「そら、いつまで寝てるの? 今日はみんなでピクニックしようって言っただろう?」
頭上から降る優しい声。
頬に触れていた上掛けの柔らかな感触が、すっと消える。
それと同時に耳元で「そら?」と囁かれる。
くすぐったさに肩を竦めると、長い指が頬をつついた。
自分が思うより固く閉じていた瞳は意思に反して動かせず、焦れた指先が鼻先や瞼にちょんちょんと触れた。
「起きないなら、昨夜の続きするけど?」
そう囁かれて、背中がぞくりとするのは、条件反射。
それがイヤなわけではないけれど、私はなんとか重い瞼を押し上げるようにして目を開けた。
まばゆい光があたりを照らす。
(あれ? 私・・・?)
きょろきょろとあたりを見渡せば、そこは私たちの寝室。
当たり前なはずなのに、不思議な違和感を覚える。
寝起きの頭がうまく作用していないのかもしれない。
何度か瞬きし、そんな私をじっと見つめながら頭を撫でている人を見上げる。
「くう・・・?」
「ん? 他に誰が居るの?」
ベッドサイドに座ったくうは、首を傾げる。そして「おはよう、そら」と口元を綻ばせる。
トクン、と鼓動が跳ねる。何年経っても、頬が熱くなるような見惚れる笑顔。いつも私を受け止めてくれる、くうの笑顔だ。
いつだって私を甘やかし、何よりも安心させてくれる笑顔。
恥ずかしくなるくらい愛しそうに見下ろされ、それでも「おはよう」と答えようと口を開きかける。
ふと、胸に何かがちくりと刺さる。
(イタっ)
小さな痛みは痺れを伴い、やがて全身にゆっくりと重くまとわりつく。
その原因がわからないから、私は首を傾げる。
(風邪、かな?)
答えを求めるようにくうを見上げれば、くうは笑顔を曇らせて真剣な表情で私を覗き込んだ。
「昨夜は、そんな無理させなかったつもりなんだけど・・・」
「?」
「痕も残さないようにしたし・・・」
「!!」
艶めかしく吐き出された言葉と共に、頭を撫でていた指先が、首筋を伝う。
謎かけのようなその言動とくうの熱のこもった瞳に耐えられず、私はベッドの上で身を捩った。 それが何を意味するのかわからないほど初心じゃない。くうに与えられる様々な感覚の中で、多分一番馴染んでしまったものでもある。
恥ずかしさに全身が赤く染まる。思わず固く閉じた瞼に、くうのかたちのよい唇が落ちてくる。
くすくすと楽しげな声を零しながら。
「さあ、そろそろ起きて? 奥さん。もう待ちきれないって、癇癪起こしかけてるんだから。」
くうの言葉に疑問を感じ、私は再び瞳を開ける。まるで他の誰かが居るかのような言葉。ここに、私たち以外の誰が居るのだろう? 来客の予定があったなら、流石に私だって寝てなんていられないはずなんだけれど。
不安になりながらくうを見上げれば、私の視線を促すようにドアの方を見た。
「くう?」
訊ねた私にくうは指を自分の口元に持っていき「しぃっ」と小さく囁く。
頭に疑問符を浮かべながら、耳を澄ます。
と、――パタパタと小さな足音。
ここでは、馴染みのない、音。
(誰?)
不意に、小さな頭が、開けたままのドアからひょこりと現れる。
(え!?)
幼い子ども。
つぶらな瞳がくるんとまわる。その瞳は私の頭上のくうを捉えている。
「ぱぱっ! まま、おっきちた?」
たどたどしい、舌っ足らずの、甲高い、可愛いらしい声。
「んーまだちゃんと起きてないんだ。」
ぎゅうっと、胸が苦しくなる。
愛しさと、切なさが同時に押し寄せる。
くうの答えに「えー!?」と声をあげて。
その小さな視線が、私に向かう。
「まぁま!」
私を『ママ』と呼び、ぱあっと、花が綻ぶように笑う。
その笑顔は、くうにとてもよく似ていて――。
「ぱぱ、ずる〜ぃ!」
くうが、目を細め、柔らかな笑顔を浮かべる。
幸せそうな、蕩けそうな笑顔。
その姿に、胸が壊れそうなくらい早鐘を打つ。
(ああ・・・!)
「おいで。」
「はぁい!」
くうの言葉に、その小さな存在はふわふわの髪を跳ねさせて、室内へと足を踏み出す。
私たちに向かって駆け寄ってくる姿が、まるでスローモーションのようだった。
私はまるでそこに縛り付けられたように、ぴくりとも動けなくなる。
本当は、起き上がり、腕を広げたい。
そして―― 小さな宝物を、抱きしめたい。
(ああ、これは・・・!)
