忙しいとわかっているのに呼び出したことへの謝罪を述べる前に、葉月さんが吐き出した言葉。
"くう以外の男とくるなんてね?"
周囲の喧騒が一瞬遠のく。
『どういう意味ですか?』
そう言いたいのに、言葉にならない。
すぐには何を言われているのか理解できず、じわりじわりと私の中で意味を成す。
「!」
なんてこと・・・! 神山君は、大切な後輩だ。
酸素が薄くなったように、呼吸が苦しくなる。
私のそんな様子を見て、葉月さんは綺麗な口元を引き上げるようにして笑った。
「くうじゃなくても、そうね、あなたにはあの子のようなタイプがお似合いよ。」
「そんなんじゃ・・・!」
ボディラインが強調されたワンピースの上にコートを羽織っただけの葉月さんは、組んでいた腕を解くと気だるそうに髪を掻きあげた。
もともと私より背の高い葉月さんだから見下ろされることには慣れていた筈なのに、洗練された全身から発せられる威圧感に身が竦む。
両手でバックを握りしめると、葉月さんの視線は何かを捉え、不機嫌そうに眼を細めた。
その表情に一気に体感温度が下がった気がした。
無意識に足が退く。体が逃げを打とうとしていることに気づき、留まるように自分自身に言い聞かせる。
(ちゃんと、葉月さんと話すのよ)
「神山君は、」
「神経が図太いのね。私と会うのに、男の子と会ってるなんて。」
「!?」
そんなつもりはなかったのに。
神山君はただ偶然、私とすれ違っただけ。
それなのに、私と何か関係があると思われてしまったなんて。
私を心配して立ち止まり、気にかけてくれた彼に申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「違うわね。ただ無神経なだけだわ。」
「!」
葉月さんの言葉が引き起こす衝撃に、言い返すことも答えることもできない。
ただ、目を見開いて息をのむ。
そんな私に、葉月さんはゆっくりと歩み寄り距離を詰め、更に、屈むようにして顔を近づけにっこりと笑った。
「それで? まともに話しもできないお子様が、私にどんな用があるというのかしら?」
息がかかるほど顔を近づけられ、怯えきった自分の顔を葉月さんの瞳の中に見つけた。今にも泣きだしてしまいそうな、情けない私を。
「ねえ。私言ったわよね? "いつか必ず"って。覚えているかしら?」
"いつか必ず、返してもらうわ"
妖艶な笑顔を浮かべて言った葉月さんを思い出す。今、目の前に立つ彼女は、あの日より一層美しく気高く見えた。
全身の震えが大きくなる。
それは、葉月さんの行動力や魅力を知っているからだ。
野住さんが学生時代、話していた。
"葉月の凄いところは、宣言したことを必ずやり遂げるところだ"って。
編入までして、自分の将来の為に単身イタリアへ渡った人。
何年も、向こうで頑張ってきたんだ。
だからこそ、彼女は昔以上に輝き自信に満ちているのだろう。
くうの隣に立っても、霞んだりせずに互いに引き立て合うような美しい人。
私なんかじゃ、太刀打ちできない。
そんなことは、わかりきっているのだ。
(それでも・・・!)
