言葉にはしないけど。

9、小さな嘘


刻を重ねていけば、忘れられると思っていた。
積み重ねていく時間が、二人の間で確かな繋がりを築いていくんだと。
疑ったり、嫉妬したり、そんな感情を持つことなんて、この先はないのだと思っていた。
7年という時間が、私たちの中で同じだけの価値を持つ。
深まるだけの想い。
大切にされているのに、愛しくて仕方ないのに。
それなのに、何故今頃になって、7年前の痛みに引きずられるんだろう。

私は、くうの隣に居ていいの?
――そんな問いかけが、ずっと頭の中を支配していた。




一人分の食器を片づけ終わり、コーヒーを入れたマグカップを持ってソファーに座った。
小さくひとつ息を吐いて、両手で持ったマグカップを見つめる。
ミルクを入れたコーヒーは、キャラメル色。
いつもなら、すぐにカップをテーブルに置き、ソファー脇に置かれたサイドテーブルにある小説に手を伸ばす。
だけど、今日はそんな気持ちになれずにいた。

(せっかくあのシリーズの続き、借りられたのに。)

12月、図書館で偶然再会した神山君が譲ってくれた時代小説。
彼のお墨付きだったシリーズは、すぐに私も好きになって、図書館に行くたびに続きを探していたりする。
人気があるから、お目当ての巻数がないことも多くて、先週末ようやく続きを借りることができた。
それなのに、本を手にする気持ちになれないでいた。
今週は何かと忙しく、持ち帰ってしまった仕事(資料作りとか、小テストの問題作りとか)をこなすことで精一杯で、待ちに待った金曜の夜で。
授業で使えそうなものや続きを楽しみにしていた本も、時間ができたらゆっくり読もうと楽しみにしていたのに。

本の世界に逃げてしまうのは、私の小さな頃からの密かな得意技だった。
鈍くさくて、不器用で。いつだって私は妹の美波の引き立て役にしかならなくて。
自分がそれほど可愛くないことも、利発でないことも、小さな頃の私でも気が付いていた。
年頃になって、美波や周囲の女の子達が恋やファッションの話で盛り上がる頃には、私は図書室に入り浸るようになっていた。
本の虫と言われるほどではなかったけれど、嫌なことがあっても、悲しいことがあっても、本を開けば違う世界が待っていて――。

(それなのに・・・)

私はマグカップを持ったまま、ソファーの背もたれに寄り掛かった。

(まだ8時・・・。)

壁掛け時計を視界に入れてしまったことを後悔しても仕方ない。
こういう時に限って、時間はゆっくりにしか進まないのだ。
諦めに似た気持ちでカップを覗き込み、ゆっくりと口をつけた。香りも味も、ほとんどわからない。
わざわざドリップしたというのに、自分の舌に厭味のひとつも言いたくなってしまう。

私はカップをサイドテーブルに置いて、替わりに充電中の携帯を手にしてフラップを開いた。
マナーモードを解除しているのだから、メロディーが聞こえなければ着信もメールもないとはわかっていても、確かめるように小さな画面を見つめた。
わかりきっていることなのに、着信もメールもなく私は苦笑する。
胸の奥が小さく小さく痛む。
その痛みの正体をとっくに知っているのに、私は気がつかないフリをしたいのだ。

「大丈夫」

私は小さく呟いてみる。
その声があまりにも寂しそうで、泣きたくなる。


7年間、くうと過ごしてきた時間は本当に穏やかだった。
――最初の1年を除けば。

くうの腕の中は繭のようで、私はその腕の中でとても幸せな時を過ごしてきた。

お義母さまと私の間に出来てしまった溝でさえ、7年という時間の中で少しずつ埋められてきた気がする。
それはもちろん、私一人でできたことではなくて、楓花ちゃんもお義父さまも居てくれたから。
何より、くうが心を砕いてくれたからだってわかっている。

(それなのに。)


* * * * *


『12週以降の流産は"死産"扱いとなります。役所へ"死産証明書"を提出するのです。火葬許可も必要になりますが・・・』

医師からの説明を私はちゃんと覚えていない。
それでも説明を受けた後、私は赤ちゃんを見せて欲しいと頼んだ。
どうしても、見ておきたかった。
私の中で、生を受け死んでいった命。

