言葉にはしないけど。

7、ギフト

桜の蕾が緩やかに開きはじめ、キャンパスでは新入生たちが幾ばくかの不安や戸惑いなんかをその身に纏わせている。
掲示板に集まる姿も、キャンパスを歩く姿も初々しく、そんな新入生を遠巻きに見つめる私たちは、ほんの数年前は自分もその中に居たことを思い出し、懐かしさで目を細めて。
新しいことが始まる緊張感と期待。
ざわめきも囁きも、何もかもが浮足立って。
混沌とした中で、すべてが"始まり"に向けて輝きだしていた。

「そら、それじゃあ教免とるの?」
「はい。」

カフェテリアで、私はくうと向かい合って座っていた。
3回生の私。
4回生のくう。
くうは出会ったころから変わらない。
相変わらず、近寄りがたいような格好よさ。
・・・私は・・・相変わらず見栄えのしない冴えない私だ。

――ひとつだけ。
極度の近眼で、分厚いレンズの眼鏡はやめて、コンタクトに変えた。
私は気にもしなかったけれど、トレードマークともいえる眼鏡を外したことは、周囲にとっては驚きだったみたい。
一番驚かせたのは・・・松下先輩と付き合いだしたってことだろうけれど。

私だって、未だに、信じられない。

こうして、くうと向かい合っていること。
ラフな格好をしているのに、新入生がチラチラとくうを見ているのがわかる。
本人はまったく気にしていないのが、また凄い。
気にもならないのだろう。こんな視線には慣れっこなのだ。
慣れていない私は、居心地が悪くて思わず俯いてしまう。

「・・・さっき、教務で資料いただいて、オリエンテーションの仮申し込みもしてきました。」

文学部に入ったのは、もともと本好きだったから。
英文科に進んだのは、その延長線上。
訳されて並んでいる海外の書籍。
だけど、それを原書で読んでみたい、と。
そして勉強していく中で、原書と翻訳の微妙なニュアンスの違いや訳者の癖なんかを感じたり。
そんな中で、ずっと本に囲まれていれば幸せだと思っていた私。

世界を開いたのは、広げたのは、くうだった。

教職課程を取ろうなんて、くうと出会わなければ考えもしなかったと思う。
人付き合いが上手とはいえない私が、人と向き合う仕事を目指そうというのだから。
――・・・くうが目指していたから。
そんな理由で、誰かの影響で、自分が進む道を考えるとは思っていなかった。

くうはコーヒーの入った紙コップをテーブルに置くと、目を細めて「へ〜」と含みのある笑みを浮かべる。

「な、なんですか?」
「ん?いや、そらはてっきり院に進むと思ってたから。ふ〜ん・・・そらが"先生"ね。」
「う゛、やっぱり可笑しいですか?」
「違う違う。いいなあ、と思って。そらみたいな"先生"だったら、もっと勉強楽しかったかも、って。」
「なんでですか?」
「"先生"らしくない先生って、親近感わくだろう?」
「・・・・・・それって、致命的じゃ・・・・?」

自覚があるだけに"親近感"どころか、教師に向いていないんじゃないか、と声が小さくなる。
童顔で、すぐに赤面してしまうし、話し上手だとは思えない。
ぐるぐるし始めた私に、くうのくすくす笑いが届く。

「そらがにこにこしてれば、みんな大人しくしてると思うよ?」
「・・・・・・センパ」

イ、と言おうとすると、くうは目を細め「って言ったら罰ゲームだよね?」と身を乗り出してくる。
私は真っ赤になりながら、言葉を飲み込む。

「やれやれ、そらは約束忘れちゃったのかな。」

揶揄するように大袈裟に肩を竦めるくうは、だけどどこか楽しそうだ。

「っっ・・・・く、う、」
「うん、なに?そら」

名前を呼ぶだけで、心臓が飛び出そうなほど恥ずかしいのに、くうは親密な空気を纏わせて私の名前を呼ぶ。
本当は「そら」と呼ばれるたびに、心臓が小さく跳ねてるのに。

「私が、笑ってても、・・・・ くう ・・・・は、大人しくなんて・・・しないでしょう?」
「それは、仕方ないよね。そらがそうやって無自覚なのがいけないんだから。」
「???」

