静かにクラッシックが流れる店内、優雅にティーカップに指をかけ紅茶を飲むお義母さまの前で、私はぎこちなく座り直し大きな鏡に映し出された自らの表情に苦笑した。
(なんて顔してるの・・・)
この場に似つかわしくない暗い表情。
摩耗したような薄っぺらな笑顔が、なんとか張り付いている。
私は鏡の中の自分に肩を竦め、そっと視線を外して大きな窓の向こうを見つめた。
忙しなく行きかう人で溢れていたワンブロック先のオフィス街とは違い、平日とは思えないほど穏やかで和やかな空気がこの建物の周りを包んでいた。
時折、ショウウィンドウを覗き込む若い女性の瞳は、憧れと羨望でキラキラと輝いているように見えた。
(営業妨害になっていないかしら・・・・)
私は居たたまれない気持ちになって、カップの中に視線を落とした。
膝の上で重ねた手を、無意識にぎゅっと握りしめていた。
そこに唯一あった、私とくうとの大切な繋がりは、まだない。
どれだけ私は、あの時計を心の拠り所にしていたのだろう。
くうが居なくても、不安にならずにすんだのは、同じ時を刻む存在があったからだ。
(今の私は、あまりにも弱すぎる。)
情けなくて、寂しくて、私は目を瞑る。
(くう・・・私・・・。)
こんな状態で離れたのは、初めてのことだ。
一番苦しい時も、悲しい時も、私には抱きしめてくれる腕があった。
涙を掬い取ってくれる優しい指先と、唇があった。
私が怖がって怯えてしまう時には「大丈夫だよ」と手を繋いで微笑んでくれる。
一晩中抱きしめて、痛みを吸い上げようとする。
(もう神戸についた頃、かな・・・)
そこに時計はないとわかっているのに、思わず腕に視線を滑らせてしまう。そうして、また寂しさに胸を詰まらせる。
誤魔化すように店内の大きな姿見の横に設置されているアンティーク調の柱時計を見つめた。その長針は2時を示し、短針は15分を示していた。
重なりあっていた二つの針は、少しずつ、少しずつ、その距離を広げていった。
まるで、もう重なりあうことがないかのような錯覚に、小さく頭を振る。
(本当に、こんなんじゃ駄目すぎる――)
* * * * *
「これは、葉月に返す。」
震えの収まらない私を抱きしめながら、くうは呟いた。
きっぱりと言い切ったくうの右手が、私の体から離れて小箱に伸びる。
「あ・・・」
「俺には、必要のないものだよ。」
くうの纏う温度が、ぐっと下がったように感じ、思わずぶるりと身体が震えた。
私の中で、言いようのない感覚が渦巻く。
くうの言葉がもたらす安堵感・・・そして優越感・・・?
馴染みのない感情に、胸が焼けつくように痛む。
「だ、め・・・」
「そら?」
「触れ、ないで・・・その箱に・・・葉月さんの気持ちに・・・」
(酷い、ことを言ってる・・・・私・・・)
くうの指先が、私の言葉に動きを止める。
私はぎゅうっと胸を締め付ける痛みに小さく息を吐いた。
(私の・・・気持ちだけを優先させてる・・・・。)
「そら、でも、」
「私が、受け取ったんだもの・・・・」
くうの右手を掴んで吐き出すように言った。
戦うと決めた。
嘆くだけの自分は嫌だと。
(しっかりしなさい)
心の中で何度も呟く。
(こんなんじゃ駄目。)
傷ついた心臓がずくりずくりと痛む。
戦うなんて・・・私が返すなんて言って・・・、自分の傷を自分で抑えることもできないくせに。
無力な自分に愕然とする。
くうがここに居て、私を抱きしめてくれているのに、これ以上恐れることなんて何もないはずなのに。
情けなくて、不甲斐なくて、愚かしい自分に涙が零れる。
「そんなに・・・・信用できない?」
苦しそうな声と同時に、私を抱きしめていた手から力が抜ける。
「俺にとって、何よりも誰よりも大切なのは、そらだよ。」
「く、う・・・?」
伸ばされた指先が頬に触れる。
零れてしまった涙の痕を辿り、眦に留まった涙を掬い取るように、その優しい指先が動く。
そっと見上げると、くうは儚く微笑んで。
「離したくない、誰にも渡せない。だけど・・・・・俺は上手にそらを愛せていないのかもしれない。」
「・・・!」
(私っ・・・!)