『女の子でした。』

13週であったはずの赤ちゃんは、11週程度の発育で成長を止めていた。
小さな、小さな、片手で収まってしまう小さな存在。
私にとっては、かけがえのない大切な命だった。
止めどなく溢れる涙で、視界は歪む。
その命が流れ出るのを止める術はなかったのだと、何度言われても、何故守れなかったの?と責めてしまう。

無理はしてはいけないと言われたけれど、最期を見送ることだけは、どうしてもしたかった。
私とくうは翌日二人で死産届を出しに行った。
婚姻届を出して、まだ3週間もたっていないのに、まさかまた訪れるだなんて思っていなかった。
物心がついてから、私は身近な人の死というものを経験したことがなかった。
父方の祖父母は健在だったし、母方の祖父だけは亡くなっていたけれど、それは私が生まれた翌年のことで、当然私はまったく覚えていない。

私が初めて経験した"死"。

何故、それが、一番大切な・・・くうと私の赤ちゃんだったのだろう?

抱くこともできない赤ちゃんをそれでも両腕で抱きしめるように火葬場へ向かった。
ずっと心の中で「ごめんね」と呟いて。

――何も残らなかった。
ただすべてが煙となって空へ還って行った。
また、いつか、私たちの下に帰ってきてくれることを願いながら、その煙を見送った。


帰宅して、私はベッドで眠っていた。
気がつけば、隣の部屋で誰かが話していた。
今のようなマンションではなくて、2部屋しかないアパート。
・・・お義母さまの声だった。

「こんなことなら、結婚なんてしなくてよかったじゃない。」
「ママ!」

咎めるように遮った声は意外にも楓花ちゃんの声だった。
私は小さく身じろぎして、隣の部屋に背を向けた。
カタカタと震えだした身体を止められず、私はくうからもらった時計を探した。
眠る前に外して、ベッドサイドに置いていた。

「ああ、でもよかったわ。これで採用試験の時に"できちゃった結婚です"なんて言わなくてすむもの。あなただって『恥ずかしい!』って言っていたじゃない。」

まるで今の私には、それしか頼りにするものがないかのように、くうからもらった腕時計に手を伸ばして。

「実習中に大騒ぎさせておいて、この結末・・・本当にあの子は厄病神だわ」

だけど、震える私の手は、その大事な時計を掴むことができず、床に落としてしまった。
ガタンと鈍い音を立て落ちた時計。私は慌てて腕を伸ばしてそれを拾った。隣室の声が途切れた。そして、隣室と私を区切っていた引き戸が開いた。
泣きそうな顔の楓花ちゃんと、私と目が合った瞬間バツが悪そうに眉を顰めたお義母さま。
私はぐっと唇を噛みしめ、ベッドの上で時計を胸の前で握りしめた。
くうの姿は見えなかった。

「す、すみません、今、お茶の用意します」

私は急いで立ち上がって言った。
そんな私を見て、いたたまれなくなったように楓花ちゃんが「いいの!寝てて!」と私を止めた。
「あのね、私たち、お見舞いに来たのよ」と楓花ちゃんが言って「ね?ママ」と同意を求めるようにお義母さまを振り返った。私はその顔を見ることはできず「ありがとうございます。」と頭を下げた。

「・・・」
「・・・」
「・・・」

しばらく、そのまま誰も口を開くことができなかった。
沈黙に耐えかねて、私はようやく頭をあげお義母さまを見た。そして「申し訳ありませんでした」ともう一度頭を下げた。

「くうの赤ちゃんを守れなくて、申し訳ありませんでした――」
「・・・残念だったわね」

お義母さまの発した言葉に、私は初めて温かみを感じていた。
確かにお義母さまの声には同情と憐みが滲み・・・そして、何より私に対する優しさも感じられた。
だから私は一瞬心の鎧を脱いでしまった。
大好きな人のお母さん。本当は、一番、悲しみを分かち合いたい人だった。
母として、女性として。
失ってしまった命の重みに耐えかねて、私は心を曝け出してしまった。
だけど。