納得いかない顔で首を傾げれば、くうは真顔になって「やっぱり"先生"させるの心配」とかなんとか呟いてる。

「・・・そらが先生だったら、俺勉強どころじゃなかったかな。」
「そそっかしいから?」
「他の奴らに威嚇して。」

ぼっ、と、顔から火が噴き出そうな気がした。
またくうが笑う。

「どっちにしても、やっぱり教師向きじゃないってことですよね・・・」
「そら、やってみたいって思ったんだろ?頑張ってみなよ。俺でよかったらなんでも聞いて。」

俯いていたから、くうがどんな表情をしていたのかは、わからない。
耳に届く声は優しく、甘い。
頭がくらくらする。

「バイトも頑張ってたもんな。自分が倒れるまで頑張るなんて、そららしいけど。」

あの頃の私は進学塾の講師のバイトで、毎日忙しく過ごしてた。
生活が苦しかったわけじゃないけれど、他に割のいいバイトが見つかったから、と顔見知り程度だった同じゼミの子に頼まれたのだ。
このパターンで何度か失敗している私に、くうが溜め息を吐いたけれど、教育実習を前に経験しておくのはいいことだと思えて。

受験生相手の講師のバイトは、中々ハードだった。
2月に講義が終了してからは、ほとんどの時間を塾で過ごしていた。
大学試験、高校受験。
自分の受験以上に勉強した気がするほど、毎日参考書を睨んでいた。
挙句、塾で流行したインフルエンザをもらい、治ってからも風邪の症状は随分長く私の中に居座った。
倒れてしまった時には、くうが看病に来てくれて、呆れたように「病院に行こう?」と抱きあげられて、悲鳴をあげたっけ・・・。

「その節は、セ・・・・くうにもご迷惑をおかけしました・・・。」

私が頭を下げると、くうがふーっと大きく息を吐く。

「あーいうのはもうナシ。連絡しなさい。ちゃんと。」
「だって・・・くうにうつしたくなくて・・・。」
「あのね、俺はそらの何?」

顔をあげると、少し怒ったくうの顔。

「・・・え、と・・・お付き合いさせてもらってます」

ドキドキしすぎる自分の鼓動で息が詰まりそうだった。
それでもようやく言葉にすると、くうの大きな手が、私の頬を優しく撫でる。
付き合いだして、もうすぐ一年。
信じられないけれど。

「だったら、心配くらいさせてよ。」

さっきくうが言ったこと、そのままくうに返したい。
"こんな先生が居たら――"

「勉強どころじゃないかも・・・・」

苦笑交じりの私の言葉を遮るように、くうがまた私に触れる。

「そら、熱ない?」
「あ・・・・ん・・・ちょっとだるい・・・かも。」
「また無理してる?バイト?」
「バイトは短期だったから、先週で辞めてます。」
「風邪ぶり返した?これからなんの講義?無理しないで早退する?」
「大丈夫です。」

笑顔で立ち上がる。
一瞬世界が真っ白になって、慌てて両手をテーブルについた。

「そら!?」
「・・・実は寝不足で。教授に薦められた本を読んでたんです。昨晩」




それから、2週間が過ぎて。
くうも実習の準備で忙しくなった。

熱っぽさと体のだるさ。
いくら寝ても、眠い。
そのくせ眠りは浅く、小さな物音でも起きてしまう。

確実に変化していた、私のカラダ。

とっくに気づいていてもおかしくなかった。
今なら、あれもこれも、全部その所為だったとわかる。
それでも、しばらくは気がつかなかったの。
生理が来てなかったのに。
でも、私は生理の周期も不順で。
2か月くらい生理が来ないことが、今までにも何度かあって。
・・・だから、それが"風邪"や"寝不足"の所為じゃないとは、思いもよらなかった。



5月になっても生理は来なかった。
くうは母校での教育実習が始まった。

心あたりがないわけじゃない。

もしかして?と怖々と手にした検査薬。
自分がそんなものを買う日が来るなんて、それもこんなカタチでだなんて思いもしなかった。
説明書を読む間も、検査結果を待つ間も、ただただ震えていた。
ほんの数分が、とてつもなく長く感じた。
まるで、刑を言い渡される虜囚になった気分だった。

「妊娠・・・・してる・・・?」

呟いた言葉に、喜びと、悲しみが宿る。
正反対の感情が急速に膨れ上がる。
検査結果の説明書きを、何度も読み返す。

赤ちゃん・・・?
赤ちゃん・・・

へたりこんだ私の目の前、検査薬は置かれたままだ。

嘘だよね?
間違いだよね?