瞳の中で涙が膨れ上がる。
視界が急速に曇り、小さな愛しい存在を霞ませた。
(なんて・・・幸せで、残酷な夢・・・!)
これは、私が見ている夢なんだと気が付いているのに、必死に目を凝らした。
涙が溢れて止まらなくて。例え夢だとしても見ていたいのに。
残酷なほど・・・幸福で。
幸福だから。
現実に抱きしめることができなくても、せめて夢の中で抱きしめてみたかった。
(私とくうの・・・)
瞬間、私の中で何かが弾ける。
すぐ近くに感じていた、小さく愛しい子どもの気配も、すべて消えてしまう。
粉々に砕けて、そして残った想い。
抱きしめたかった。
悲しみを奥深くに沈めても、失ってしまった痛みや悲しみを忘れることなんてできなかった。
それじゃあ、今までの私は不幸だった?
そんなことはない。くうと二人で過ごしてきた時間は、とてもとても幸せな時間だった。
ただ・・・痛みを隠して、隠しきれずくうに背負わせてしまってきた。
お義母さまへの負い目や、葉月さんのことまで。
「うっ・・・っ・・・」
込み上げるてくる嗚咽を両手で押さえる。大きな声をあげて泣いてしまいそうだ。
私の髪を優しく梳いていたくうの長い指が、そっと私の手に添えられる。
「我慢しなくていいんだよ。そらの本当の気持ち、耐える必要はないんだ。みんな受け止めるって言っただろ? そんなに信用ない?」
そうだ。
私が信じて、思いを伝えるべき相手は、たったひとり。
「く、う・・・」
縋るように、くうを見上げる。
悲しそうな、傷ついたような瞳が私を見下ろしている。
まるで私が感じる苦しさを自分も感じているかのように。
多分、そうなのだろう。くうはいつだって、私の悲しみを自分へと吸い上げてくれていた。
だからこそ、私は、自分の中に・・・深く沈めようとしていた。
心配をかけたくない。
悲しくなんてない。
なかったことにできなくても、でももう、立ち直っているって、傷は癒えたんだって。
それは、私にとって精一杯のくうへの想いでもあったけれど。
(でも、くうは・・・)
気づいてたんだ。
だからこそ、私の言葉を待っていたんだ。
私が、言葉にすることを、願っていたんだ。
どんな感情でも・・・それが嫉妬や独占欲や、黒くどろどろしたものでも。
(くうに、伝えたい。)
いつもくうが言ってくれたように。
大事だから。大切だから。
誰よりも、もしかしたら自分自身よりも、私はくうのことが大事だと、愛しいと。
ずっと、傍にいたいと――。
* * * * *
温かなものが頬に触れる。
それは先ほど感じた質感とは驚くほどかけ離れたリアリティを持っていた。
包み込むように、慈しむように触れるそれが頬から去ると、いいようのない喪失感が胸に迫った。
そんな私の気持ちを察したかのように、温かなものは私の左手を包み込んだ。
包み込まれた場所がじんわりと温かくなる。今まで凍っていたみたいだった自分の指先に驚く。
その、指先に、唇の感触。
瞼にも。
これはまだ夢の続き?
「・・・そら」
くうが小さな声で名を呼ぶ。とてもとても小さな声で。
まるで眠っている私を起こさぬように、それでも呼ばずにいられないというように。
胸がきゅうっと苦しくなるくらい愛しい声。
左手を包み込んでいるのは、くうの両手・・・。
(・・・・これは・・・?)
夢ではないのかもしれない。
それでも、、瞼を開けることができなかった。
まだ頭の奥に霞みがかかっている。
ゆるやかに覚醒していく思考回路は、まず、くうの息遣いを耳に届けた。それとともに、時計の針が規則正しく時を刻む音が聞こえる。
くうが身に纏う香りが私を包んでいる。その他に、微かな消毒の匂い。
シーツや上掛けも馴染みのない、少し固い感触がした。
(ここは、どこ?)
「そら? 」
慌てたようなくうの声。
ぴくりと動かせた指先に、くうが反応して強く握る。
これが夢でないとしたら、そしたら、くうが居ることはおかしい。
(くうは・・・今、神戸で・・・私は・・・葉月さんに会って、そして・・・)
確認するように頭の中に浮かぶ出来事を並べて、はっとする。
背筋が冷たくなるような恐怖が蘇る。
(楓花ちゃんから携帯がかかってきて・・・私、は・・・!)