「赤ちゃんが貴女じゃ無理だって判断したのね。だから流れてしまったんだわ。」
「ママ・・・!」

私は一生懸命笑おうとした。「そうですね」って。
だけど、笑えなかった。
心が打ち砕かれてしまった気がした。
虚ろになってしまった私の視界に花束が映る。淡い色調の優しい花かごがいくつか・・・。
私は感覚が麻痺してしまったように「可愛いお花ですね」と呟いて、その花々を見つめた。
花の香り・・・そして・・・。

「大学の友達が来てたの。さっきまで。」
「空也はお見舞いに来てくれたお友達を送っていたのよ。」

お義母さまはその花束や花かごの中から一際目立つ花かごを手にして、静かに言った。

「葉月ちゃんなら・・・・こんなことにならなかったわ。」
「ちょっと、ママ!!」
「!」

その名前に体を強張らせた私に、お義母さまは畳みかけるように言った。

「もう、空也と一緒にいる理由はないでしょう?あのこは優しいから、きっとあなたが可哀想なのね。だけどね・・・」
「母さん!」

背後で声が上がる。
くうが顔色を変えて立っていた。
お義母さまが息をのむ気配がした。

「俺がそらを選んだんだ!・・・これからもずっと、そらと一緒に生きていきたいんです。」

そう言って、くうはいつの間にか座り込んでしまっていた私を抱きしめた。

「これ以上そらを傷つけるつもりなら、例え母さんでも許さない!」

ぎりっと、くうの指に力が篭った。
私はくうを見上げて「ごめんね」と呟いていた。
こんな言葉、くうに言わせてしまうことが悲しかった。

「そらが謝る必要、ないだろ。」
くうが怒ったように呟く。

お義母さまは「勝手にしたらいいわ!」と言い捨てて、部屋から出て行った。
楓花ちゃんが「・・・ごめんね、お兄ちゃん」とすまなそうに言って、後を追いかけた。
静かになった室内は、花の匂いでむせかえっていた。
大きく息を吐いたくうが、はっとしたように指の力を緩め、慈しむように私の背を撫でた。
ガタガタと震える私をくうが強く抱きしめる。

くうだけだった。
その時の私にとって、抱きしめてくれるくうの腕だけが、支えだった。
その体から、ふと、漂った香り。
くうの胸から、微かに。

「葉月さん・・・?」
「え?」

私の呟きに、くうがほんの少し身じろぐ。

「葉月さん、が、来てくれたの?」
「ああ、野住たちと一緒に」
「そう・・・」

その名前に、空っぽになってしまった子宮が痛みだす。
私はくうの腕を掴めずに、自分で自分を抱きしめる。

「そら!?」

私の異変にくうが慌てて私を抱き上げた。
ベッドに横たえられ、私は身体を丸めて痛みに耐える。
くうが不安そうに私の手を握った。


葉月さん・・・楠本 葉月さん。

くうが私と付き合う前、付き合っていた人。
高校の頃から付き合っていて、同じ大学へ入学して。
周囲からうらやまれるくらい"お似合い"な二人だったって・・・私も聞いた。
お義母さまもとても気に入られていて、楓花ちゃんも凄くなついていたって・・・・。
そんなくうと葉月さんは、だけど、葉月さんがやりたいことを見つけて転入を決めたあたりにはぎくしゃくしだして・・・、私が新歓コンパのことでくうに声をかけてもらった頃に、お別れしてしまったらしい。何故そうなったのか、詳しい話しを私は訊ねたことがない。
葉月さんとくうのことも、ゼミの先輩や教授が話ていたのを聞いてしまっただけだ。
工学部に転入した先輩を何度か見かけた。
大勢の中に居ても、埋もれてしまうことのないひと。
意志の強さを表す印象的な大きな瞳、眩しいくらいの美しさ――・・・。
別れてからも、くうとは友人関係を築いていた。
よく笑って、ハキハキと自分の意見を言って、人を惹きつける魅力がある女性。