私は2本目に手を伸ばし、だけど立ち上がることができなくて。
――そっとお腹に触れてみる。

なんの変化もない、わからないこの場所に、赤ちゃんが居ると言うの?

半信半疑。
だけど、私の中でこの事態を受け入れる私が居た。
嬉しくないわけがない。くうとの赤ちゃんだもの。

だけど、私の口から出てくる言葉は「どうしよう」だけ。

私も、くうも、まだ学生だ。
3月生まれの私は、20歳になったばかり。
くうは今、実習中。それが終われば・・・採用試験が待っている。
それなのに。

(私は・・・私より・・・くうは・・・。)

経済的にも自立していない、ましてこれから教師を目指そうというくうに、リスクを負わせるの?


――欲しがったのは、私。
止められなくて、もっとと求めたのは私。


くうは優しいから、私の妊娠を知ったら、必ず責任をとろうとする。
そんな重荷になんてなりたくない。
だけど、私一人で何ができるというんだろう?

気がつくのが遅かったけれど、私の中で灯った生命の灯。新しい命。

私だけのものではない、命。




散々悩んで、病院へも行った。
もう9週に入っていた。
くうに、すぐに話さなくちゃいけない。
わかっているのに、できなくて。
―堕胎することも考えた。
でも、やっぱり、できなくて。

『あのね、俺はそらの何?』

――私は携帯の履歴から、くうの名前を選んでいた。

一人で背負う覚悟ができなかった。
安易に「産む」とも言えず、「堕ろす」とも決められない。
自分の中で一つの決断はあったけれど、もしもくうがソレを望むなら・・・猶予を与えないやり方は卑怯だと思えた。
そう、もしも「堕ろしてほしい」と望むなら・・・制限時間が迫っていた。

悩んだ末に、私は電話してしまったのだ。
実習期間中だったのに。

混乱しながらの電話は、何を言ったのか覚えていない。

気がつけば、携帯からは無機質な音が響いていた。
もうすぐ6月になるというのに、やけに寒い日だった。
空っぽになったような気がした。

その場に座り込みそうになった時、玄関チャイムが鳴らされた。
すぐには反応できない私を急かすように、ドアが叩かれる。
玄関のドアを開けた私の目に飛び込んで来たのは見慣れたジャケット。
だから、誰かはわかっていたけれど、顔を確かめる余裕もなく、私はその黒いジャケットの中に閉じ込められていた。
冷たい空気が室内に流れ込んでくる。
部屋の中で滞っていた空気が一斉に外に追い出されて、新しい空気が室内を満たしていく。
握りしめていた携帯が手のひらから滑り落ちる。
ジャケット越しにも、くうが走って来たのがわかるほど心臓がめちゃくちゃに暴れていた。

「そら、結婚しよう。」

あまりのことに驚いて、立ち竦んでしまっている私の耳元で、くうが喘ぎながら呟く。
呼吸を整えようとしているのか、私の言葉を聞き逃すまいとしているのか、くうはそのまま息を止めた。

「・・・・・っ」

声にならず、私は小さく首を横に振った。

そんなこと、できるわけない。
学生同士なのに。

ううん、こんな状況でなければ、私は喜んで頷いていたかもしれない。
学生結婚だろうと、くうと一緒に居れるなら、と、微笑んで。

だけど。

「どうして?そらは俺が嫌い?」

私はまた首を左右に振る。
嫌いなわけない。
好きで、好きで、自分がこんなに誰かを好きになれるなんて思わなかったから、自分でも驚くほど。
好きになる気持ちを抑えることができないのが怖くて、だけど、くうと一緒に過ごす時間が嬉しくて。

夢見ないわけなかった。
くうとこれからも一緒に過ごすことを、"考えなかった"わけがない。

私を見つけてくれた、くう。
くうと出会って、私はそれまで知らなかったいろいろな想いを知った。
愛しさも切なさも、くうが教えてくれた。
私が「人」を好きになれたのは、くうのお陰だ。

