言葉にはしないけど。

8、どうしようもない気持ち

年が明けて、3年の教室がある3階は閉塞感と焦燥感を内に秘めたような、重苦しく息苦しい空気で満ちて来た。
いつも以上にはしゃぐ声や笑い声を響かせても、それは精一杯"なんでもない"と自分に言い聞かせているようで。
それも仕方がないこと。
先週私立高校の推薦の合格発表があり、今日は都立の合格発表。
クラスメイトの合否が気になってしまうのか、忙しなく窓の外を眺める子もいれば、無関心を装いつつ気にする子や、"人は人"としっかり線引きしている子もいる。

合格して安堵し残りのスクールライフをおくるものと、そうでないもの。
クラスは少しずつ2極化していくのだと、学年主任が溜め息交じりで胃を押さえていた。

受験シーズンは始まったばかり。
自分の中学時代はどうだっただろう?と記憶を遡る。
私はしっかり線引きできる子ではなかった。
そんなにたくさんの友人が居たわけではない。
クラスでも目立たない女の子達の中に居た。
当時一番仲の良かった友達と、"高校に行っても仲良くしようね!"と同じ学校を目指してた。
だけど、私は合格して・・・彼女は駄目だった。

あの瞬間をどう表現すればいい?

彼女が泣きだした時、私は自分が落ちていればよかったのに、と思うほど苦しかった。
だけどそれを言葉にするほど馬鹿だったわけでもない。
何も言えず、何もできず、ただただ立ち竦んでいた。

これから先、幾度となく経験する分かれ道。
難なく越えていくものもいれば、悩み傷つく者もいる。
過ぎてしまえば、それはただの通過点でしかない。
だけど、岐路に立たされている瞬間は、先に道があるのかどうかすらわからなくて。

10代の苦悩は、本当に入り口でしかないの。
あの頃、本当に辛かった出来事も、今となれば"記憶を遡る"ことをしなければ、はっきりと思いだすことができないのだもの。

合格した子も、これから試験に臨む子も、思いはたった一つ。
どちらも早くこの閉塞感が終わればいいと願っている。
それだけは変わらない。
そして、その閉塞感の先に笑顔があることを願わずにはいられない。

腕時計に視線を落とす。
中学に近い高校の発表を確認に行った受験生は、そろそろ戻ってくる頃だろう。
1年生のノートをチェックしていた私の視界に、そわそわと落ち着かない様子でソファーに座る副校長と学年主任が入る。

全員合格だったらいいのに・・・。

私立の発表の時に思わず声に出し、時田先生に「松下先生、甘いですね。」と呆れられた。
「推薦でそんなこと言ってるようじゃ、一般の時まで持ちませんよ?それに担任してるわけじゃないんだから、査定もされないでしょ?」
諭すような揶揄するような言葉に、私は「そうですね」と呟いて自分のデスクで小さくなったのだ。

それでも、合格を祈ってしまう。
できるなら、みんな笑顔で、と。

やっぱり私は甘いのだろう。
それでも、ひとりひとりの顔が思い浮かべば、やはりそう願わずにはいられない。

「どうしたんですか?松下先生」
「え?」

至近距離から声をかけられ、私は思わず体を強張らせた。
甘ったるい匂い。
声の主が誰か振り返らなくてもわかる。
時田先生だ。

「ぼーっとしっちゃって。昨晩よく眠れなかったんですか?」
「いいえ、そんなこと・・・。」
「なんだか色っぽいですよ?」

くすくすと笑いながら肩に手を置かれ、一瞬ざわりと肌が粟立ち震えた。

「・・・そういう反応、なんだかそそりますよね?」

耳元に唇を寄せて囁かれる。
本当に、どうしてこの人はこうなんだろう。
私は逃げ出したい気持ちを堪えて時田先生に向き直る。
時田先生はニヤニヤと笑うと「冗談ですって。」と私から離れ自分のデスクに寄り掛かった。

昨年、私が結婚していることを知った時田先生は、からかうような、駆け引きするような迫り方はしなくなった。
そのまま興味が薄れるだろうと思っていたのに、何故か今度はあからさまな態度で声をかけてくるようになったのだ。

