(これは、単なる偶然?)
――そうじゃなかったら、なんだというの?
(お土産、とか・・・そういうもの、だよね?)
――それにしては、随分値の張る・・・素敵なものだわ・・・
どくどくと速まる鼓動に、息が苦しくなる。
手の中で存在感を誇示するかのように洗練されたデザインの――くうの腕によく似合いそうな――腕時計から視線を外せなくなる。
(私に、渡したのは・・・何故?)
くうと結婚する前も、それからも、何年もの間、私は守られるばかりで戦ってこなかった。
恋愛を戦いに見立てるという考えもなかったのだから、幸せだ。
奪ったり奪われたり、そういうものじゃないでしょう? と、ずっと思ってきた。
幾つになっても、私は変わらない。
いつまでも、ちゃんとした大人にはなれない。
手の中で時を刻む時計。
(何故かなんて・・・決まってる・・・)
これは彼女からの宣戦布告。
望むと望まざると、もう戦いの火蓋は切って落とされたのだろう。
気がつかずにいたのは、私だけで。
室内にまだ仄かに残っていた葉月さんの香りが、まるでここは私の居場所だと主張するように、私の心の中に侵攻してくる。
じわりじわりと忍びよっていた恐怖が、突然膨れ上がり、私は息を呑む。
帰り際、野住さんがエントランスから鳴らしたインターフォンにくうが出ると、葉月さんは「今日はありがとう」と艶然と笑みを浮かべながら私の耳元で囁いた。「子供、あれから作らなかったのね? 」と。
凍りついたように葉月さんを見つめた私に、彼女は同情するように首を傾げ「でも」と続けた。
「おばさまも安心ね。楓花ちゃんに赤ちゃんができたのでしょう?」
言葉に魔力が宿っているように、彼女の発した言葉は、私の中の奥深くに確実にダメージを与える。
それを確認するように、葉月さんはしばらく私を見つめた。
頷くことすらできず、私は乾いていく瞳に彼女を映していた。
私の反応が期待通りだったのか、葉月さんは満足そうに眼を伏せると耳元に再び囁いた。
「ああ、ごめんなさい? 作らなかったんじゃなくて、できなかった、のかしら?」
思考回路がショートしてしまって、私はただその箱の中身を見つめていた。何もかもが奪われてしまったかのようなのに、箱の中では狂うことなく正確に時を刻む音が響いていた。
(腕時計を選んだのは、偶然?)
何度となく、浮かぶ問いかけ。
(私たちが一緒に時を刻んでいこうと誓った、唯一のものだと、葉月さんは知っていた?)
秒針が立てる微かな音は、まるで私の心臓を細かく切り刻んでいくような音だった。
容赦なく、狂いなく。
だけど、私は戦う術を知らない。
失いたくはないのに、誰にも渡せない想いなのに、どうしたらいいのかわからない――。
「そら? どうかした?」
どれだけの間、私は箱を見つめていたのだろう?
背後からくうの声がして、私はびくりと身体を強張らせた。
両手で持っていた小箱がコロンと膝の上で一度跳ね、そのまま床にコトンと音を立てて落ちていった。
「あっ」
咄嗟に手を伸ばして小箱を拾い上げようとしたのに、私の指はまるで壊れた操り人形のように、思い通りには動かせなかった。
まごつく私の背中越しに、くうの長い腕が伸びてそれを拾い上げた。
バスルームから出てきたばかりのくうの髪から、滴がぽたりと私の手の甲に落ちた。
「・・・? これは?」
くうは私を抱き込む様に後ろに座り、顎を肩の上に乗せて耳元で訊ねた。
やんわりと抱きしめられ立ち上がることもできず、くうの手にのせられた小箱から目を離せなかった。
声が出せるか不安になりながら、それでもくうの問いかけに答えようと喉の奥から声を押しだした。
「は・・・葉月さんから・・・ごめんなさい、私、くうへのプレゼントだって気づかなくって・・・その・・・開けてしまったの。」
「葉月から?」
「ごめんね」
肩にのせていた顎を持ち上げ、落ちてしまった時に閉じた蓋にくうが触れる。
きっと、くうは気に入る。とても素敵な時計だもの。
受け取る、受け取らないは別として、葉月さんのセンスの良さにくうは心を動かされるだろう。
それを私に悟られないようにするだろうか?
(今の私は、そんなくうの姿に耐えられる?)