けれど、葉月さんの言葉に、頷くわけにはいかない。
私は、視線を腕に向ける。
今はまだ戻らない、私とくうとの繋がり。
心細くて、不安で、でも、もうそれだけではない。
強くなろうと、くうとの未来を手放さないと決めた時から、嘆くだけでの自分では嫌だと、気づいた時から。
"いつか必ず、返してもらうわ"
(違う。そこに、くうの意思は含まれていない。くうの心もカラダも、『物』ではないもの。)
くうの気持ちを疑うようなこと、もうしない。
私自身のくうを想う気持ちを揺るがせたりしない。
自分の自信のなさを、そんなことにすり替えることはしたくない。
反論しようと、私は葉月さんを見上げた。
しかし、私が言葉を発する前に、葉月さんの唇が素早く動く。
「あの時、私はあなたがくうを縛り付けているモノの存在に気がつかなかった。だからあなたに譲ってしまったこと、凄く後悔しているの。ねえ、わかっているでしょう? あなたがどんな卑怯な手をつかったか。」
逃げちゃダメだと思うのに、葉月さんがこれ以上ないくらいに体を寄せて来て思わず後ずさる。
喉元まできていた言葉を、飲みこんでしまう。
「くうは私にとって、一番の理解者だった。誰よりも長く居て、私が何も言わなくてもわかってくれる。それは、長く離れていても変わらなかったわ。今だって、くうは私を理解してくれてる。一緒にいれば、あの頃のように接してくれるのよ。昨晩確信したの。あなただって、感じたでしょう?」
「そ、れは、」
「あなたは卑怯な手でくうを手に入れた。私はそれが許せない。そうやって、びくびくと怯えて男の庇護欲を掻きたてて。罪悪感を植え付けて、カヨワイ女を演じてるんでしょう? ふふ、でも、ちゃあんと神様は見ているんだわ。」
せせら笑い、葉月さんは私の肩を突き飛ばした。咄嗟のことにバランスを崩し、私はその場に倒れこんでしまう。みっともなく倒れた私から、葉月さんは物凄い勢いで紙袋を取り上げた。
強くぶつけたわけではないのに、腰がぎしりと痛む。
「あなたは、この中身を見たのよね? それなら、私からのメッセージはわかったでしょう? もうくうを返して。あなたとでは、くうは本当に望むものを手に入れることはできないんでしょう? 知ってる? くうって子どもが大好きよ。」
傷口が大きく開かれる。
胸に突き刺さっていた刃が、勢いよく引き抜かれた気がした。
葉月さんは、そんな私の様子を至極楽しそうに見下ろしている。
「今度は、私がくうと・・・」
葉月さんからのメッセージ。
それは、私たちが腕時計にこめた想いと同じ・・・。
"一緒に、時を刻みたい" ということ・・・。
「私は、葉月さんが怖かったです。」
葉月さんの言葉を遮るように、私は言いながらよろよろと立ち上がった。
私たちを避けるように、だけど好奇の目を向けながら、多くの人が通り過ぎていく。
けれど、今はその視線から逃げ出したいとは思わない。
「綺麗で、強くて。私にはないものを、たくさんもっているから・・・」
磨かれたセンスも、人を惹きつける話術も、すべてのスキルにおいて、なにもかも葉月さんに劣っている。
うらやましいと思うより、葉月さんに対して"凄い"と思う気持ちが勝る。
もともとの資質の違いはあるだろうけれど、葉月さんはそれらを維持し向上させる努力をしているのだとわかるから。
だからこそ、私は葉月さんと向き合うのが怖かったのだ。
薄っぺらな自分を曝け出すのが怖かった。
「・・・ごめんなさい。葉月さんからの贈り物、くうに渡すことはできません。私から、くうと離れるなんて、できません。込められたメッセージの意味が・・・わかるからこそ・・・」
「"私にとって、くうはもうなくてはならない人だから"だったかしら? でも、そう思っているのは、あなただけかもしれない。」
真っ直ぐに葉月さんを見つめ、私は小さく頷く。「・・・そうかもしれません」と。
私は、くうから与えられてばかりいた。
心地よい場所、安らげる空間。
受け取るばかりで、返せていないことが多い。
(それでも、)
「卑怯だと言われても・・・それでも、私から離れてしまうことは、したくないんです。葉月さんが言われたように、」
そこまで言って、胸が苦しくなる。目を閉じて溢れてくる涙を堪える。
「私は赤ちゃんをくうを繋ぎとめる鎖にしてしまったのでしょう。もう・・・存在しないのに・・・。」
「そうよ、もうあなたには・・・」