「時田先生・・・っ!」
「不謹慎とか、言わないですよね?松下さん、学生結婚なんでしょ?福田先生たちが言ってましたよ。・・・・そんな初心な顔してるのに、ホントびっくりしましたよ?僕は、そっちの方が不謹慎だと思うなあ。」

小さな声で咎めるように名前を呼んだ私の言葉を先取りして、時田先生は言葉とは裏腹な爽やかな笑顔で首を傾げて見せた。



結婚していたことを知った女性教諭たちは、その週のうちに私を"ちょっと早い忘年会をしましょう!"と連れ出して、根掘り葉掘り結婚の経緯や、くうのこと聞き出しにかかった。
詳しく説明するのは避けたのだけれど、私の年と結婚年数を照らし合わせれば、私たちが大学在学中に籍を入れたことは明白で、自分たちでいろいろな妄想を膨らませてきゃーきゃー盛り上がっていた。

「ね、旦那さんって高校で英語教えてるんでしょう?どこ?都立?」

体育の中山先生がやきとりを握りしめながら身を乗り出す。

「私立です」
「どこ?」
「白瑛、です。」
「はくえいーーー!?」

木澤先生と福田先生が持っていたビールジョッキをテーブルにどんと勢いよく置いて叫んだ。
私はぎょっとして、手にしていたお箸を落としてしまった。

学区外とはいえ、どこで誰に見られているかわからない。
このご時世、些細なことでも教師には命取りとなりかねない。
私は先生たちを宥めるように「声、声ーー!」と声を落とすように懇願した。
するとそれまで日本酒を飲んでいた事務の田上さんが、私の両手を握りしめて詰め寄った。

「松下さん、合コンしましょう!旦那さんに頼んで!」
「はい?あの、田上さん、目が据わってます・・・・・」

いつもは静かな田上さんの行動に面食らっていると、中山先生と福田先生も近づいてくる。

「陽菜さん、よく言ったわ!」
「松下さん、合コン設定してちょうだい!」
「え、ええええ?」
「そうよ!白瑛ってレベル高いことで有名よ」
「え、あの、生徒さんと合コンなんて・・・」
「何言ってんの!!教師よ!教師!!決まってるでしょ!!」

3人の必死さに気圧されて、私は隅っこに後ずさる。
すると後ろからがしっと肩を掴まれた。

「き、木澤せんせ?」
「松下さん、私たちに出会いのチャンスをちょうだい!」

4人の女性教諭に囲まれた私は、悲鳴をあげそうになっていた。
良くも悪くも、私の周りにはあまりいないタイプの人たちだから、こんな風にされるとただただ困惑するばかりで。
それに、合コンなんて、学生時代だって参加したことがないのだ。

「わーん、楽しみだわ〜。向こうにも4人くらい独身者いるわよね?」
「松下さん、そこ重要!」

承諾したつもりはないのに、話はどんどん進んでいき、私は口をパクパクするばかりで。

「ちょっとー、もっと早く言ってよ〜!」
「白瑛かぁ、私のクラスからも2人推薦希望でてるわよ」



それまで女性陣には、どこか敵対視されているような気がしていたけど、今では期待に満ちた目で見られることが多くなった。
くうにその話をしたら「それじゃ受験が終わった頃にでも?」と面白がられた。
今すぐというわけにはいかないけれど、と伝えると、それだけでも大喜びされた。
私は行かなかったのだけれど、新年会はその話題で盛り上がったのだと木澤先生から聞いていた。

学生結婚だったこと、時田先生も聞いたんだわ・・・。

"不謹慎!"
そんな風に言われること、慣れてしまったはずなのに、ダメージはやはりある。
散々言われたフレーズなのに。
お義母さまに・・・。

「不謹慎・・・ですか?」
「そうだね、本当は子供いたりするんじゃないの?そういうケースって。じゃなきゃ、学生で結婚する必要ないんじゃない?」

何も知らない時田先生の一言が、胸に刺さる。
もう開いてしまっている傷口が抉られてしまったような気がする。
だけど、それをこの人の前で見せるのは嫌だ。

「残念ながら、子供はいません。」

弱い心に鞭打って、私は精一杯の笑顔を浮かべる。
時田先生は少し驚いたように目を見開き、また口を開きかける。
そこで、電話がなった。
副校長と主任は慌てて立ち上がって、デスク上の受話器を手に取った。