だからこそ、私は頷けなくなっていた。
どうしたらいいのかなんて、まったく考えられなかったけれど、それでも、くうの未来に私が突然割り込むようなことは、しちゃいけない。
例え私が・・・

「大好きだよ。そら。ずっと、これからも、そらと一緒に居たい。」

私の思考を遮るように、くうは強く抱きしめる。
縋りつきたくなる私は、あまりにも弱い。
くうがくれる言葉のひとつひとつに、心が震えて熱くなっていた。

「だから、そらを俺にください。そらの全部、俺に。」

言いながら腕を解き私の両手を握りしめ、くうはそっと私の指先に口づけ懇願するように囁く。

「そら、結婚して。」

許しを請うように覗き込む瞳に捕われ、私はついに涙腺が壊れていくのを感じていた。
くうの手が、そっとお腹に触れる。

「ふたりで・・・3人で、幸せになろう」

その一言で、私がどれだけ救われたか、くうはきっと知らない。
はにかみながら呟かれた一言が、私に力を与える。
愛しむように撫ぜ、両手で頬を挟まれる。

「そら"Yes"は?」

促す声に、私は嗚咽を堪えながら「はい」と答えるだけで、精一杯だった。
その手を振り払えるほど、私は強くなかった。
その瞬間、くうだけが、私の世界のすべてだった。




くうの実習が終わってすぐ、私たちは籍を入れた。
当たり前のことだけれど、若い私たちの決断を周囲はそんなに好意的に受け入れてはくれなかった。
私の両親もくうの家族も。
浅はかさと幼さを、諭された。

それでも、怯まなかった、くう。

それが私に力を与えてくれていた。
くうさえいれば、私はどんなことでも乗り越えていけるような気がしてた。
くうからの贈り物。
赤ちゃんが居れば、強くなれる気がしていた。

「いつか、みんなで笑い合える」
くうが抱きしめて、囁く言葉に願いを託しながら。




――なのに。

私の中で、赤ちゃんは、成長を止めてしまった。
赤ちゃんは、私の中で死んでしまった。

痛みも何もない。
なのに。

妊娠13週。
稽留(けいりゅう)流産。




横たえられたベッド。
本来、ここは生を産み出す場所。

「10まで数えてください。はい、1・・・2・・・3・・・」

麻酔で薄れゆく意識下。
すぐ近くで新生児の泣き声が聞こえてた。
つい数日前まで、それは幸せの象徴だった音。
それが、今は、こんなに苦しい。
私には、訪れなかった音。


ごめんね。
守ってあげられなくて、ごめんね。


何度も、何度も、謝らずにはいられない。

せっかく、授かった、大切な命。


ごめんね・・・。

冷たい金属が、太ももに触れた。
涙が頬を伝っていく。
それが、私が裁きの光を受けているときに感じた最後の感触だった。




「そら」
病室に戻った私をくうは黙って抱きしめてくれた。
こんな風に抱きしめてもらう理由、私はもうないのに。
そう思ったら、私は怖くなった。
くうの傍にいること。
「ごめんなさい」と、震える声で呟き、そっとくうの胸を押した。

"今がどんなに空也にとって大事な時だったのか、あなたは何もわかっていない!"

お義母さまの声が、私を責め立てた。

「ごめん、ごめんね」

もう、くうが責任をとることは、なくなったんだ。

「くう、ごめんなさい」

私のか細い声は、くうには聞こえていたはずで。
だけど、くうは私を抱き寄せて、何かを腕に巻いた。

「・・・・これからも、俺と、一緒に居てくれる?」

秒針が時を刻む音。
私はくうが付けたそれに視線を落とす。

「時計・・・?」
「謝らないで。そらが悪いわけじゃない。」
「でも・・・」
「ずっと、一緒に。時を刻んで行こう。」

それは、くうからの二度目のプロポーズ。

私は「ママ」に、なれなかったのに。
くうからの贈り物を永遠に失ってしまったのに。


くうは、私を選んでくれた。


私は大きな声をあげて、くうの腕の中で泣いていた。
絶望の中、くうだけは私の手を離さずにいてくれた。

2009,1、30up

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