「楓花ちゃ・・・!」
起き上がろうとして体を捩る。思うように動かせず、これもやっぱり夢なのかなと疑う。でも、違う。何を寝惚けたことを、と、無意識に引いた右腕に微かな痛みが走った。その痛みが今度こそ、これは夢ではないのだと伝えていた。
(そう、これが現実なら、私は――楓花ちゃんのもとに・・・)
処置室で見た青白い横顔。でも、お医者様は笑顔で告げたはずだ。
『大丈夫ですよ。母体も、胎児も、無事です。』と。
(無事だった。助かったのよ、楓花ちゃんも赤ちゃんも。)
深呼吸しようと思うのに、息が吸い込めない。
意識は確かにここにあるのに、何故か遠くにいるような気がした。
暗くはなかったのに、急に視界が遮られてはっとする。瞳は開けられていても何も写しだしてはいなかったのだろう。
今、視界いっぱいに広がるのは、淡い水色のYシャツの生地。私を包み込むのは、間違えようもない、くうの香り。
「そら!」
「く、う・・・?」
混乱を解くように呼ばれる名前。
この世で一番、私を理解してくれる人。
私が私でいることを喜んでくれる人。
誰よりも、傍にいてほしいと思う人。
『くう、だ』と理解して、やっと息を吸い込むことができた。
酸素が頭にまわり、今まで抱えていた不安が吐き出された息と一緒に溢れだす。
「く・・・・っ! ふ、か、ちゃ・・・・」
伝えたいことが、聞きたいことがたくさんあって。
それなのに、言葉が思うように出てこない。あんなにちゃんと伝えようと決心したのに、一番心配している楓花ちゃんのことですら、まともに訊ねられない。
「大丈夫。楓花なら、大丈夫だから。」
それでも、くうは私の言いたいことをちゃんと理解して、私の代わりに言葉にした。
―― 私が欲しい言葉を。
「くうっ・・・私、私っ」
「そらが見つけてくれたんだろう? 母さんが言ってた。」
「私、楓花ちゃん、」
「ん。大丈夫だ。」
「よかっ・・・・・!」
溢れだした涙で喉が塞がる。
(よかった・・・! 本当によかった!)
混沌の中で震える私を抱き上げていたくうの掌に力が篭る。甘い拘束は、くうの体温を私に分け与えてくれる。穏やかな熱に全身で宥められているような気持ちになる。
「ありがとう。楓花を守ってくれて。」
「ちが・・・。 私は、何も、できなかったの。ただ、神様に祈るしかできなかったの・・・!」
あの時と一緒。私たちの赤ちゃんを失ったときと。
ただ祈るしかできなかった。
「辛そうだなって、気がついていたのに。私、自分のことでいっぱいいっぱいで・・・!」
「そんなことない。楓花の異変に気がついたのはそらだけだった。史明くんも、母さんも気づかなかったんだから。」
背中にまわされていた両手が、俯く私の頬を掴んで上向かせた。くうの視線と私の視線が絡み合う。
ポタポタと上掛けに落ちていた涙が、頬の輪郭に沿って流れていく。私が涙を払うより先に、くうの指先が掬い上げるようにして涙を拭き取った。
少しだけクリアになった視界に、申し訳なさそうに歪んだくうのが瞳が、微かに潤み揺れていた。
深く息が吐き出され「ありがとう、そら」と呟いたくうは、私の胸に頭を預けた。まるで私の心音を確認するかのように。その仕草に、私はそっとくうの背中に手を回す。
腕が重い。不自然な違和感は点滴を打たれているからなんだと今更気づく。
「私、また迷惑かけて・・・」
周囲を見渡せば、ここが病室であることがわかる。
楓花ちゃんの下に駆け付けて、私が倒れてしまったんだ。
きっと、お義母さまやお義父さまにも迷惑をかけてしまっただろう。よりにもよって、楓花ちゃんのことでとても心配されている時に。
(・・・!)
そして、ここにくうが居るということは。
「くう、最後まで研修参加できなかった・・・よね?」
あれからどれくらいの時間が経ったのかわからない。
不安になって壁伝いに視線を彷徨わせても時刻を確認できるものがなくて。
ブラインドの下ろされた窓辺を凝視しても、光の帯や影を感じることはできなかった。
あんなに準備していたのに、なんてことをしてしまったんだろう。
「ご・・・」
「謝る必要はないって、神戸行く前に言ったはずだよ。」
「でもっ」
「迷惑だなんて誰も思っていない。俺も、母さんたちも。」
謝罪の言葉を遮り、くうはゆっくりと顔をあげる。私を見つめ「本当だよ」とて困ったように苦笑した。
目を固く瞑りふるふると首を横に振りながら、私は飲み込んだ「ごめんなさい」の代わりの言葉を探してみる。謝罪以外の言葉なんて思い浮かぶわけがない。
(どうして、私はこうなの?)