「おお、黒峯くん!うん、うん、そうかそうか。うん、よくやった。」

嬉しそうにメモを取る副校長の手元を主任がにこにこと覗き込んでいる。
黒峯君は確か上位校を狙っていた。
数人オリエンテーションを一緒に受けていたけれど、先生たちのあの様子なら、全員合格だったのだろう。
その様子に思わず胸を押さえて「よかった」と呟き、呆れたように私を見つめる視線に気付く。
(ああ、そうだった・・・)
私は自分の置かれていた状況を思い出して時田先生に視線を戻した。
案の定、口端を少しあげて、彼は私を見下ろしていた。

「お人よしですね。自分が攻撃されている時なのに。」
「攻撃・・・だったんですか?」
「松下先生って、なんだか虐めちゃいたくなるんですよ。」

そう言って笑顔を向けられて「嬉しいです」と喜べと言うのだろうか?
大体、ここは職員室だ。それも、生徒の一生を左右するかもしれない、合格発表の日だというのに。

でも・・・・何故だろう。わかってしまう。

「・・・でも、時田先生、優しいですよね。私があんまりお人よしすぎて・・・心配してくださってるんですね。」

そう。
時田先生は予防線を張っているんだ。
これからここが、悲しみや不安、苛立ちを抱えた生徒たちでいっぱいになることを知っているから。

時田先生は言葉を失い、私を凝視した。
苦手な人であることは変わらない。
でも、その優しさだけは本当だと思う。

「これだから、非常勤ってお気楽でいいですよね。」

時田先生は面白くなさそうに肩を竦めて背を向けた。
私はゆっくりと向き直り、デスク上のノートに視線を落とした。





午後になって、北風が強くふき出した。
流れていく窓の外の景色は、濃い藍色が街を沈め始める。
電車から降りた時に感じる風の冷たさを予感させるようなその色合いに、私は指先に視線を落とした。

昨日持って行ったバックに、いつも通り手袋を入れてしまった。
携帯や財布、鍵なんかはさすがに忘れずに入れ替えたのだけれど、手袋だけ忘れてしまった。
朝、ゴミ袋を集積場所に出した後、バックの中に手袋がないと気づいた。
腕時計をちらりと見て、次の電車に乗るには、もう部屋まで戻っている時間がないことを確認して溜め息を吐き、足早に駅へ向かったのだ。

寒くなりますよ、とニュースでも言っていたのに。

扉に寄りかかって、朝と同じように溜め息を吐く。
朝よりもぐっと気温が下がっているのに、強く吹き付ける風で体感温度はますます低く感じた。
こうして適度な暖房の効いている電車から出た後は、尚更寒さが身にしみるだろう。

早く、くうの顔が見たい。

私より早く家を出たくうは、きっと帰ってくるのはずっと後だ。
高校だって受験シーズン。
くうは2学年の担任をしているから、直接受験に関わるわけではない。
それでも、やはり忙しいのだ。

"先生ってさ、迷路の入り口で「いってらっしゃい」って声をかける役割なのかもな。
意気揚々と行く子にはエールを送りながら「迷ったら戻っておいで」って声をかけて、んで不安そうに立ち止っている子には地図を見せてあげたり。
俺みたいなぺーぺーなら、尚更。「導く」なんて凄いことは無理だから、一緒に悩んでやったり、こんな道もあるぞって肩を叩いて知らせることくらいしかできないから"

くうが高校教師になったばかりの頃、言ってたこと。
「凄く理想論だけど」と苦笑したくうは、だけどちゃんと"先生"の顔をしていた。


時田先生が黙り込んでしまった後、職員室は拍車や喜びの声が一日中響いていた。
喜びがある場所には悲しみが必ず存在する。
私の願いとは裏腹に、4分1程度の生徒が涙を飲んだ。
泣きじゃくる子、放心したように立ち尽くす子。
先生たちは励ましたり別室へ移動したり、それぞれ対応して忙しそうだった。
時田先生も、親身になって一般入試で希望が叶うように、アドバイスしていた。
ちゃんと"先生"の顔をしていた。
ちゃんと"先生"できていないのは、私だけ・・・。


バックの持ち手を握りしめ、私は目の前で開いたドアからホームに降りた。
電車から降りた学生さんが、マフラーを口元まで引き上げてる。
ジャケットのポケットに手を突っ込む男の子、慌ててポケットから革手袋を取り出してはめるサラリーマン。
朝よりは幾分少ないものの、電車が着くたびに、人はまるで波のようにホームを揺れ動いていた。
私はその波に攫われないように、改札へと足早に向かった。
指先が一気に冷えていく。

早く家に帰ろう。
迷子になったわけでもないのに、急に心許なくなる。

私の立っている場所はここでいいの?

