言葉にはしないけど。

5、条件反射

何度訪れても、玄関の扉を開ける瞬間、私は無意識に両手を握りしめてしまう。
笑顔を作ろうとする所為で、頬が引き攣って痛い。

勝手知ったる自分の生まれ育った家に帰ってきたくうは、インターフォン越しに「ただいま」と声をかけた。
『おかえりなさい、開いてるわよ』という華やかな声が続き、くうは「ああ」と小さく返して玄関の扉に手をかけた。

横を向いて深呼吸。
吐いた息が白く見える。どうやら今日は昨日よりも寒いみたい。
意を決して、くうの背中を見つめる。
うう、でも、やっぱりダメ。
心臓が重く早く打ち、掌が夏でもないのに汗ばんでくる。
目を閉じて「落ち着け、落ち着け」とお呪いのように繰り返し唱える。
唱えたところで効果がないことは、今までで実証済みだというのに、他に何も方法が見つからないから、毎回同じことを繰り返してしまう。
足元がガタガタと震えだし、強烈な痛みが胸を突く。
もう何年も昔のことなのに、思い出してしまう。

「・・・」

くうの後ろでぎゅっと目を閉じていた私は、いつまでも扉を開ける音がしないことに気づき、そっと瞳を開けた。

「あ」

くうの瞳が細められ、鋭く私を見つめていた。
指が痛くなるほど固く握りしめた両手を慌てて解き、前髪を直すふりをした。

・・・うう、視線が痛い・・・きっとバレてる。

「そら?」
「はい」
「入るよ?」
「もちろん!」
「・・・」
「だっ、大丈夫、だよ?」

ぎこちなく微笑むと、くうは困ったような顔でちょっと考え込んでしまった。

「あの・・・お義母さま、待ってるわ」

自分が仕出かしたことなのに、執り成すようにくうの腕を引いた。
考えてみれば、申し訳ない話だ。
ここは、くうにとって、生まれ育った紛れもない"我が家"。
ホントなら、玄関の扉を開けることに、躊躇なんてしなくてよいはずの場所。
それなのに、私の意気地がないばっかりに、毎回玄関先でSTOPさせてしまうんだもの。


坂の上にある住宅街。
お洒落な洋館なんかもあり、由緒正しいお金持ち(という表現をするとくうは笑うけど)が集う、という街。
手入れされた植え込みや木々。
道路でさえ、ゴミひとつ落ちていない。
綺麗に着飾った"奥様"方が「ごきげんよう」と挨拶を交し、高級車が静かに走っていく。
自分が生まれ育った環境とのギャップはとてつもなく大きい。

畏まったりする必要はないよ、と、何度くうに言われても、それはやっぱりちょっと無理な話。
駅を出て、坂道を上り、この一角に近づくごとに私は顔が強張っていくの。

――7年前と変わらない。

・・・初めて訪れた時の方が、まだこんなに怖くはなかったかもしれない。


くうは覗き込むように私を見つめていた。
私が取り繕ったすべて、くうは簡単に見破っているのだ。
一瞬悲しそうに口元を歪め、昨日私が作ったチーズスフレの入った紙袋を足元に下ろした。

(あ・・・)

間抜けな私は今更なことを考える。
くうを悲しませるつもりはないのに。

自分でもどうしてよいかわからずに、くうを見上げる。
くうに笑顔を戻したくて、無理に笑って見せると、ぎゅっと抱きこまれた。
コートの柔らかな生地に私を埋め、くうは抱く腕の力を少しずつ強くしていく。

「く、くるし・・・・!」

ううん、苦しいことより、羞恥心が勝る。

こ、ここ、くうの家の、玄関先〜っ!

「く・・・う・・・!」

恥ずかしさと緊張でぐるぐるする私の頭の上で、くくくっと押さえた笑い声が響いた。

「くうっ〜!」

両手を彼の胸にあてて顔を上げると、図られたように額にキスが落とされた。軽く音を立てて。

「!」

声にならず片手で額に触れる。
くうは一旦真顔になって「おまじない」と囁くと、にっこりと笑った。

「あのね、そらは俺だけ見てればいいんだから。」
「うぁ・・・!」

あまりのことに奇声をあげてしまった。
さらっと凄いこと言ってる・・・!

