『今夜?』
「はい。お忙しいとは思いますが・・・。」
怪訝そうな声に、私は目を閉じて返事を待った。
携帯を握りしめている手のひらに、汗が滲んでくるのがわかる。
『悪いんだけれど、今あなたに会ってる時間はないの。』
そう言われるとわかっていたのに、落胆してしまう。
葉月さんが日本に帰国したのは、仕事の為なんだ。
でも、落ち込んでる暇はない。
「今日が無理なら・・・明日でも・・・明後日でも。」
『それが無理なら来週でもって言うんでしょう?』
「・・・はい。」
『 ・・・いいわよ、今夜で。』
「え!?」
忌々しそうに呟かれた返事に思わず聞き返してしまう。
『何よ? 話しがあるんでしょう?』
嫌ならいいわよ、と吐き捨てられ、慌てて姿勢を正す。
「いえ、あ、ありがとうございます!」
私はここがどこかということも忘れ、深々と頭を下げていた。
申し訳ない気持ちが湧きあがってくることに、正直戸惑う。
私などより数倍忙しい人なのだとわかっているから、心からありがたいと思えたのだ。
・・・声が震えていたのは、それだけの所為じゃないけれど。
背後からくすくすと笑う声が聞こえ、はっとして顔を上げた。
(そうだった。ここは・・・)
お義母さまと楓花ちゃんに付き合って、あの後数件お店をまわった。
主に二人の行きたい場所について回るだけだったけれど、考えてみれば、3人であちこち出歩くなんてことは初めてだった。
楽しいとは正直言えない時間は、それでも思っていたより苦痛だとは思わなかった。
途中、昔から二人で買い物をすると必ず寄るという紅茶専門店でお茶を飲んだ時には、なんだかお義母様の心の門扉が少しだけ私に向かって開かれたような錯覚すら覚えた。
お義母様の私に向ける眼差しや言葉はたいして変わっていないのに、そう感じたのは、私自身が想いを言葉にできた所為かも知れない。
固く心の扉が閉ざされていたのは、私の側も同じなんだろう。
頭では理解しても、すぐに打ち解けられるほど、私は強くはない。
依然、お義母様の瞳には私を嫌悪する光も残っていて、それに気付かないほどお気楽でもない。
真に心が強い人なら、きっともう少し上手く立ち回れるのに。
そうできたなら、お義母様を苦しめることもないだろうに。
せめて、親子二人だけの時間を邪魔しないように、早く帰るのが最善だと思ったのに、楓花ちゃんの「後少し!」という言葉に留まってしまった。
先ほど見せた楓花ちゃんの辛そうな顔が・・・体調が心配だったのだ。
あの後、楓花ちゃんが顔を顰めることはなかったのだけれど、どうしても頭の奥で響く警鐘を無視できなかった。
お義母様が一緒なのだから、なんの心配もないはずなのだけれど、離れがたくて。
結局、史明さんのご両親との食事会の時間ギリギリまで私は二人と行動を共にし、待ち合わせ場所だというホテルまで付き合ってしまった。
「ありがとう」と抱きつく楓花ちゃんに「こちらこそ」と微笑むと、お義母様もぽつりと「今日は楽しかったわ」と呟き、ラウンジ内へと歩いて行った。
私たちは思わず顔を見合わせ、なんとも複雑な表情でこっそり笑ったのだ。
そして、私はそのラウンジ前から移動し、ホテルを出て携帯をかけていたのだ。
くの字に体を折っていた上体を慌てて起こし、怪訝そうなドアマンとその後ろで苦笑する同年代と思われる男女2組に軽く会釈して背を向けた。
歩き出した先で、今度は老夫婦に微笑まれてしまう。
声に出して誰もいない先に頭を下げていたのだから、笑われてしまうのも無理はない。
私は頬が熱くなるのを感じながらなんとか笑顔を作り、駆けだしてしまいたい衝動を堪え、転んだりしないように注意しながらスロープ下ってホテルから遠ざかった。
『・・・それにしても、あなたが私に連絡してくるなんて思ってもみなかったわ。よく私の携帯なんてわかったわね?』
くう だって聞こうとしなかったのに。
携帯の向こうで溜め息交じりの・・・けれどこの状況を楽しんでいるような声が響く。
私の意識は、急速に携帯の向こうへと集中する。携帯をぎゅっと握りしめ、大きく息を吸い込む。
「それは・・・あの・・・入っていたので・・・」
私はバックを握る自分の手に視線を落とした。
バックの横には、葉月さんから受け取った紙袋。その中には、今も時を刻む時計が納められた小箱が揺れている。
昨日は気付かなかった。