『赤ちゃんが貴女じゃ無理だって判断したのね。だから流れてしまったんだわ。』
『もう、空也と一緒にいる理由はないでしょう?』
『罪悪感で縛るのは、おやめなさい。』

身体が震えだす。
寒さの所為じゃない。
私は、本当に、くうの隣に居ていいの・・・?

「そらちゃん!」
「!」

改札を出てすぐに名前を呼ばれ、私は一瞬囚われていた言葉と、現実とがごちゃまぜになって、のろのろとした動作で声のした方へ視線を向けた。
吹き付ける風を避けるように壁にもたれていた人が、私に向って笑顔で手を振った。

「・・・・・・楓花ちゃん!?」
「寒いね〜!」

手にしていた携帯をバックに戻しながら、楓花ちゃんはにこにこと私へ向かって歩いてくる。
ファーのついたコートが軽やかに跳ねる。
華やかなその姿に、周囲の目が一瞬張り付いて止まる。

こんなところは、兄妹そっくりだわ。

私は自分の頬が強張っていることに気づき、両手でさすった。
楓花ちゃんの妊娠がわかってから、私は7年前を強く意識するようになっていた。
そんな自分が堪らなく嫌だった。

「おかえりなさい、そらちゃん。・・・どうしたの?ほっぺ、そんなに寒い?」
「た、ただいま・・・・・・寒いというか、固まってしまったのをほぐしてて・・・・って、そうじゃなくて、楓花ちゃん、どれくらい待ってたの?」
「んー今来たばっかりだよ。」

仕事帰りに寄ったのだろうか?
防寒よりも見た目重視といった楓花ちゃんのファッションは、だから、この寒空の下で待ち合わせをするような格好ではない。

「風邪ひいちゃうよ〜!?」

それに、楓花ちゃんは妊婦さんだ。
まだまったくお腹は目立っていないけれど、楓花ちゃんの中では、小さな命が育っている。

「大丈夫だよ〜」

楓花ちゃんは笑顔で答えた。
ここのところ悪阻が酷くなった、とメールをもらっていた。
確かにお正月の頃に比べると頬がこけた気がする。
その所為か、笑顔には力がなく、説得力がない。

「え、と、私を待ってたの?」
「うん。そらちゃんの顔が見たくて。」
「顔?」
「ふふ、やっぱり、そらちゃんに会うと落ち着く。」
「?」

楓花ちゃんは私の右手に腕を絡め、肩に頭を乗せると大きく息を吐いた。
楓花ちゃんの左手の薬指がきらりと光る。
その手にそっと触れると、私以上に冷たかった。

「・・・楓花ちゃん、本当はどれくらい待ってたの?」

冷え切っている楓花ちゃんを覗き込むと「1時間くらいかな」とバツが悪そうに小首を傾げて見せる。
その瞳が微かに揺れていた。
笑っているのに、どこか寂しそうで。

「とりあえず、家に行こう?」
「うん。」

マンションまでの道のりが、こんなに遠く感じたことはなかった。
他愛もない世間話をしながらも、楓花ちゃんが腕を解くことはなかった。
こんな風に楓花ちゃんに甘えられるのは初めてのことで、私はどぎまぎしながら歩いた。

マンションの玄関を開けると、楓花ちゃんは「お邪魔します」と悪戯っぽく笑ってヒールを脱いだ。
楓花ちゃんがマンションに来ることは本当に稀だ。
高校生の頃、当時付き合っていた男の子との交際を反対されたとかで、ここに家出(というのだろうか?)してきたことはあったけれど、そういえば、あれから一度も来てなかったかもしれない。
(稀どころか、2回目?)
私はコートを着たままエアコンのスイッチを押し、きょろきょろと室内を見回している楓花ちゃんをソファーに座らせ、ひざ掛け用のブランケットを押しつけるように渡した。