結婚が決まった時に、私は、葉月さんに呼び出された。
私はそれまで葉月さんとあまり接点はなく、話をするのも初めてだった。
「私にくうを返して」。
葉月さんは、はっきりとそう口にした。
いつもは凛とした佇まいの彼女が、まるで懇願するように私の腕を掴んで「結婚するなんて、嘘よね!?」と取り乱した。
「嫌いで別れたわけじゃない。私の編入の勉強のために一時的に別れただけなのよ」と。
・・・それまでの私だったなら、そう言われてすぐに引き下がっていたのかもしれない。
くうと付き合いだす前ならば、「失礼しました」と逃げ出してしまっていたかもしれない。
それでも、何一つ彼女に敵うものがない私だったけれど、くうを思う気持ちだけは負けないと思ったから、くうが「もう別れよう」と言うまで、私からは離れないと決めていたから「私たちは結婚します」と答えた。
私のお腹の中に、くうとの赤ちゃんが居ることを葉月さんは知らなかった。
「私にとって、くうはもうなくてはならない人だから」
予想外だったのか、私がそう言ったことに彼女はひどく驚いていた。それから「いつか必ず、返してもらうわ」と妖艶な笑みを浮かべて去っていた。

私が葉月さんに呼び出されたことを、くうには伝えなかった。
伝えられなかった。

彼女はいつも香水を身に纏っていた。
くうが初めてプレゼントしてくれたのだと、いつだったか学食で私がいるのを確認しながら話していた。

たくさんの花の中でもその存在を誇示する香りに、私はひそかに怯えていた。
くうの腕の中に、葉月さんが居たのだろうか?
"いつか必ず"と笑った葉月さんを思い浮かべてしまう自分が悲しい。
本当に心配して、お見舞いに来てくれただけかもしれないのに、そんな風に思ってしまう自分が苦しかった。


「そら、病院行く?顔が真っ青だ。」
「・・・ううん。もう少し眠るね」

私は何も聞けないまま、目を閉じた。
"返して"と言った葉月さんの懇願する瞳を忘れられなかった。


あれから、彼女が私に会いに来ることはなかった。
くうは就職試験に追われたし、採用が決まってからはセミナーや事前研修、卒論と忙しくしていた。
工学部で建築学を学んでいた葉月さんは、くうより一年遅れて卒業し、イタリアに留学した。
私たちの中で、その名前が話題に上ることはなかった。



昨晩、野住さんから電話があった。

それまで一緒に時を刻んできた私の腕時計。気がつけば、時間が狂い出していて「そろそろ電池交換なんだね」なんて話しをしていた。
「俺のも交換の時期かな?」と、くうは腕から時計を外し「今度の休み、帰りに交換してもらいに行こうか」と決めて。
お風呂上がりのくうの髪を私が拭いて、それはいつもと変わらない時間だった。

シンプルな呼び出し音が響いて、くうはテーブルの上に置いたままの携帯を持ち上げた。私は壁かけ時計を見た。
平日、木曜日の23時、くうは「誰だろう?」と首を傾げ携帯のフラップを開いた。

「野住だ。メールじゃなくて電話なんて、珍しい・・・」

くうは言って、私を見つめた。「何かあったのかな?」と私が首を傾げると、くうも一緒に首を傾げた。
「とりあえず、出た方がいいよ?」と笑うと、くうも「だな」と笑った。

「はい?」
『くう!悪いな、こんな時間に。』

携帯越しに声が響き、私はいつも屈託なく笑う野住さんを思い浮かべながら、TVのボリュームを下げようとリモコンに手を伸ばす。
「本当だよ。」とくうが溜め息をつくと『でもまだ起きてただろ?』と野住さんの拗ねたような声が聞こえた。
リモコンを持ちくうの足元に下りてクッションに座ると、野住さんの声は聞こえなくなった。

「・・・・え、明日!?また随分急じゃない?」

飲みに行くお誘いなのね、と、私は天気予報を見ようとチャンネルを変えた。

「え?」

その時急に、くうの声が緊張したのがわかった。

「・・・・・・それじゃあ、帰ってきたんだ?」

誰が?なんて聞かなくてもわかる。

「でもな、土曜休みじゃないよ。・・・・ああ、うん、わかった。それじゃ・・・なんとか時間作るよ。」
「!」
「って、お前な・・・・あーはいはい、伝えるよ。」

後に続く言葉は、あまり耳には入ってこなかった。違う、全身が耳になってしまったかのような私はだけど、言葉がすり抜けていくのを感じていた。
ぱくん、と、フラップを閉じた音。
私はびくりと身体を強張らせた。