「なんで謝るの? 中身はなんだった?」
「あ、え・・・と・・・」
"腕時計"と答えられず、口ごもる。
何を怖がる必要があるというの?と私の中で私が背中を押す。
くうの気持ちを疑っているみたいだわ、と不満顔で。
でも、そうじゃない。
そうじゃないの。
そういうことじゃないの。
「そら?」
「あ、けて、みて?」
"開けないで"と言えない私は、本当に馬鹿なんだ。
私の言葉を、くうは必ず聞き入れてくれるとわかってるのに。
くうは「んー」と腑に落ちないような声を返して「じゃ、開けるよ? 」と呟いた。
触れないで欲しいと願う気持ちが大きくなって、蓋を開けようとするくうの指先を凝視してしまう。
しなやかな指先に力が入るのを感じ、私はその瞬間に備えるように、ぎゅっと瞳を閉じた。
「先に見ちゃって・・・ごめんね」
「・・・」
視界を自ら遮断したことで、くうの気配や物音に敏感になる。
小箱の中から、微かな音がカチカチと聞こえてくる。
まるで私を粉々に吹き飛ばす起爆装置を前にしたかのように、心音が激しくなる。
だけど、いつまで待っても蓋を開ける音は聞こえてこなかった。
それどころか、くうは両手で私の肩を掴むと、寄りかからないように背筋を伸ばしてした身体をぐいっと自分の胸に引き寄せた。
コトンと再び床に響く音。
Tシャツ越しに伝わるお風呂上がりの温かな肌。
「く、くう・・・?」
驚く私を強く抱きしめ、くうは呻くように「なんで謝るの? 」と小さな声で言った。
その声はとても怒っているようで、だけどどこか寂しさを滲ませていて、私の心はざわざわと言いようのない焦燥感でいっぱいになった。
私は、何か見落としたのかな。いつだって、私は的外れなことをしでかしてしまう。
「なんでそんなに謝るの?」
「あ、あの・・・」
「葉月はそらに紙袋を渡したんだ。だから俺も、ソレは"俺たちに"持って来たんだと思ったよ。だから、謝る必要なんてないだろ?」
「でも、」
くうの言葉に、あの時の葉月さんの挑む様な表情を思い出す。
葉月さんは、私に渡したかった。
その方が都合がよかったから。
(くうとの関係を修復したいと望んで・・・)
言葉にできない想いに、唇を噛みしめる。
私が二の句を継げずにいると、くうが言葉を紡いだ。
「葉月が押し掛けたこと、悪かったと思ってる。本当は、ここにだって居れたくなかった。」
「あ、それは、私が、どうぞって言ったから・・・」
「違うよ。責めてるわけじゃない。あの状況で、そらが断れるわけない。わかってて、葉月はそらに渡した。むしろ責めたいのは俺自身の方。そらを苦しめるってわかってたのに。」
「そんなことない、私がいけないの・・・」
また"ごめん"と言いかけた私を制して、くうが自嘲気味に笑ったのがわかる。
胸の中に居ても、それぐらいわかってしまう。
「そら、今自分がどんな顔してるか、わかってる?」
くうは言って、右手で私の背中を抱いたまま、左手で頬に触れた。
顔をあげると、苦しそうな瞳で私を見下ろすくうの顔が待っていた。
自分の表情を気にする余裕なんて少しもなかったから、くうの言葉に私は内心どきりとした。
(酷い顔して・・・る? ・・・私、凄く醜い顔してる・・・!)