「苦しめてばかりだ・・・」
私は、また間違えてしまったのかもしれない。
息が止まりそうになる。
恐ろしくなって、私はくうを抱きしめた。
(また、くうを・・・!)
7年間、私たちは確かに一緒に居たのに、2人だけの、特別な時間を過ごしてきたのに。
愛されていると、こんなにも感じているのに。
あの日、傷ついたのは自分だけではないと知っているのに。
言葉にしなくても、いつでも想いを感じ取ってくれるから。
くうが、私を必要としてくれるから。
私の痛みを癒すことを・・・優先して。
誰よりも、愛してくれていたから。
その想いに甘えながら、罪悪感を募らせて。
抱えきれなくなったコンプレックスに、私はくうを。
(傷つけてる)
今、言わなきゃダメだと思った。
くうが悪いわけではないのだと、伝えなくちゃいけない。
疑っているわけではない。
ただ自分に自信がないのだ。
私は腕を解き、両手をついてくうを見上げた。
「私が、返して・・・くる、から。」
小さな声。
なんとか出せたのは、震える小さな声だけ。
「くうを渡したくないの。葉月さんにも誰にも・・・」
嫌われてしまうかもしれない。
これは、独占欲と嫉妬だ。
「葉月さんが、まだくうを想っていても・・・私は、私はっ」
言いながら、涙が出てきた。
胸の中が激しく荒れ狂う。嫉妬と独占欲が、想いが渦巻く。
「くうが、好き。だから、私、が、葉月さんに返してくる。」
支離滅裂になってるってわかってる。
それでも、全部伝えなくちゃいけない気がして。
本当の気持ちを曝け出さなくちゃいけない気がして。
それが、私の我儘だと自覚しているから、私はくうに腕を伸ばさず毛足の長いラグを握りしめた。
「・・・・・葉月さんを・・・・・抱きしめないでっ・・・・くうに葉月さんの香りを移させないで・・・・」
酷い我儘。
言いたくて言えなかった言葉。
吐きだしてしまうとますます苦しくなって、私はくちびるを噛みしめた。
不意に、耳に直接感じるくうの心音。
くうの胸に抱きこまれる。
痛いほどに
激しく打ち付けるその音に、私の壊れそうなほど早く脈打つそれとリズムが同じことに気づく。
くうの腕は力強く私を引き寄せる。
「そら・・・・」
名前を囁きながら、何度も何度も額に頬にキスが落ちてくる。
もどかしくなるくらい、何度も。
目蓋にも口づけるから、私は目を閉じたままだった。
くうが、どんな表情をしているのかわからない。
(呆れている?)
それはいつもの私なら、とても不安になることだ。
それでも、たったひとつの想いに突き動かされる。
「そら・・・」
「私は、くうに、家族を作ってあげられないかもしれない・・・けれど、くうと、これからも、ずっと・・・ずっと・・・」
くうの指先が、私の両手を掴んだ。
取り乱してしまった私の唇を、くうの唇が塞いだ。
先ほどの奪うようなキスではない。
けれども、優しいだけのキスでもなかった。
繰り返し、私の中に想いを注ぎ込むようなキス。
(くう・・・)
「そらがいれば、いい。」
「んっ・・・・・・」
「そらがいれば・・・。」
息継ぎの合間に、くうは繰り返し囁く。
「・・・自分を責めないで。」
「ふぁっ・・・・」
甘い痺れが体中を支配して、指先から力が抜けそうになる。
「葉月を抱きしめたりしない。俺は、そらだけのものだよ。俺がそらにあげられるものは、全部、あげる。これからも・・・」
見上げた先には、困ったように細められた瞳。
でも、口元は嬉しそうに綻んでいる。
私はそのアンバランスな、けれどぞくぞくするような表情に、息を呑む。
「く・・・?」
「ごめん。・・・・こんな時なのに、嬉しくて。」