耳まで熱い。
体中の血が沸点に達したようだ。
火にかけられたケトルのように、心臓がぐらぐらと音を立て、沸騰したことを知らせる笛がピーーーーッと汽笛みたいに鳴り響いている。

私はくうのコートにしがみついた。
その場にへたりこんでしまいそうだったの。
そんな私を支えるように、くうの腕がさりげなく腰を抱いた。

「程よく色づいて、うん、可愛いよ。そら」

耳元に唇を寄せて囁く彼をじーっと見てしまう。
私は内も外も変わり映えしないというのに、くうはいつの間に、こんなスキルを身につけたんだろう?
私の視線なんて物ともせず、彼は最強の笑顔を向けて宣言した。

「行こうか、奥さん?」

悔しいけど、先ほどより確実に解けた緊張。
くうが顔色を気にするほど、私は真っ青になっていたんだろう。
全部、くうが私の緊張を解くためにしてくれたんだってわかってる。

どうしてこんなに優しいんだろう。
欠点だらけの私なのに。

思わず零れた溜め息は、惚れ直してしまったからだなんて・・・やっぱり気づかれちゃうんだろうな。
くうの瞳がからかうように細められたもの。

促すように差し出された手に指を絡めて「はい、旦那様」とわざと小首を傾げてみせた。

笑いだすのを堪えながら扉を開けたくうを、玄関ホールで待っていたお義母さまは不思議そうに見つめ、「いらっしゃい」と招き入れた。





* * *





自分の家のキッチン以外は(この場合自分の実家となると、また微妙に話は違うのだけれど・・・)、私はできることなら使うことを辞退したいというのが正直な気持ちだ。

キッチン

そこは、その家庭で一番神聖な場所のように思える。
聖域、とでも言おうか。
本来、そこを使う人のみが立ち入ることを許される場所。

だからって、我が家の場合は・・・え、と、そこまで立派じゃないし、私以外の人にキッチンに立たれるのがイヤという気持ちはないのだけれど・・・。
ただ、やっぱり使い勝手は悪いだろうなって思う。

「家」の中で、玄関やリビング、あと、トイレなんかもそうだけれど、"お客様"が来る時には、共有するように、共有できるように、掃除するし片付けるし用意もすると思う。だけど、キッチンは違う。
ちょっとお手伝いすることはあっても、本当にそれは「ちょっと」。そこは手を出してはいけない場所。
あ・・・もしかして、私だけなのかな、こんな感覚。
そうね、私は本来"お客様"ではないわけだし・・・。

今、私は松下家のキッチンに立って、ただ持ってきたチーズスフレを切り分けているだけ。
たったそれだけでも、本当は逃げ出してしまいたいくらいなのだ。
取り分け皿の場所もカトラリーの場所も、もっと細かく言えばお客様用のものがどこに仕舞ってあるだとか、トレーはどれを使ったらよいのかとか、ひとつひとつお義母さまに訊ねなければわからない。
それはとてつもないプレッシャーだ。

楓花ちゃんのように甘えるのが上手だったら、もう少し打ち解けられるんだろうな・・・。

キッチンは、お義母さまという「人」がそのまま反映されている。
整然と片付いている。いつも綺麗に磨かれて。
隙がないその佇まいに、いつも委縮してしまう。

私は手際も悪いし、料理も得意ではない。"嫁"として何ができるでもなく、呆れるような存在なのだ。
だからこそ、偶にこうしてキッチンを使わせてもらう時には、ただただ聖域を汚すことのないように・・・!と祈りながら立つのだ。

異常かもしれない。
何年経っても慣れないなんて。

「そらさん、お仕事の方はどう?」

人数分お皿に移し、余った分はどうすればよいか思案していたので、お義母さまの言葉を危うく聞き逃してしまうところだった。

「あ、え?・・・・あ、はい、ようやく慣れてきました。わからないことは、空也さんに教えていただいてるんです。」

年明けに伺った時の記憶を頼りに備え付けの扉を開けると、ラップの箱が入っていた。
私はほっとしながら取り出して、残りにラップをかけた。

「そう。でもよかったわね。あのこは面倒見がいいから。放っておけないのよね。それに、あなたもせっかく取った教員免許ですもの。無駄にならなくて本当によかったわ。」
「はい。」

紅茶用に温めていたカップを揃えながら、お義母さまは満足そうに微笑んだ。
その手元に視線を落として微笑む。
ちゃんと笑顔で答えられてるよね?
ちくりちくりと言葉の端に隠れているものには、なるべく触れないように。気づかないように。思い出さないように・・・。

「一時はどうなるかと思ったけれど、頑張っているみたいだし。あ、それ、冷蔵庫にいれてちょうだい?」
「はい。」

私は心の中で「失礼します」と呟きながら、冷蔵庫のドアを開け、空いていた2段目にチーズスフレを入れた。

「本当に、あのこが貴女をここに連れてきた時には、気が動転してしまったわ。」
「そうです、よ、ね。」
「体調の方はどうなの?」

バタン、と、冷蔵庫の扉が閉まる。

――目の前で扉が閉まり、私だけこの家に入れずに入り口で立ち尽くす・・・・。

「え、ええ、健康そのものです」

――締め出されてしまって、私は自分から扉を開けることができない。
そのうちに扉は消えてしまって、私は迷子になる・・・・。

不意に浮かんだイメージ。

「さ、運びましょう。」
「あ、はい。お義母さま。」

"締め出される"なんて、本当にそうされたわけではない。
そんなこと、くうが黙っているわけがない。
いくらなんでも、そんな酷いことを、くうの家族がするわけがない。

これは、私の心の中に植えつけられてしまったイメージ。
今の私なら、それでも立ち上がることができるだろう。
でも、あの時の私には、ひとりで立ち上がることは困難で。

酷いことを考えるのね、と、お義母さまが聞いたら卒倒してしまうだろう。

悪気はないのだ。
言葉のひとつひとつに、私が痛みを感じても。
本来、とても愛情深い方なのだから。
くうを、もちろん楓花ちゃんも、大事に大事に慈しみ育ててきた方だもの。
私に向ける眼差しだって、ずっと優しくなっている。

(しっかりしなさい!)