くうは私の動きを封じるように頭を抱きしめて、自分の胸に閉じ込めた。「ちゃんと、サンプリングとしての役割は果たしてきたから。」と髪を梳く。
その手があんまり優しいから。
私は甘えたくなる自分に首を振る。
「それに、謝るのは俺の方だろう? そらが倒れたのに、駆け付けたのは24時間後・・・こんなんじゃ夫失格。」
自嘲気味に言いながら、くうは私の右腕に触れた。
点滴の針が固定されたそこに、視線を向ける。大きな痛みはないけれど、ダルさが腕を重く感じさせていた。
くうは右腕をそっと持ち上ると、手首に唇を押しあてた。「ごめん。」と呟きながら、唇を滑らせ手の甲にも口づける。
懺悔するかのようなその行為に、胸が苦しくなる。
さっき見た夢の中のように。
残酷で幸福な夢。
与えることができなかったもの。
懺悔すべきは、私なのに。
涙を堪えようと瞳を閉じると、くうはどこまでも優しく私の指先を掴み、手首に何かを巻きつけた。
その感触に驚いて目を見開く。
「ここに向かう途中、連絡があったんだ。"メンテナンスが終了しました"って。」
静かな空間に響くのは、聞きなれた音。
私とくうを結び付けてきた。
(時計)
7年という時を刻んできた時計。
私とくうの寄り添ってきた時間を、すべて凝縮した。
「くう・・・!」
私が言葉を失っていると、くうが両手を握りしめた。
「・・・・これからも、俺と、一緒に居てくれる?」
「!」
落ちてきた言葉に、私はくうを見つめる。
あの時の言葉だった。
くうが、私に時計を贈ってくれた時にくれた。
絶望の中に居た私に、くうがくれた言葉。
私を悲しみの底から、掬い上げようとしてくれた言葉。
「うっ・・・ふぅうっ・・・!」
「ずっと、一緒に。時を刻んで行こう。」
恥ずかしさや照れを感じる余裕はなかった。
私は微笑むくうに思い切り手を伸ばし、その首に腕をまわして抱きついた。
「くうが好きっ。誰にも渡したくないくらい、くうのことが好き。欠点だらけの私だけれど、それでも、私と、一緒にいてください。これからも、ずっと、二人で・・・!」
今想う気持ちを、ちゃんと伝えることしか考えられなかった。
「赤ちゃん、大事にしてあげられなくて、ごめんねっ・・・くうを苦しませて、ごめん、ねっ・・・! 悲しかったのは、くうも同じなのにっ・・・私は、あの時、くうの痛みに気づいていたのに、何もしてあげることができなかった。そして、いつも、いつも、自分のことだけで・・・何度も同じ間違いを繰り返してしまうのに・・・! それでも、くうは、もう一度その言葉をくれるの・・・?」
心の奥底につかえていた想いが一気に溢れだす。
結局、私は「ごめんね」を繰り返してしまう。吐き出して、曝け出して、閊えていたものがなくなると、胸の中はくうへの愛しさでいっぱいになっていた。
「くう、くう・・・!あり、が、と、・・・ありがと・・・!わたし、は、くうを誰より愛しい・・・のっ!」
くうは満足そうに微笑むと私の顔じゅうにキスの雨を降らせた。嬉しくて仕方ないというように。
「そら、俺は何度でも言うよ。ずっと、一緒に。時を刻んで行こう。・・・今日からは三人で。」
耳元に唇を寄せ、くうが囁く。
何を言われているのかわからず、くうを見つめるとその瞳に涙が滲んでいた。
「今度は、俺も全力で守るから。」
私の左手を掴んで下腹部に導くと、くうは自分の掌をそっと重ねて指を絡めた。
その指が震えている。
「・・・え・・・?」
「ここに、天使が舞い戻ったんだ。」
くうの言葉に、重ねられた掌を見下ろす。
くうの腕にも時計が戻り、静かに時を刻んでいる。
「ホント・・・?」
視線をあげると、くうの瞳が迫っていた。
一瞬見つめあい、お互い笑って。
そっと、キスをした。
2010,9,1up
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