頭に浮かぶ疑問符に、私はくうの言葉の意味を探ろうと、くうの頬に指を伸ばす。
その指先に口づけて、くうは今度こそ笑顔になる。
「そらの心の声が、聞けた。」
私の手に自分の手を重ね、まるで全て委ねるように頬を擦りよせる。
甘えるような仕草に、私は心を許されているのを感じて嬉しくなる。
(酷い我儘を言ったのに・・・)
胸がいっぱいになって、私は縋るようにくうを見つめた。
くうはそんな私の心の中を正確に汲み取ったかのように、首を横に振る。
「そらは、いつだって、心の中に閉じ込めてしまうから。口に出さずに、呑みこんでしまうから。」
だからごめん、とくうは私の手のひらに言葉を落とす。
「わかってたはずなのに、結局俺はそらに甘えて。声に出して欲しいと思いながら、こうやって声に出せないところまで追い込んでた。――葉月のことも・・・そらがどう思うかわからないわけじゃなかったのに。でも、俺は葉月を抱きしめたりしない。俺の腕と胸は、そら専用だから。」
くうの言葉に、嘘や誤魔化しはない。
それは、くうの瞳を見ればわかる。
信じている。
それでも、私の弱さに、彼女の影はするりと入り込んでしまった。
私は・・・葉月さんが・・・いつか戻ってくると予感していた。
可笑しなことだけど、私は知っていた。
どこかで、ずっと恐れていた。
『ああ、ごめんなさい? 作らなかったんじゃなくて、できなかった、のかしら?』
葉月さんの言葉が、胸を抉る。
(でも、でも!)
抑えきれない想いが、私を突き動かす。
(私が、変わらなくちゃ)
私の言葉を聞き入れて、くうはあのまま葉月さんの時計には触れないでいてくれた。
何も言わず、ただ抱きしめてくれていた。
一晩中。
くうを誰よりも愛しいと感じ、何よりも大事だと思うのに、何かしなくてはいけないと焦燥感を募らせても、具体的にどうすればいいのか私の頭は答えを出せなかった。
私が焦燥感を抱いていたように、くうも歯痒く思っていただろう。
それでも、くうは微笑んで。
「それじゃあ、明後日の夜には帰るから。」
私の頬に触れながら、くうは寂しそうに言った。
「・・・昨日の話、だけれど・・・」
くうはぐっと身を屈め、私の胸に頭を押し付ける。
「それ、は、そらの好きにしてくれていいから。本当は、今朝、俺が・・・捨ててしまおうかと思ったけれど。」
昨晩と同じ場所に置かれた小箱をちらりと見つめる。
手のひらに載るくらいの小箱。
圧倒的な存在感。
私はくうの左腕を見つめる。
未だ時計は腕にない。私の腕にも。
こんな気持ちで、離ればなれになるのは初めてのこと。
大学で毎年夏に開かれる高校教員対象の研修。
くうはサンプリングされて、時々勉強会にも呼ばれるのだ。
小早川教授の推薦もあったようで、くうは"現場"でどの程度効果があったのか報告をする。問題点や改善点も提示しながら。
来年度から、向こうの大学でも同様の研修プログラムが検討されているとのことで、研修に参加することになっていた。
夏からずっと、準備していたのだ。
「修学旅行以来だよね。こんな離れるの。」
冗談めかして言ったくうに、「そうだね」と呟く。
「生徒さんの心配しなくていいから、少しは気が楽、でしょう?」
「そうだね。海外じゃないし?」
5か月前の苦労を思い出したのか、うんざりしたように肩を竦めたくうは、だけど私と目が合うと心配そうに頭を撫でて呟いた。
「・・・タイミング悪いな。こんなに離れたくないって時に。」
* * * * *
(多分、これは私がひとりで乗り越えなくちゃいけないことなんだ。くうと共に生きて行く為に。)