今朝、ラグの上に小さなメモ用紙が落ちているのに気付いた。
そこには、流麗な文字で"会って話したいから、電話して"とメッセージが書かれていた。携帯番号と共に。
(ああ、だから、だったんだ。)
忙しいだろうと思っていたのに、2コールで葉月さんが電話にでたのは・・・。
(くうからだと、思ったのね・・・)
胸がズキズキと痛みだす。
くうはこのメモの存在を知らない。
『・・・そうよ。だから、くうから連絡がくるはずなんだけれど? どうしてあなたなのかしら? 私が会いたかったのはあなたじゃないのに。』
「くうは今日は、出張中で、それで、あの。」
携帯の向こうで葉月さんの声が静かに怒りを昂ぶらせていくのを感じる。
葉月さんは自信があったのだろう。
くうが、必ず連絡してくると。
それだけ、自分に自信があるのだ。
そんな葉月さんに臆してしまう前に・・・ううん、もう逃げ出してしまわないように、私は強くならなくちゃいけないのだ。
私はバックの持ち手をぎゅっと握りしめ、そこから覗く小さな小箱を見つめる。
「お忙しいとは思いますが、私に、時間をください。」
絞り出すようにして発した声は、緊張で掠れてしまっていた。
『・・・何時になるかわからないわよ? あなたと違って、これでも忙しいの。』
そう呟く葉月さんの声がやけに遠くに感じた。
もう一度「ありがとうございます」と述べると、呆れたような声が返ってきた。
『まあ、察しはつくけれど。』
* * * * *
葉月さんから指定されたのは大学近くのカフェだった。
私も何度か訪れたことのあるそこは、学生よりも講師や大学に勤める職員がよく利用しているお店だ。
詳しいことはわからないけれど、どうやら葉月さんは、大学の研究室でコンペの準備をしているらしい。
私は電車に乗り、流れて行く景色を見つめたまま、葉月さんの言葉を反芻していた。
『ねえ、あなた、私が怖いんでしょう?』
まるで私の心の中を見透かしたような言葉に、私は息を飲んだ。
言葉を失ってしまった私に、葉月さんは続ける。
『いつも誰かの背中に隠れてることしかできないあなたが、まさか自分から出てくるとは思わなかったわ。ふふ。今日はあなたを守ってくれる人は居ないわよ?』
「それは、」
『自分だけが傷ついたような顔をして、いつもいつも手を差しのべられて・・・私そんなあなたが大嫌いなの。あなた自身が、くうを傷つけてるって自覚ないの?』
(くうを傷つけてる・・・)
『何年も、よくも縛り付けていたものよね?』
短くはない年月。
喧嘩や言い争いも、まったくなかったわけじゃない。
それでも、私たちはいい関係でいることができた。
共に過ごしてきた時間の中で、私たちは言葉にしなくてもわかりあえる繋がりを築いていた。
私はくうに包まれて。
くうを包みたくて。
愛されるということの心地よさを知り――同時に、私がくうを愛する拙さを感じてきた。
好きだから。
大好きだから。
くうが大切で。
くうと共に生きていくことが嬉しくて。
くうを想う気持ちは、変わらずに。
ううん、愛しさはより一層深く重く胸に迫って。
だからこそ、私は自分を許せなくて。
くうが、優しいから。
くうが愛してくれるから。
越えてきたはずの痛み。
薄れていくはずの記憶。
気付かないフリをして、私の奥底に閉じ込めていて想い。
傷口は・・・見た目には癒えても、ずっと、薄い瘡蓋のままで。
時々掻き毟られて血を流し、年を経るごとに少しずつ少しずつ・・・その範囲を拡げていた。
いくら私が気付かないフリをしても、くうが気がつかないわけがない。
私が、もっと強かったなら、言葉にすることができたのだろうか。
くうを傷つけずに、正面から向き合うことができただろうか。
7年間かけても、ひとつだけ、越えられなかった悲しみ。
突然、失ってしまった命
(知ってる・・・くうが、本当は、私よりずっと苦しんでいたこと・・・)
私の身体がからっぽになって・・・二人であの子を空に還した日。
悲しくて、苦しくて、ガタガタと震える声を殺して泣く私を、くうはずっと抱きしめていてくれた。
小さく丸くなる私を、まるでこの世のすべてから守るように、くうの大きな体が包み込んで。
いつしか、深い眠りに落ちた私は、私を包み込んでくれていた温もりが傍らにないことに気づいた。
・・・暗闇の向こう、隣室から小さく漏れる光。