「私は、くうにとって、"なくてはならない人"になりたい。くうが傷ついた時に、抱きしめる存在でいたい。・・・もう、この先、くう一人に痛みを背負わせたりしないように・・・。」
くうと手を繋いで生きていきたいから、私は、どんな痛みにも向き合う。
私と、私の愛する人から、目を逸らしたりしない。
その為に、私はちゃんと葉月さんに伝えなくてはいけない。
「葉月さん。くうを返すことはできません。くうは・・・くうの心は、最初から、くうだけのもの。私は、その傍らで、心を全部傾けて、くうを愛していきたい・・・。」
手を伸ばし、求めあって、どんな道でも歩いて行く。
もう、自分を卑下するばかりでいない。
くうが私を必要としてくれるのに、自分を貶めるようなことはしない。
「もう、葉月さんを・・・怖がったりしません。」
「な、によ、それ。・・・・笑わせないで。」
葉月さんが不思議なものを見るように、口元を覆い乾いた笑い声を発した。
「怖がるとか、何を言っているの? 私は宣戦布告してるのよ? 」
「・・・。」
想いは誰にも止められない。
それは、仕方のないことなんだと思う。
くうには、それだけの価値がある。
「くうはあなたを可哀想に思って、傍にいるだけだわ。」
「・・・くうに、聞いてみます。」
泣きそうになりながら、それでも微笑んだ。
言葉にしなくても、わかってくれるから――そんな理由で飲みこんできた言葉たち。
でも、本当は違ったのかもしれない。
言葉にしなくても通じているからこそ、伝えなくちゃいけない言葉もあったのかもしれない。
――不安になったのなら、訊ねてみるべきだったのかもしれない。
「ただ怖がっていればよかったのに、あなたなんて・・・・! くうの後ろで、びくびくと・・・っ!」
「くうの隣に、居たいんです。」
葉月さんは苛立ったように目を見開き、踵を返した。
「用はそれだけ? 」
「あ、は、い。貴重な時間を・・・」
「私は、あきらめないわ。」
葉月さんは振り向きもせずそう言って、コートを翻らせながら歩き出した。
その後ろ姿に、私はもう一度頭を下げた。
葉月さんの香りが、風でかき消されていく。
でも、まったく消えてしまうことははい。
きっと、いつまでも、この香りは私の胸を苦しくさせるだろう。
また体中が震えだす。
それでも、私はそんな自分を受け入れようと、そっと自分を抱きしめた。
まだまだ、だ。
もっと強くならなくちゃいけない。
葉月さんの後姿に背を向けて、私も一歩を踏み出した。
電車を乗り継ぎ、いつもの改札を出る。
駅前のロータリーにある時計は20時を示していた。
先ほど転んだ時にぶつけた所為か、腰が重くて仕方がない。
夕食を作る気にもなれず、何か買って帰ろうと思っていたのだけれど、それさえ億劫になる。
くうの居ない部屋に戻ることが、とても寂しい。
その寂しさこそが、くうを想う気持ちなんだとわかっている。
今夜は、歓迎会があるから電話はできないかも、と話していた。
私も、言葉にしよう、なんて思いながら、今日のことを簡潔に言葉にできる自信がない。
だから、電車の中からメールを送った。
お義母さまとのこと。
お義母さまと楓花ちゃんのお気に入りのお店に、私もご一緒したこと。
そして、葉月さんにあの小箱を返したこと。
中身は腕時計だったこと――。
(今頃は、まだメールに気づいてないかも、ね)
歩きながら、夜空を見上げる。
冷え切った空気の中、星がかすかに瞬いている。
街灯にかき消されてしまう僅かな光が、震えるように存在を主張していた。
まるで自分のようだと苦笑する。
(違うわね。きっと私なら、周りの光にかき消されてしまってるもの・・・)
夜空へ思いを馳せていた私を地上へ引き戻す様に、携帯のメロディーが鳴りだした。私は立ち止まってバックから携帯を取り出した。
サブウィンドウに表示されてたのは、"楓花ちゃん"という文字。
そろそろ夕食会も終わり、帰宅しているころだろう。もしかしたら、その報告かもしれない。
今日見た、お義母さまのウェディングドレスを着た楓花ちゃんを思いだす。
幸福に満ち溢れた、私までとても嬉しくなる姿。それなのに、私の頭の中で警鐘が鳴りだす。
胸がざわつき、メロディーに急かされるようにフラップを開け、通話ボタンを押した。
「楓花ちゃん・・・?」
名前を呼んでも、答えがない。
不安が胸を黒く覆いだす。
「楓花ちゃ・・・」
