言葉にはしないけど。 ― くう視点 

3. Third sigh  

今年の春は風が冷たい。


3月中はとても暖かで、今年は4月になる前に構内の桜も満開になるかと思われた。
けれど舞い戻った寒波が一気に冬に巻き戻してしまったようで、冬用のコートを引っ張り出した。

いつになく冷え込む4月。
それでも、今年も新入生たちの周りだけは華やかで賑やかだ。
そこだけは間違いなく"春"が訪れている。

「松下ブラックでいいんだよな?」

テラスに出るのは躊躇われ、屋内から中庭の様子を見ていた俺に、野住が湯気の上がるカップを渡した。
ふわりと包まれた深い香り。
大学のカフェのコーヒーはなかなか美味い。

「ああ。悪いな」
「や、これ、もともとお前の金だし。」
「なんだよ」

向い側に座った野住は、テーブルに小銭を置くと「少し減ったけど、返しとくな?」 と妙に爽やかな笑顔を見せた。
いつも思うけれど、ちゃっかりしてる。
ショルダーバックを下ろして、野住も大きな窓から見える中庭の様子を見つめ「はあ」と大きな溜め息を吐いた。

「あ〜あ、俺もあの頃に戻りたいよ。なんてーの? あの"大学生だー"って浮足立った感覚っていうか。うらやましいよな〜。就職活動本腰いれなくちゃなんねー俺たちとは空気が違うもんな。」

前期の日程表をちらりと見て、野住はストローを使わずにグラスに直接口をつけた。
極度の猫舌な野住は、どんな寒い時でもアイスコーヒーを好んだ。
今日もそう。グラスの中でアイスキューブが見え隠れしてる。
見ているだけで寒くなる気がして、俺は視線を日程表に向けた。

「羨ましいよな〜?」

同意を求めるような言葉に、天井を見て考える。
どうだろう?
あの頃はそりゃ楽しかったけれど・・・戻りたいとは思わない。

「野住はあんまり変わらないと思うけど?」
「そうかぁ!? 落ち着いただろう、俺だって」

野住の言葉に肩を竦めながら、ふと目に留った文字を見つめた。
"小早川ゼミ"
不意に口元が緩む。
文字と同時に、ひとりの女の子を思い浮かべたからだ。

同じゼミの・・・鈍くさくて、人付き合いが上手いとはいえない、だけど何故か惹かれる後輩。

「なにニヤけてるの?」

可笑しそうに覗き込む野住に「なんだよ」と照れ隠しからぶっきらぼうに言い返した。
探るような視線に、思わず顔を背ける。

「なーんか、雰囲気変わったんだよな〜松下って。葉月と別れたくらいから?」
「変わってないだろ」

葉月とは昨年、冬学期の授業の履修科目を届け出た日に別れた。
10月の下旬だったから、もう5カ月も前のことだ。
「別れよう」と言った俺に、葉月はあっさり「いいわよ」と答えた。
樫月准教授に完全にのめり込んでいたのだから、当然と言えばそれまで。

お互いに未練もなければ執着もなかった。

葉月が他の誰かを見ていたように、俺の中に、今までの誰ともくらべられない存在が息づいていたから――。

「そうかなー。まぁ俺も、どこがどうってのは言えないんだけど。なんとなく、な?」

野住が言わんとしていることに、俺自身は思い当たることがある。

最初は苦手だったはず。
なるべくなら、関わり合いたくないと思っていた人。

どうしてか、彼女のことを思い出すと口元が緩んでしまう。

人知れずコケて赤面してたり、一人百面相してたりする。
人前に出ることを好まない、けれど人一倍周囲に気を配って。

いつの間にか、視線は彼女をいつも捉えるようになっていた。
そして、胸の奥がじわりと熱を持つ。
そんなこと、今までなかった。



「くう! 伸一!」

俺たち二人を呼ぶ声に、野住は勢いよく振り返り「おー」と返事をして手を振った。
聞きなれた声に視線を上げず、そのまま日程表を見つめる。
カツンカツンと規則正しいヒールの音が響き、それが近づいてくる。

「葉月凄いな、その本。全部資料?」

野住が立ち上がったので、俺は顔を上げた。
両手に分厚い本を抱えていた葉月に野住は手を差し伸べて、全部引き受けた。

「ありがとう」

にっこりと作り込まれた笑顔で礼を述べ、葉月は嬉しそうに野住の腕に軽く触れた。
長い髪を肩までばっさりと切った葉月は、以前より大人っぽく見える。
「久しぶりね。」と呟いた彼女は、椅子を引いて俺の隣に座り「ここ、いいかしら? 」と挑戦的な笑みを浮かべた。

「・・・・・・って、もう座ってるだろう? 」

相変わらずのマイペースぶりに肩を竦める。
野住がテーブルの上に葉月の抱えていた本を下ろす。
葉月は「腕が痛い」とぼやくと、まだ口をつけていないコーヒーを指さし「一口いい? 」と訊ねた。
俺は無言で葉月の前に押しやった。

「やるよ」
「あら、優しいのね。だからくうって好きなのよね。」

おどけた口調で言いながら、葉月はウィンクして笑った。
瞳が妖しく揺らめいている。

(ああ、そうか。)

葉月が准教授と切れたというのは本当のことだったのか。

もともとそんなに束縛し合っていたわけでもないけれど、俺たちは別れたからと言って特別距離を置くということはしなかった。
いや、そうしようとしても、葉月は"別れても友達でしょ!? "とスタンスを変えなかった。
体の関係がなくなり、彼女の我儘に振り回されることが少なくなった、というくらいだ。
それでも、年が明けてからは、ほとんど接触なく過ごしてきた。
日々大きくなる存在に、彼女以外を受け付けなくなってきている気がしてた。