私はゆっくりとベッドを下りて、ドアを開けようとして立ち止まった。
くうの声が聞こえたから。
「ごめん・・・。守ってやれなくて、ごめんな。」
薄く開いていたドアの隙間から、くうが小さな小箱を両手で握りしめ、額をつけているのが見えた。
その肩が震えている。
そして、何度も何度も、骨さえも残らなかった・・・灰だけが納められた小箱に向かって、くうは「ごめん」を繰り返していた。
「・・・・っっっ・・・!」
口を押さえて、悲鳴を飲み込んだ。
裁きの光が私に向かって、真っ直ぐに突き刺さった気がした。
わかっていたはずなのに。
私だけじゃなく・・・くうも、愛しい存在を失ったんだと。
「お前も、そらも、守れなくて、ごめんな・・・」
くうは、本当に、私たちを必要としてくれていたんだ。
まだ生まれてもいない、小さな小さな存在を、本当に愛してくれていたんだ。
それを、こんなカタチで知ることになるなんて。
それでも、あの光景を見なければ、その本当の悲しみを知ることはなかったのかもしれない。
頭ではわかっていても、あの時の私は自分の痛みだけでいっぱいになってしまっていたから。
私が、傷つけてしまった。
あんなに優しい人を。
誰よりも守りたいはずの人を、誰よりも傷つけてしまった。
言葉にできないほどの衝撃。
大切な存在を奪われてしまった喪失感。
同じ痛みを、くうにも感じさせてしまったのだ。
くうは、どんな気持ちで私を抱きしめ続けてくれたのだろう。
何もかも、私の悲しみまで全部一人で受け止めて。
お義母さまの言うように、私が縛り付けたりしなければ、くうを望んだりしなければ、くうを傷つけることはなかったかもしれない。
私が、傍に居て欲しいなんて思わなければ。
願わなければ。
ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・!
心の中で、何度となく呟いて。
それでも願ってしまった。
たったひとつ望んでしまった。
くうと共に生きたい。
願いながらも、私はくうの悲しみを受け止めてなどいなかった。
そう気付かされた。
(私は、でも、くうを傷つけても、離れることができなかった。)
だから。
くうが笑っていられるように、私も笑っていようと。
くうが必要としてくれる限り、くうの傍にいようと思った。
もしかしたら、再び、くうに愛しい存在を与えられるかもしれない。
ううん、例え子どもができなくても。
お義母さまに何を言われても、笑っていようって。
くうは、そんな私を見抜いて「そらは、"そら"のままでいい」と言ってくれた。
その言葉は、私の免罪符となっていた。
私は、くうに免罪符を与えないままに。
なんて残酷なんだろう。
私は、あの時、正面からくうと向き合っていなかった。
遺灰を抱きしめて、泣いていたくうを・・・抱きしめることすらできなかった。
あの瞬間、罪悪感に押しつぶされて、身動きがとれなくなって。
(本当は、ふたりで乗り越えなくちゃいけなかった・・・)
私がそうだったように、多分くうも。
お互いが大事だから。
傷を抉るようなことができなかった。
そんな姿が、何年かぶりに再会した葉月さんには、奇異に思えたのだろう。
時間が止まってしまっているように感じたのかもしれない。
私がくうを縛り付けている、と。
生まれもしなかった子どもを枷にしていると。
生を受けることができなかった私たちの赤ちゃんは、私たちの中で確かな絆と、枷になってしまった。
(もう、あの子を枷にしていちゃいけない。)
悲しみの象徴にしちゃいけない。
だって、確かに私たちが望んだ存在だったんだ。
あの子が私の中に宿ったことは、不幸せなことなんかじゃなかったんだから。
くうを愛しいと思う気持ち。
それだけが、今の私の力なのだから。
くうを傷つけたという負い目があるから、葉月さんの存在に揺らいでしまうのだと、ようやく認めることができる。
私は、だから、ちゃんと向かい合う。
葉月さんにも、くうにも。
守りたいから、くうとの未来を守っていきたいから。
7年という年月が、私たちの中で、決して悲しみと憐みだけで形作られていたわけではないのだから。
今思っていることをくうに伝えたい。
その為にも、私はちゃんと乗り越えなくちゃいけない。
駅のホームは懐かしい空気に包まれていた。
活気に溢れているのに、どこか怠惰で。