カツン、と、何かが落ちる音がして、その後には携帯そのものがどこかに落ちたような衝撃音が響く。
「楓花ちゃん? 楓花ちゃん!!」
私の呼びかけに、答える声はない。
ただ、微かに呻くような声が聞きとれる。
背筋が凍りつくような気がした。
「楓花ちゃんっ!」
私はマンションではなく、大通りに向かう道に進路を変えて走り出した。
走りながら、何度も楓花ちゃんの名前を呼ぶ。
目の前で、タクシーが乗客を降ろしているのが見えた。
私はそのタクシーに向かって「お願いします!」と声を張り上げた。
携帯からは、楓花ちゃんの声は届かない。
タクシーに乗り込み、行き先を訊ねられ、すぐに楓花ちゃんと別れたホテルを告げていた。
一度電話を切って、お義母さまと連絡をとったほうがいい。
それでも、今繋がっている楓花ちゃんの携帯を切ってしまうことが恐ろしく感じた。
とにかく、繋がっていなければいけないと恐怖が支配する。
私は気のよさそうな運転手さんに、しどろもどろになりながら事情を説明した。少しの戸惑いも見せず携帯を貸してくれた運転手さんにお礼を言って、バックの中から手帳を出す。メモしてあるお義母さまの携帯番号を震える手で打ち込んだ。
知らない番号からの電話でも、どうかお義母さまが出てくれますようにと願いながら。
10コール目で、緊張したようなお義母さまの「はい」という声が聞こえた。
「お義母さま! 今、どちらですか!?」
私の剣幕に驚かれた様子で『なんなんです? あなた・・・そらさんなの?』と訊ねられた。
胸がドキドキと打ち付け、吐き気がこみあげる。
私は唾を飲み込みながら、どんどん酷くなる警鐘に震えながら「はい」と頷いた。
「今、楓花ちゃんはご一緒ですか? 」
タクシーに浅く腰かけ助手席に手をかけながら、私は祈るような気持ちで訊ねた。
途端に、少し取り乱したお義母さまの声が耳元で響く。
『会計を済ませ、帰ろうとしたんだけれど、あのこ居なくなってしまったのよ。今、みんなで探しているところなの。携帯に電話しても、通話中で・・・』
(ああ、神様!)
「お義母さま、今、楓花ちゃんからの電話が繋がってるんです。」
『そらさん、あなた、何を言ってるの?』
「あ、私の携帯に、楓花ちゃんから電話がかかってきてるんです。でも、繋がったまま、何も喋らなくて。今日、楓花ちゃん、体調があまりよくなさそうで・・・お義母さま、楓花ちゃんどこかで倒れているんじゃ・・・!」
『!!』
言いながら、眩暈を覚える。
体の奥底から、あの日の恐怖が蘇ってくる。
携帯の向こうでは、お義母さまが楓花ちゃんを呼ぶ声が聞こえている。
私は握りしめたままだった自分の携帯を反対の耳に押し当てて、耳をすましてみた。
自分の心臓の音が邪魔をして、何も聞こえてこない。
(ダメよ、お願い。楓花ちゃんに、あんな想い、させたくない・・・!)
喉がからからになる。
『お義姉さん、史明です!』
電話の向こうから、男の人の声が響く。
私は運転手さんの携帯を耳に当て「はい」と応える。
『楓花、は、』
「史明さん? ね・・・楓花ちゃん、トイレに居ない? 個室、調べてもらって! 今日、お腹が張るって言っていたの・・・!」
ついに、涙が零れてしまう。
うらやましいと、思った。
これから、愛しい存在を育んでいく楓花ちゃんを。
私が失ってしまった、かけがえのない命を宿した楓花ちゃんを。
うらやましくて、やっぱり胸が痛くて・・・。
でもそれは、心からの祝福を妨げるものではなかった。
「お願い、史明さん! 楓花ちゃんを、赤ちゃんを、はやく見つけて・・・!」
どれだけ祈れば、願いは叶うのだろう。
(どうか、楓花ちゃんから、これから歩き出す二人から、何も奪わないで・・・!)
「楓花ちゃん! 楓花ちゃん! 待っててね、今、行くから・・・!」
私の携帯に向かって声をかける。
すると、その携帯から、誰かが楓花ちゃんを呼ぶ声が聞こえる。
バタンバタンと開け閉めされるような音が響き「楓花!」と叫ぶ男の人の声。
女の人の悲鳴。
私は耳から聞こえてくる様々な音に、身を切られる想いがした。
「誰か。お願い、早く楓花ちゃんを・・・・!」
呟く私に、運転手さんが「大丈夫ですか!? 」と心配そうにバックミラー越しに声をかけてくる。
それに応える余裕もなく、私は目を閉じてただ祈る。
お願い。
お願い。
くうの大事な楓花ちゃんを、守ってください!