「ごめんね、すぐにあったかくなると思うけど。」

何かあったのだ。
連絡もなしに、ましてくうが居ないのに、楓花ちゃんが訪れる理由が思い浮かばない。
仲良くなったとはいえ、私たちが二人きりで過ごすのは、松下の家の外では初めてだ。
ひとしきり室内を見回した楓花ちゃんは、ほう、と大きく息を吐いてソファーに深く座った。

「・・・あったかい。」
「待っててね、飲み物用意するから」

コートをダイニングの椅子にかけ、ケトルに水を入れてスイッチを入れた。
楓花ちゃんは紅茶が好きだ。
紅茶好きなお義母さまと茶葉を探しに出かけるのが好きなのに・・・我が家のキッチンの戸棚にはティーバッグしかなかった。
先週切らしてしまい、その後買い足していなかったことをこのタイミングで思い出す自分が情けない。
少なめに水を入れたので、ケトルのお湯はすぐに沸騰した。

「ティーバッグしかないの」

私が箱を持ち上げて声をかけると「ありがとう」と楓花ちゃんは振り向いた。

「・・・っ!」

瞬間、笑顔が曇り、楓花ちゃんは口元を押さえて立ち上がった。
カウンターの上で、タイマーセットしていた炊飯器から蒸気が上がっていた。

ああ、そうだった!
この匂い・・・ご飯が炊きあがる時の匂い!

私は楓花ちゃんに駆け寄ると洗面所へと誘った。
普段は食欲を誘う炊き立てのご飯の匂いは、悪阻の時には一番堪えた。
楓花ちゃんも同じなのだろう。
私は新しいタオルを用意して、吐き気を堪える楓花ちゃんの背中をさすった。

「吐いていいからね。」
「うっ・・・・っ・・・・」

楓花ちゃんの華奢な背中をさする。
そうしながら、こうやってくうが心配そうに背中をさすってくれたことを思い出した。


胃の中は空っぽなのに、吐き気が襲ってくる。
吐くものがないのに、げぇげぇと体の中から絞り出させるような吐き気に、体中が冷えていく。
泣きたくなんてないのに、涙が溢れて止まらなくなる。
そっと・・・くうの大きな手が背中に置かれる。
心配そうに背中をさする手が温かくて、覗き込む瞳が優しくて、少しずつ吐き気は治まっていく・・・。


しがみつくように洗面台に向かっている楓花ちゃんを抱きかかえるようにして、私はただそっと背中を撫でていた。
楓花ちゃんの体を思いながら・・・重なる記憶。
どんなに辛くても、悲しくても、耐えることができたのは、お腹の中の小さな存在があったから。
くうが居てくれたから。

「・・・・ありがと・・・・そらちゃん・・・・も、大丈夫・・・・」

はあはあと肩で息をする楓花ちゃんに、コップを渡す。口の中、すっきりさせたいだろうから。
うがいを済ませタオルに顔を埋める楓花ちゃんは、ずるずると座り込み、そのまま泣き出してしまった。
私は躊躇いながも、そっと楓花ちゃんを抱きしめる。

「・・・・ふぅっ・・・・そら、ちゃん・・・」
「はい?」
「私、でも、あ、あかちゃ・・・・産める、かなっ?」
「え?」
「ふ、う、うわぁぁん・・・・・」

呟いたきり、楓花ちゃんは私にしがみついて本格的に泣きだした。
私はただひたすら抱きしめて馬鹿みたいに「大丈夫、大丈夫だから」と背中を撫で続けた。
何があったのか、私の鈍くさい頭は働いてくれず、情けなくなりながら抱きとめているだけだった。

どれくらいそうしていたのかわからない。
楓花ちゃんの泣き方は、ひっく、ひっくとしゃくりあげるようなものに移行して、それまで硬く強張っていた身体から力が抜けたように、私に体重を預けていた。
私は楓花ちゃんを支えるようにして立ち上がり、リビングのソファーまで促した。
ソファーに座ると楓花ちゃんはタオルを握りしめて、また顔を埋めた。

優しそうな史明さん。
楓花ちゃんのこと、大切にしてくれてた。
来月、教会で式をあげたいという楓花ちゃんの願いを叶えるため、必死に探してくれていた。
それなのに、なにがあったんだろう?
楓花ちゃんがこんな状態になるまで、彼が気付かないはずがない。