「野住がそらに"おやすみ"って・・・・・」

苦笑交じりで覗きこんだくうに、私は慌てて笑顔を向ける。
いつもは、気付かれてしまうけれど、今日だけは、どうか今日だけは気付かれてほしくない。
私の笑顔が、偽物だって、くうに気づかれたくない。

「"おやすみなさい"の電話だったの?」
くすくすと笑いながら、私はTVのチャンネルを弄った。ニュース番組のテロップを目で追いながら。
くうはソファーに座ったまま「明日、野住たちと飲みに行くことになったよ」と穏やかな口調で告げた。
それはいつもと変わらない口調だった。

「そらも行く?金曜だし、そら土曜休みだろう?」
「くうは・・・今週仕事だよね?大丈夫?」
「そう。仕事。」
「いつも野住さん、土曜の夜に誘ってくれるのにね。」
「ホント、急にも程がある。」

そう言って、くうはソファーから下りて私を後ろから抱え込むようにして抱きしめた。

「日曜はまた実家から呼び出しかかってるしな〜。」
「もうすぐ結婚式だもの。仕方ないよ。」
「そらと二人きりの貴重な時間なんだけど。」

肩の上に顎を乗せ、くうは溜め息を零す。
私は抱きしめるくうの腕に触れて目を閉じる。

「いっぱい・・・これからだって、ずっと、あるよ。」

私の声は、震えていないよね?

「私は遠慮しておく。借りてきた本、読んじゃわないと!」

"一緒に行く"と言わなかったのは。
言えなかったのは、やっぱり私の弱さなのかな・・・。

くうは「ちぇー」と残念そうに言った。



忘れてしまうことは、なかった。
いつも、心の片隅に潜んでいた。

くうの気持ちを疑う必要なんて、少しもない。

それなのに。


* * * * *


心の奥底に沈めておいた痛みの小箱。
鍵をかけて、奥深くしまっておいたはずの箱。

流産してから、しばらくは赤ちゃんを強く意識しなかった。
まだ学生だったから、結婚はしても、実際無計画に子供を作れるような気持ちにはなれなかった。
夫婦でいることに、二人でいることに慣れ、ようやく子どもが欲しいと思いだしたのは、ここ2,3年。
年齢と結婚が追い付いてきたからだったのかもしれない。
・・・そう思えたのに、赤ちゃんを授かることは・・・できなかった。

楓花ちゃんの妊娠をきっかけに、その小箱は開いてしまった。
痛みが、悲しみが、あの頃のまま押し寄せて、私を打ちのめす。
もう、私には、くうからの贈り物を受け取る資格がないような気持ちになってしまう。

卑屈だと思う。
それでも、何故、どうして、は、つきまとう。
くうが愛しいから、大好きだから。
それだけで充分じゃない!と妹には嘲笑されるけれど、そんなことはわかっていても、求めてしまうのだ。

ああ、だからなのかな。
あんまり欲張りで、幸せなのに満足しないから・・・。
だから、もう一つの小箱も開いてしまうの?

むせかえるような花の香りの中でさえ、残っていた香り。

葉月さんが帰って来た――・・・。



私は完全に時を止めてしまった腕時計の秒針を見つめた。
今までくうと積み重ねてきた時間が、止まってしまったような寂しさでいっぱいになる。

何気ない日々。

たくさんの愛をもらっていたのに、私は同じだけ返してあげられていたのかな。
私が幸せと感じた以上に、くうを幸せにしてこれたのかな。
私と一緒に居て、くうは幸せだったのかな・・・。

不安な気持ちが加速していく。
自分で止められない想いに、押し潰されそうになる。

早く、帰ってきてほしい。

私は、くうの隣に居ていいの?
そう訊ねたら、きっとくうは「何を言ってるの!」と笑うだろう。

でも、私の中で開いてしまった小箱は、そんな些細なことでさえ、訊ねられなくするくらい不安にさせる。



「ただいま!」

玄関のドアを開けた私を、くうはいつものようにコートのまま抱きしめた。

「おかえりなさい。」
「寂しかった?」

訊ねるくうに、だから私は小さな嘘を吐く。

「寂しくなんてなかったよ?」

くうは、私の嘘を見破ってくれるのか・・・そんな浅ましい賭けをして・・・。
2009,2,12up

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