嫌な顔だ。嫉妬やいろいろな感情で、きっと、酷い顔をしている。
そう自覚すると情けなくて恥ずかしくて、くうの視界から逃れたくて体を捩った。
だけど、くうはそんな動きを優しく封じて、その胸の中に私を抱きこんだ。
「逃げないで。お願いだから・・・」
くうの腕の中は、馴染んだボディーソープの香りだけがした。
他の誰かの香りの混じらない、すっきりとした香りを胸いっぱいに吸い込んで、私は言いようのない安堵感に包まれ目を閉じた。
強張って震えていた心がくうの体温で温められていく。
「そら」と呟く声に、私はようやく体の力を抜いて、くうの胸に寄り掛かり、おずおずとその背中に手を伸ばした。
肩甲骨に指先が触れると、くうが安堵したように小さく息を吐いた。
「傷つけてるのは、俺?」
「・・・?」
掠れたようなくぐもった声が、押しつけられた鼓動とともに聞こえてくる。
くうの鼓動が、大きくなる。
私の鼓動も大きくなる。それは痛みをともなって、私は小さく首を振る。
「そらを苦しめているのは、俺?」
「ちが・・・」
「俺じゃ、話せない?」
ズキン、とまた胸が痛んだ。
でも、この痛みは今までのものとは違っていた。
外側から与えられた痛みじゃなく、私自身の・・・内側から突き上げる痛みだ。
「そんなこと、」
ない、と言いかけて、また痛みを感じてぎゅっと目を閉じる。
「そらは・・・嘘を吐くのが下手だね」
切なそうなくうの声に携帯のメロディーが重なった。
私の携帯。
誰か・・・先生たちからかかってきたことを知らせるメロディー。
くうは大きく息を吐くと、腕に込めていた力を緩めた。
私はくうの声色に胸が掻き毟られるような気持ちになって、慌ててくうの顔を見上げた。
そんな私の額に、くうは額をぶつける。
不意打ちの攻撃に「アイタ! 」と声をあげた私をじっと見つめ、くうはくすっと笑って立ち上がった。そして私のバックから携帯を取り出して、座ったままじっとその動きを見つめていた私に「はい」と差し出した。
私を見つめる瞳は悪戯っぽく細められたけれど、すぐに視線を外されて、その奥の感情を読み取らせはしなかった。
転がっていた小箱を拾い上げテーブルに置くと、くうはキッチンへ向かった。
私は画面を確かめることなど忘れて、くうが冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出すのを見つめた。
本当は電話になんか出てる場合じゃないと頭の中では警鐘が鳴らされていた。
(くうと話さなくちゃいけない)
何をどう話せばいいのか、それすら掴みかねているというのに、ただそう思うのだ。
(今話さなければ、もしかしたら、私は大切なものを失ってしまうかもしれない。)
脅迫観念が強く私を支配する。
それは不安定な私の心が、勝手に自分を追い詰めて悲劇のヒロインを演じようとしているみたいだ。
馬鹿げている。
何もかも与えられ、そしてこんなにも愛しいくうの何を信じられないというのだろう?
抜けない棘など無視して、彼女の言葉など気にかけず笑っていきたいと思うのに。
そんな考えを遮るように携帯からのメロディーは流れ続けた。
そのまま無視することもできず、フラップを開いて通話ボタンを押した。
「・・・お待たせして、申し訳ありません。松下です。」
『あ・・・』
長い時間待たされ、それでも途切れることがなかった呼び出し音だったはずなのに、通話口の向こう側では私が出ないと思っていたのか、驚いたようなまごつくような一音が出た後、名乗る言葉もなく無言が続いた。
たった一言ではあったけれど、低く抑えられた声の主がわかって、私は身体を強張らせる。
(時田先生・・・)
あまりにいろいろな感情が襲ってくるから、昼間の出来事が同じ一日の中で起きたことだということさえ忘れていた。
だから、その声を聞いて、思わず唇を押さえてしまう。
情けない私の弱さをまた一つ、突きつけられた。
痛みが、目の前で積み重なる。
(くう以外の人と唇を重ねた・・・。)
メールをもらって、返信もしていなかった。
私はくうから視線を逸らし、無意識に背を向けた。
背後でコップに水を注ぐ音が聞こえていた。
ぎゅっと携帯を握りしめて、私は息を殺して言葉を待った。かかってきた携帯を握りしめたまま、会話のない不自然な時間が流れる。
「・・・」
『・・・』
コップに注がれた水を飲み終えたのだろうか、シンクでコップを洗う音が響きカチャンとスタンドに戻す音がした。
「あの・・・時田先生?」
無言に耐えられなくなった私が呼びかけると、携帯越しに小さく呻くような声が聞こえた。
あまりにも苦しそうな声に、思わず「大丈夫ですか?」と訊ねてしまう。
『なんで、俺だってわかったんですか?』
「あの、どこか悪いのでしたら・・・」
『ああ、登録されてるからか・・・』
「あの、」
会話が噛み合わず、おろおろとする私が見えているかのように、時田先生は無言だったことなど忘れてくすくすと笑いだしていた。
『どこも、悪いところなんてないですよ。あなたのことが、気になって仕方がないということだけで』
「・・・・!」
『電話、出てくれないと思ってたから、繋がって驚いた。』
今度は私が言葉を失う番だった。
『今日の・・・こと、謝りたくて。メッセージとかじゃなく、ちゃんと、言葉で。・・・悪かった。あんなこと、強引にするべきじゃなかった。』
「あれは、私が、悪かったんです。」
背中がぞっとして、震えた。
怖かった。
男の人の力の強さも、自分の弱さにも、私は恐怖を感じていたのだ。
それでも、私がとった態度が彼を駆り立てのだろうと思うと、自分自身を責めるしかできなかった。
『メール、読んだ? 最後のあれは、本気だから。例え、結婚していても』
「ごめんなさい。」
ガタガタと唇が震える。
「時田先生のお気持ちには、応えられません」
ようやく言葉を振り絞り、私はそれだけ言って携帯を切った。
涙が零れそうになって、大きく息を吐いた。
誰かを傷つけるということが、私の心を怯えさせた。
「あいつから?」
真後ろから声がして、私はそのまま凍ったように固まってしまった。
"あいつ"なんて言い方、くうらしくないね、と振り向ければよかったのだけれど、そうできなかった。
「時田、だっけ。前にそらに電話してきた。もしかして、メールもそうだった?」
素っ気なく話す声は、だけど必死に感情を抑え込んでいるように震える。
握りしめていた携帯を取り上げ、くうが無遠慮にボタンを押し始めた。
何をされているのか最初はわからず、くうの指先を見つめる。
小さな画面に、文字が並ぶ。
(メール!?)