どれだけそうしていただろう。いつの間にかお義母さまの携帯は切れていて、私は自分の携帯だけに神経を集中させた。
『そら?』
びくりと体が震え、私は俯いていた顔をあげた。
「く・・・う・・・?」
『 そらちゃん? 私だ、わかるかい?』
「あ・・・お、と・・・・さ、ま?」
お義父さまの声は、電話を通すとくうの声によく似ていた。
『楓花、見つかったよ。トイレの個室で倒れていた。今、救急車を呼んでもらったよ。』
「あ、あ、あ・・・・・っ!」
『大丈夫、大丈夫だよ。』
「お義父さ、ま、」
安堵と絶望が、同時に訪れる。
目の前が霞みだす。
(早く、病院に連れて行って・・・!)
『大丈夫だから。今、そらちゃんは、どこにいるの?』
問われて、車内から窓の向こうを見つめる。
聞こえていたのか、察してくれたのか運転手さんが「もう20分くらいで着きますよ? 今夜は道がすいててよかったねえ」と答えてくれた。
「私、今、そちらに向かってます。20分くらいで・・・あ、でも、」
私が着く頃には、楓花ちゃんはもう病院に搬送されているはずだ。
『ああ、それじゃあ、私は残ってそらちゃんを待つよ。今、救急車が到着した。かかりつけが近くでよかったよ。』
ロビーで待っているよ、とお義父さまは仰って、携帯の通話は切れた。
私は、バックからハンカチを取り出して、運転手さんから借りた携帯画面をそれで拭いた。
「ああ、いいですよ〜そんなことしなくても。あ、リダイヤル、消去できますか? しといてくださいね、個人情報ですから。」
「あ、はい。あの、本当にありがとうございます。」
「いいんですよ。困った時は、お互い様っていうでしょう?」
おずおずと差し出した携帯を右手で掴むと、運転手さんは胸ポケットに大事そうにしまった。
ほどなくして、私は数時間前訪れたホテルに戻ってきた。
正面玄関のスロープでタクシーを待たせ、ロビーにいるお義父さまのもとへ駆け寄る。
「そらちゃん」とお義父さまが、いつもよりずっと疲れた顔で、それでも私を安心させるように唇を綻ばせて名前を呼んだ。
すでにロビーは静まり返っていて、ここに救急車が訪れたような気配も残っていなかった。
「っ・・・!」
ズキンと腰に痛みが走る。鋭い痛みが、腹部にまで押し寄せる。
でも、今はその痛みより、楓花ちゃんを想う胸の方が痛い。
楓花ちゃんは、私に電話をかけてきたのだ。
どんなに不安だっただろう。
(楓花ちゃん・・・!)
史明さんとお義母さまは楓花ちゃんと救急車に乗り込んで、史明さんのご両親は一足先にタクシーで病院に向かったとのことだった。
痛みを堪え、タクシーの中でお義父さまから話しを聞いているうちに、病院に着いた。
救急外来の扉をくぐり、足早に廊下を行くと処置室の前には憔悴しきったお義母さまの姿があった。
その向かい側のソファーには、史明さんのご両親と思しき方が不安そうに座っていらっしゃった。
こんな時ではあるけれど、お義父さまは私を長男の嫁として紹介し、お互い簡単な挨拶をした。
史明さんとお義母さまは、二人で祈るように処置室の扉を見つめている。
私に気づくと、お義母さまは顔をくしゃくしゃにして抱きついてきた。
驚く私に、お義母さまは「そらさん・・・」と呟く。
と、同時に、処置室のドアが開き、扉の向こうに目を閉じる楓花ちゃんの青白い顔が見えた。
「大丈夫ですよ。母体も、胎児も、無事です。」
女医さんが、史明さんに笑顔を向ける。
体中から、力が抜けていく。
安堵の涙が視界を塞ぐ。
その後の記憶が、曖昧だ。
史明さんのご両親を見送った後、私はふらふらになっていたお義母さまを支えていた。
支えながら、実は私が支えてもらっていたのかもしれない。
「そらちゃん?」
お義父さまが不安そうに私を覗きむ。
ああ、やっぱり、くうはお義父さまに似ている。
纏う空気に安堵してしまう・・・。
「そら?」
(く・・・う?)
居るはずのないくうの声が聞こえた気がして、・・・・私は意識を手放した。
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