そう考えると息が止まりそうになる。
小さく息を吐くと、目の前のソーサーにカップがカチャリと音をたてて置かれた。
いけない、と慌てて顔を上げると、お義母さまが「忙しかった、かしら?」と気分を害されたというように呟いた。
「あ、いいえ、そんなこと、ないです。」
楓花ちゃんの結婚式を間近に控え、何かとお義母さまや楓花ちゃんに呼び出されるようになっていた。
結婚式と言っても式場で行なうわけでなく、二人の行きつけのフレンチのお店を貸し切って人前式と披露宴をすることになっていた。
それほど大きなお店ではなく、仲の良い友人たちや会社の上司、家族だけを招くアットホームな会にするらしい。
悪阻で大変な様子の楓花ちゃんだったのに、時間がなくても納得のいく式を挙げたいようでこまごまとした準備に追われていて。
私はそのお手伝いに駆り出されていた。
今日は、楓花ちゃんたっての希望だった、お義母さまが着たウェディングドレスの手直しが終わり、その衣装を受け取りに一緒に出掛けた。
もとがいいものだということと、保存がよかったことで、ほんの少し、楓花ちゃんの体に合わせて補正するだけで素敵なドレスになった。
真新しいコサージュがつけられたドレスは、楓花ちゃんにとても似合っていた。
愛娘の花嫁姿を至極誇らしげに見つめていたお義母さまが、私の浮かない顔に気づき不信感を抱かせてしまったのだろう。
「悪いとは思ったのよ? 午後に急に呼び出すみたいなことしちゃって。私はあなたが来なくてもいいでしょうって楓花に言ったのよ? それなのに、どうしてもあなたにも見てもらいたいって・・・・」
「あの、本当に大丈夫です。今日の午後は先生方の研修があって、その、私には関係がないので。」
それじゃあ何故そんなに浮かない顔をしているの? と言外に眉を顰められ、私は「前日あまり眠れなかったものですから・・・本当にすみません」と頭を下げた。
あれから、私はあまり眠れなかった。
お店の人と最終的なチェックをしている楓花ちゃんに視線を戻しながら、お義母さまはふうっと大きな溜め息を吐いた。
「でも、今は関係があることでしょう? 少なくとも楓花はそう思っているのに・・・。いくらあなたがこんな風に着飾れなかったからって・・・・」
「!!」
お義母さまの言葉に、私はかぁっと頬が熱くなる。
(お義母さまは、私が嫉妬してると思っている、の・・・!?)
テーブルの下で、ぎゅうっと両手を握りこんだ。
奥歯を噛んで、歪みそうになる口元を笑顔にしようと試みる。
「違います」と叫びそうになるのを、ぐっと堪えて俯く。
(私が、楓花ちゃんを羨んで、そして不機嫌になっていると、そう思われてるの・・・)
瞳の奥に熱が集まり、視界が歪む。
コンタクトレンズが浮かび上がる感覚に、私は目を瞬く。
膨れ上がる涙の存在に、体が強張る。
ドレスを着る機会が、私にはなかった。
7年前、くうは私にその機会を与えてくれようとしていた。
でも、どうしても、純白のドレスに身を包む気持ちにはなれなかった。
言葉で説明すれば、きっとわかってもらえるだろう。
いくらお義母さまでも、ちゃんと伝えさえすれば理解してくださる。
そう思っていても、私の喉は何か得体のしれない塊を押し込められたように言葉を吐きださせてくれない。
確かに、凄く失礼な態度だったと思うから、私は頭を上げ、口を開こうと試みる。
楓花ちゃんの眩しいばかりの姿。
羨ましいという気持ちがなかったわけじゃない。
それでも。
「式を反対した私たちを恨んでいるからって・・・」
妊娠したから、子どもができたから、学生結婚なんて醜聞もなんとか我慢したのに!