「くう・・・!」
ようやくくうが何をしようとしているのか気づき、非難の声を上げる。
「見られて困るものがあるの?」
くうの声は、からかうような明るい声だった。
だけど、一度も携帯から視線を外したりせず、くうはボタン操作を続けた。
"今日は、ゴメン。
キスするつもりは、なかった。気持ちが抑えられなくなった。
俺は、あなたのことが好きだ。"
「キス・・・?」
小さな呟きの中で、たくさんの感情がせめぎ合っているのがわかる。
嫌悪も含まれていただろうか?
私は唇を押さえて、座ったまま後退った。
ただ唇が触れただけだ。
自分に言い聞かせるように、言葉にしようとする。
私が息を吸い込むより先に、くうが私の腕を掴んだ。
「あいつと・・・キスしたの?」
触れただけ。
私は時田先生のことを同僚としか思っていない。
そんな当たり前のことを言葉にして、それがなんだというの?
くうが知りたいのは、そんなことではないのだ。
必死に首を振り、言葉を探す。
「許したの? そらが、望んだの?」
「そんなわけっ・・・! 無理やり、でも、私が悪くて・・・!」
くうの瞳が冷たく私を射た。
口元にいつもの綺麗な笑みはなかった。
「無理やり、なのに、庇うの? そらは。」
強引に、くうは私を上向かせた。
そして、唇を奪った。
噛みつくようなキスは、重ねられてすぐに深められる。
「んっ・・・!」
苦しくなって胸を押しても、くうは抱きしめる腕を弱めることをしなかった。
いつものように、私を安心させるキスではない。
官能を呼び起こすための甘やかなキスでもない。
「くっ・・・うっ・・・!」
呼気まで貪る口づけは、私から全てを奪い尽くす為に施される。
くうの中に、こんなにも激しい嵐があったことを私は知らなかった。
いつも穏やかだったから。
嵐の真っただ中に投げ出されてしまったかのような怖ろしさに身が竦む。
昼間の時田先生の行為も、ここまで激しくなんてなかった。ここまで怖くなかった。
そもそも、恐怖の意味合いが違うのだと、混乱する頭の中で声がした。
時田先生に感じた恐怖は、生理的な恐怖。
奪われてしまうのではないか、という外因的なもの。
くうが怖い。
でも、本当は違う。
くうの嵐を知っても、私の気持ちは・・・変わらない。
激しいまでの、翻弄されるような感情の迸りを、手に負えず持て余しながらも・・・私はどこか喜んでいる。
真っ直ぐに向かってくる気持ちは、私を独占しようとしているのだとわかるから。
くうが怖いんじゃない。
今、私が怖いのは、何より恐れているのは。
――内側から突き崩されてしまうこと。
私の中で渦巻く、どす黒い感情が・・・溢れだしてしまう。
隠しておいた感情が、どうしようもない独占欲が、私の中で息を潜めていたものが。
棘は、抜けなかったのではなかったのかもしれない。
抜かなかったのだ。
その傷口から、漏れ出してしまうのが怖かったのだ。
醜い気持ち。
感情をコントロールする術を知らない私は、きっと、真っ黒になってしまう・・・。
それが怖い。
だから押し止めようと首を振る。
そんな私を内側から揺さぶるように、くうの中の嵐は荒れ狂う。
「そら、俺はそらを渡さない。誰にも・・・そら自身にも。」
くうの言葉をそのままくうに返したくて、私はくうの首にしがみついた。
涙が頬を伝っていく。
視界の端に、テーブルに置かれた小箱が見えた。
葉月さんの自信に溢れた美しい顔が浮かぶ。
失えない、誰にも奪われたくない。
私は、これからも、くうと一緒に居たい。
誰よりも、強くなりたい。
怯え、嘆き悲しむだけの世界に留まるなんて、したくない――。
2009,4,19up
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