、私がおかしいの。

「ごめんね、なんだか圧倒されちゃって・・・」

くうは苦笑して、私の頭をくしゃりと撫でた。



嵐のような彼女が去った後、私は彼女から受け取った紙袋の中の包みを開けた。

「・・・!」

そこにあったのは、静かに時を刻む腕時計。
男性用の、腕時計だった。

止まってしまった私の時計。
抜けない棘が、胸に残る。
2009,2,22up

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