私もこの空気を纏う一人だったことが、遥か昔のことのように思えた。
(まだ一年も経ってないのに。)
教授のもとで働いていたのだから、まだ数カ月しか経っていなのに、まるで卒業後初めて訪れたような感覚に驚く。
ここは、時間の流れが他とは違うのかもしれない。
感傷に似た気持ちが私の中に溢れる。
あの頃の・・・在学中の自分は、こんな感情に自分が翻弄されるなんて思ってもいなかった。
何も知らなかった私。
くうに出会ったことで、たくさんの想いを知り、世界を知った。
日はすっかり落ち、昼間はあたたかく感じていた空気も冷えていく。
そんなことにすら、心はどこかで怯えていた。
歩きながら、再び紙袋を見つめる。
これを返したところで、葉月さんの気持ちが変わるわけがない。
むしろ、私が返り討ちにされることの方が容易に想像できた。
それでも、私は葉月さんに伝えなくてはいけない。
「あ、れ? 松下さん?」
不意に聞き覚えのある声に名前を呼ばれ、私は視線をあげた。
数人の男の子が私の脇を通り過ぎ、その中の一人が立ち止まって凝視していた。
「え、あ・・・神山君!」
「あ、よかった。今度もわかってもらえないかもって思いましたよ。」
久しぶりに図書館で会った時のことを指摘され、私は口ごもってしまう。
あの時は、すっかり見違えてしまっていて気付かなかったのだ。話している間も。
ほっとしたように微笑む彼につられ、私も微笑んだ。
そして、顔の筋肉が酷くこわばっていたのに気づく。
「珍しいですね。あ、教授のとこですか? 」
「ううん。ちょっと用事があって。」
「ですよね・・・教授のところに行くって感じじゃとてもないですよ・・・なんだか・・・」
言いかけた神山君の表情が曇り、心配そうに覗きこまれて、私は戸惑う。私の知らない、顔だったから。
「神山! 先行くぞ?」
少し離れた場所で立ち止まり、男の子たちが振り向いて声をかける。
なんだかニヤニヤしているように思えたのは、気のせいだろうか。
首を傾げていると、神山君は「行ってて。後で行くから!」と声を張り上げて手を振った。
私は慌てて「え、」と声をあげる。
私との時間を優先させる必要はないもの。
するとそんな私の考えが伝わったのか、神山君は「いいんですよ。ただの人数合わせだから。」と肩を竦めた。
「合コン、苦手なんです。」
そんな彼は、私のよく知っている彼だった。
「松下さんは? 用事って、学内の誰かと待ち合わせですか?」
「ええ、そこのカフェで。」
「・・・凄く、辛そうなのはどうしてですか?」
神山君の言葉に、私は少し考えて首を振る。
「そんなこと、ない」
「遠くからでも、苦しそうだって思いましたよ。松下さんだって気づく前から・・・」
本当に、情けない。
思わず泣き出しそうになっている自分に呆れる。
それでも、ここで神山君にそんな姿は見せられない。
「大切な話しをするの。だから、緊張して・・・。」
なんとか笑顔で答える。
そんな私に彼はちょっと驚いた顔をして、それから何か言おうとした。
けれど、そのまま言葉を飲みこむと困ったような表情を浮かべた。
「なんだか・・・」
「うん?」
「松下さんが凄く年上に感じます。」
「えぇ!? だって、私、神山君よりずっと年上だもの・・・!」
7つも年上なのに、そう見えていなかったということなんだろうか。
なんだかそれはそれで、非常に情けない。
「わかってたはずなんですけど。」
「神山君?」
「いえ・・・なんでもないです。」
寂しそうに微笑む神山君が、私を心配してくれていることに気づいて胸が熱くなる。
「ありがとう。神山君」と呟くと、神山君は嬉しそうに頷いて「ちゃんと話せるといいですね?」と目を細めた。
駅へ向かう神山君を見送っていると背後から笑い声が響いた。
振り向いた私を冷たく見つめる視線。
まるで夜の闇を纏う女王のように、美しい女性が佇んでいた。
「あ・・・葉月、さん・・・」
喉の奥に声が張り付く。
私と目が合うと、葉月さんは唇の端をあげた。
「まさか、くう以外の男とくるなんてね?」
嘲るような声に、背中がぞくりと震えた。
不潔なものを見るような瞳。
風が吹き、葉月さんが身に纏う香りがふわりと運ばれてきた。
私は、体が震えだすのを止められなかった。
2010,5,5up
Copyright(c) 2010 純 All rights reserved.