私は紅茶の用意をして、楓花ちゃんの足元に座った。
落ちていたブランケットを楓花ちゃんの膝にかけると、手を握られた。
少し驚いて、楓花ちゃんを見上げる。

「・・・楓花ちゃん?」
「そらちゃん・・・私、酷いことしたよね・・・もっと、力になってあげてたら・・・」
「楓花ちゃ・・・!」

縋るようなに見つめる楓花ちゃんの瞳から、涙が零れる。
苦しいほどの痛みと同時に、締め付けられるほどの愛しさがこみあげる。
不意に、リビングのドアが開いた。

「楓花!」

飛び込んできた大きな影に、私は一瞬楓花ちゃんを庇うように手を広げ壁になった。

「史くん!」

楓花ちゃんのどこか嬉しそうな声で、私はまじまじとその人を見上げた。

「あ、史明さん・・・?」
「楓花!」

私を押しのけるようにして、史明さんはソファーに座ったままの楓花ちゃんを抱きしめた。

「ごめん、ごめんね。気づいてあげられなくて。」
「史くん・・・」

呆気にとられている私の腕を誰かが引き上げた。

「ちょっと二人きりにしてあげよう。」
「・・・くう!」

くうは椅子にかけたままだった私のコートを掴むと、玄関先へ向かった。
私はくうの顔とリビングの扉とを交互に見て「え?え??」と目を瞬かせた。
玄関で私にコートを着せたくうが、靴を履いて私に向かって手を伸ばす。

「史明君から電話もらったんだ。『楓花が行方不明』って。」

わけがわからないまま、それでもくうの手に指先を載せると、くうは嬉しそうににっこりと笑って私の手をぎゅっと握りしめた。

私たちは目の前にある公園へ夜の散歩に出かけた。
風は幾分おさまっていたけれど、寒さは変わらない。
だけどくうに握りしめられ、くうのポケットに一緒に入っている右手はとても温かかった。

「楓花、職場でうまくいってなかったみたいなんだ。入社したばっかりで妊娠だろう?史明くんも人気があったみたいで、まあはっきりいえばイジメられてたみたいだな。あと、向こうのお母さんに「仕事辞めなさい」って言われたのが堪えたみたいだな。」

くうはゆっくりとした足取りで歩きながら話した。
私はくうが私の歩幅に合わせてくれていることに気づき、くうに寄り添う。

「楓花ちゃん、お仕事続けたいって言ってたものね。」
「楓花、そんな話を史明君にはしてなかったらしいんだ。史明君は悪阻が酷くなってきてる楓花を見かねて『仕事辞める?』って訊ねたみたいでさ。そのまま出張で大阪に行って・・・・・でも、あいつ、家電は出ない、携帯は電源切ってて。連絡はとれないし、帰宅したら変な書き置き残して居なくなってて。・・・それで慌てて俺に電話してきたってわけ。」
「・・・楓花ちゃん、凄いね。」

真相がわかって、私は少しほっとしていた。
楓花ちゃんにとったら、本当に苦しくて辛かったんだろうけど。

「頑張りたかったんだね、楓花ちゃん。」
「・・・だろうけど、史明君も可哀想だよ。」

眉を顰めるくうの横顔に、だけど安堵しているのを感じて私は微笑む。

「妊娠中って、ちょっとしたことで不安になったりするから・・・・。」

私の言葉に、くうは立ち止って私の前に立った。
そして街灯の光を頼りに私の顔を覗き込んで、困ったような顔をした。
そのまま私の頬を両手で包みこむと、ゆっくりと顔が近づいてきた。
私は目を閉じる。
柔らかな唇が瞼に落ち、それから私の唇に降りてきた。

言葉にはしなくても、くうには伝わっている。

自分ではどうしようもなかった気持ちが、優しさで包まれていく。
悲しい気持も、何故か抱いてしまった焦燥感も。
心許なく揺れていた、私を包み込む。

くうの抱きしめる腕の力が、少しだけ強くなる。
そっと離された唇に、瞳をゆっくりと開けくうを見つめた。

「帰ろうか?」

くうの言葉に、私は「はい」と笑顔で答えた。

再び繋いだ手と手の間、私たちはそこに二人分の幸せを握りしめていた。
2009,2,3up

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