あの頃、お義母様にぶつけられた言葉を思い出す。
私自身、神様の前に立つことが許されないと思っていた。かけがえのない命を消してしまった罪。
だからこそ、純白のドレスを着ることはできないと思ったのだ。
恨んでなどいない。
いないのです・・・。
「・・・・とっても、素敵です。楓花ちゃんの可憐さと、お義母さまのドレスの華やかさが本当に似合って・・・・」
ちゃんと、気持ちを言葉にした。
私にとって、楓花ちゃんは大切な妹で。
幸せになってほしいと心から願い、誰より素敵な花嫁になると確信している。
私の言葉に、お義母さまは少し驚いたように振り返った。
楓花ちゃんにも聞こえたようで嬉しそうに「本当? そらちゃん!」と声をあげて私に笑顔を向けた。
思わず私も微笑むと、押しとどめていた涙がひとつ頬に落ちる。
「こんなに、可愛らしい花嫁さんを迎える史明さんは、幸せね?」
「そらちゃん」
人差し指で涙を払うと、楓花ちゃんは私の首に両腕を回して「ありがとう」と呟いた。
私は胸がいっぱいになって、握りしめていた両手を解いて楓花ちゃんの背に手を回した。
「私は、ドレスを着る機会なかったけど、楓花ちゃん見てたらいいなって思ったよ? お義母さまのドレスを着たいって思った楓花ちゃんのキモチ、よくわかる・・・。とっても素敵なドレスだもの。」
「そらちゃんに褒めてもらえるの、凄く嬉しい。」
「史明さんに、じゃなくて?」
「それはもちろん! でも、そらちゃんに一番見てほしかったの。」
照れたような笑みを浮かべる楓花ちゃんは、私が思い描く幸せの象徴のように思えた。
祝福される未来。
愛しい人の子どもと共に。
「楓花ちゃん、とってもキレイよ」
私はゆっくりとお義母さまに視線を戻して、ぎこちなくだけれど微笑んだ。
どうか、私の気持ちがちゃんと伝わりますようにと願いながら。
「・・・そらさん、あなた・・・」
お義母さまは一瞬美しい顔を歪め、大きな目をゆっくりと閉じて深呼吸した。
いつしか楓花ちゃんがお義母さまの後ろに立ち、労わるように肩に手を置く。
お義母さまはそのまま楓花ちゃんを見上げた。
「ママ。」
「わかってる。わかってるのよ・・・・。」
楓花ちゃんの咎めるような声に、お義母さまは珍しく弱気な声で答えている。
「嫌な言い方だったわ」
「え?」
ごめんなさい――
それは、とても小さな小さな声だった。
「お義母さま?」
何を言われたのか、理解する暇もなく、お義母さまは急に立ち上がり、ドレスに合わせる小物はあるのかしら? と店員さんに声をかけて奥に行ってしまった。
呆気にとられてお義母さまの背中を見つめていた私は、くすくすと笑う楓花ちゃんの声で我に返った。
「あ、え、い?」
「ママが謝るなんて、初めてだと思うよ?」
私の中で凝り固まっていた場所が、少しだけ解れたような気がした。
緊張で冷たくなっていた両手から、力が抜けてじんわりと熱が生まれる。
『少しずつ、少しずつでいい。』
いつかくうが言ってくれた。
私とお義母さまの距離が、遠くなっていくと、私が悩んでいた頃だ。
その言葉を、私は心の中で繰り返す。
小さく点った、希望の光・・・。
楓花ちゃんは今までお義母さまが座っていらした椅子を引いて「ふう」と息を吐いて座った。
「だ、大丈夫? 無理してるんじゃない?」
明るいファンデーションと口紅で本当の顔色はわからないのだけれど、どこか辛そうに思えて身を乗り出した。
「うん・・・ちょっと、ね。ぎゅって、お腹が痛くなるの。でも、大丈夫よ。少し休めば楽になるから。」
こめかみにうっすらと汗が浮かんでいて、私はバックからハンカチを取り出して楓花ちゃんに渡した。
心臓がやけに煩くなって、喉が渇く。
縁起でもないのに、唐突にあの日の恐怖が私に蘇ってくる。
「無理しちゃダメ、だよ? 楓花ちゃん、今から病院行く?」
「ううん。これから、向こうのご両親も交えて食事会なの。大丈夫。」
「でも、」
「無理なんて・・・でも、ありがとう。そらちゃん。」
溜め息がでるほど美しい花嫁姿の楓花ちゃんは、椅子から立ち上がるともう一度私に抱きついた。
何故か涙が溢れて来て、自分の中で説明できない感情がまだあることを知った。
どうにもならない苦しみは、やはりある。
だけど、それ以上に、別の気持ちが芽生えていた。
(くう・・・くう・・・!)
今、ここにくうは居ない。
私の気持ちを私以上に理解してくれる人。
一番、今、気持ちを伝えたい人――。
ああ、私はこんなにも、くうを求めていたんだ。
2009,10,18up
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