私は軽く頭を振り、応接間への扉を笑顔で開けた。



応接間では、くうとお義父さまが向かい合って談笑していた。
くうはお義母さま似だけれど、雰囲気はお義父さまの方に似ている。

「何のお話をされていたの?」

お義母さまがテーブルに紅茶セットを置きながら、訊ねた。

「為替相場の話。」
「外貨預金だよ。空也の忠告を聞いておかないと、痛い目を見るからね。」

お義父さまは眉を顰め、大きな溜め息を吐いた。
どうやら"痛い目"を見たらしい。

「俺は"見る目"があるんですよ。そらを見ればわかるでしょう?」

な、な、なにを!?さらっと、笑顔で!

またとんでもないことを、と胸の中で絶句する。
お義母さまの呆れたような視線を感じながら、なんだかいたたまれなくなった。

でも、そう言われて嬉しくない人なんていない。
むずむずして、居心地の悪さと幸福感がごちゃまぜになる。

お義父さまはもう慣れたとばかりに「ああ、その通りだな」と頷き「おや、これはそらちゃんが作ったやつだね?」とスフレを見て微笑んだ。
「甘すぎなくて、売っているものよりずっと美味しいんだ」と喜んでくださる。

「いただきましょう?」

紅茶を淹れ終えたお義母さまもソファーに座り、私は「はい」と頷いた。



「もう、楓花ったら、自分から言ったのに。」

お義母さまは神経質そうな印象を与える整った形のよい口元に、ティーカップを運ぶと小さく溜め息を零した。
もうこれで5回目だ。

「10時には来るって言ったのよ?それなのに、もう11時じゃない。」

お義母さまの言葉に、私はちらりと腕時計を見る。
確かにあと3分で11時。

「いいじゃない。別に待ってるのは家族だけなんだし。」

くうが肩を竦めると、向かい側に座るお義父さまが「もう来るだろう」と宥めるように呟いた。

「そうは言っても・・・だいたい、ここのところちっとも帰って来なくて、それなのにいきなり『大事な話がある』なんて電話を寄越して・・・。昨日は貴方だって都合つけてくれたのに。」
「母さん、昨日はちょうど休みだったんだ。だから気にすることないんだよ。それより、楓花から何も聞いていないの?」

くうの問いかけに、まるでカップが鉛にでも変化したかのように難儀そうにソーサーに戻すと、お義母さまは寂しそうに首を振った。

「何も言わないのよ。あんなになんでも私に相談していたのに。」

楓花ちゃんとお義母さまは仲がよい。
親子というより、親友、戦友といった感じだ。
高校、短大と楓花ちゃんはお義母さまと一緒に海外旅行に出かけたり、オペラを観に行ったりと、本当に楽しそうだった。
私はお母さんと一緒に出かけたりすることもほとんどなかったから、二人の姿を新鮮な気持ちで見ていた。

そういえば、毎年夏に二人で出掛けていたのに、今年はどこにも行かなかったみたいだし・・・。

「久しぶりに帰ってくるっていうのに・・・」

・・・お義母さま寂しいのだわ。
私は口元に運んでいたティーカップをソーサーに戻し、くうをみた。私の視線に気づくと、くうは苦笑して肩を竦めた。
今、ここでお義母さまを元気づけてあげられるのは、くうだけ。
視線でそのことを伝えると、くうはふっと口元を緩めた。
私を見つめるくうの瞳は限りなく優しい。
くうは少し身を乗り出し、膝の上に置かれたお義母さまの手に優しく触れる。
「もうすぐ帰ってくるだろ?」
お義母さまはゆっくりと顔をあげ、くうを見つめた。
「そうね」
そう呟いて、泣きそうな笑顔を見せる。
「ありがとう」


その時、ドアチャイムが鳴った。


「来たみたいね!」

嬉しそうに立ちあがったお義母さまに、お義父さまが続く。
私とくうは顔を見合わせ、くすっと笑った。

「俺たちも行く?」
「ええ」

立ち上がり、廊下に向かいかけたくうが振り向いて左手を伸ばした。

「行こう」

強く手を握って笑う。

「明日、ここ、筋肉痛かもな?」

笑顔を張り付けた私の頬を、くうの右手がそっと摘む。
泣きたくなるのは、もう条件反射だ。

2009,1、15up

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