「工学部はどう? 一回生。」

再び向い側に座った野住が訊ねると、葉月は「そうね」と少し考えて「やりたいことの為とはいえ、また一回生ってのはちょっとツライわね」と苦笑した。

「みんな年下だしね。私なんておばさんだもの。」
「おいおい、それじゃあ俺たちだっておじさんってこと!?」
「そういうことね」

俺は先ほど野住が目の前に置いた小銭を掴んで立ち上がり「コーヒー買ってくる」と野住に声をかける。
「あら、一口でいいのに」とカップを掲げながら驚く葉月を片手で制して「いや、いい」と呟いて背を向けた。
「ありがとう」と明るい声が背中にかけられる。
振り返らなくても、葉月の機嫌がいいことがわかる。
じっと見つめられていることも、そこに葉月のある想いがあらわれていることも。
だからこそ、俺は振り返らずにそのままカウンターに向かって歩いた。

葉月がやり直したがってる、と聞いたのは、3月中だ。
まさか本気だとは思っていなかった。
プライドの高い葉月が、別れを切り出した俺に未練なんてないはずだ。
しかし、どうやら本気らしい。
あの獲物を狙うような目は、よく知っているものだから。
ああなった時の葉月は、性質が悪い。

うんざりした気持ちになって、盛大な溜め息を吐き出すと、視線の先、カウンター前でポットを差し出してここで見かけるのは珍しい人物を見つけた。

「あ、あのコーヒーをこのポットにお願いします。」

カウンターに突然置かれたポットに、新顔の店員が目を白黒させている。
対応に困った様子でおろおろしている店員を前に、ポットを差し出した人物の方がおろおろしている。

「あの、これを持っていけば、その、ちゃんと入れてくださるって、その、教授が・・・」

篤おじさんだ。
彼もここのコーヒーがお気に入りで、ポット持参で買いにくるのだ。
今日は何か用事ができたのか、それとも、また鵜沢女史に見張られているのだろうか。
いつもなら、心得ている店員が笑顔で応対してくれるのだけれど、今日は生憎事情を知らない新顔だ。
彼女・・・伊藤は途方にくれたような顔で「駄目、でしょうか?」と店員に訊ねている。
こんな事態は聞いていなかったのだろう。
いつだって、彼女はもう一言が足りない。
「ポットに、ですか?」 と俺たちと年はそう変わらない新顔の店員は、不審そうな目つきで彼女を見ている。

俺は見てられなくなって、テーブルを拭いていたおばさんに声をかける。
この人なら、あのポットを見ただけで小早川教授のお使いだってわかるだろう。

「ああ、いいのよ。はいはい。教授ったら、自分で来なかったのねぇ。」

カウンターでおどおどしていた二人ともに声をかけ、おばさんは内側に入って笑いながら言った。

「あのね、このポットを持ってきたら、それは文学部の小早川先生のだから、コーヒーを入れてやればいいのよ。ああ、お代はいいのよ。先生には一カ月分まとめて請求することにしてるから。はい、それじゃぁ、お願いね?」

握りしめた財布からお金を取り出そうとしていた彼女は、店員さんの言葉に緊張していた顔をほっとしたように緩め「ありがとうございます」と頭を下げ、財布を仕舞ってポットを両手で受け取った。

その姿に、俺までほっとする。
教授から頼まれて、だけどお金も預かってなくて、あれは自腹切るつもりだったんだろう。

「お礼ならね、彼に言いなさい。困ってるって知らせてくれたのは、彼だから」

おばさんが笑って指し示した俺を振り返り、伊藤さんは驚いた顔で駆け寄った。

「あ、あの、先輩、ありがとうございます。」

彼女は少々緊張した面持ちで俺の前に立ち止まると、おばさんに促されたように、律儀に頭を下げた。
教授に頼まれたから、というわけではないけれど、発表する時や自分の考えを述べる場面になると臆してしまう彼女に何度かアドバイスをした。
最初は怯えたような表情を見せていたけれど(それは俺がまだ苦手意識で遠ざけようとしていたせいもあったのだけど)、今では強張りながらも笑顔を見せてくれるようにはなっていた。
そんなことが、俺の胸を弾ませるなんて、思ってもみなかったのだけれど。

「教授、どうしたの?いつも自分で来るのに。」

俺が訊ねると、彼女は気の毒そうに肩を竦め「鵜沢さんに"今日中に報告書終わらせてください"って捕まってるんです。」と答えた。

「それはそれは。」
「お借りしていた資料を返しに行ったら、どうしてもコーヒーが飲みたい! って仰って。ポットを渡されたんです。あ、もう行かなくちゃ・・・!」
それじゃあ、ともう一度頭を下げた彼女は、一番の近道になるカフェテラスのドアを開けた。中庭に出て、突っ切っていくつもりだろう。
だけど、新入生の勧誘で盛り上がるあそこは、彼女じゃ通り抜けることは難しそうだ。

「待って、伊藤!」

名前を呼ばれ、急に立ち止まった彼女がきょとんとした顔で振り向く。
本当に、こんな一瞬の表情がたまらなく可愛らしい。
名前を呼ばれるなんて、思ってもみなかった、という顔だ。
俺は彼女に歩み寄って、今まさに外に出ようとしていたドアを閉めた。
吹き込んだ風で乱れた髪を顔から払うと、真っ赤になる。

「あ、あの? 私、また何か・・・?」
「いや。中庭は通り抜けられないよ、ほら。」

ガラス越しに指さした方向には、ごった返す人の壁ができている。

「新入生の勧誘。時間の無駄になるから、あそこに行ったら。」
「はわっ…! 本当だ・・・!」

ぎょっとした顔でその光景を見た後、彼女は俺を見上げ「本当に、何度も、その、ありがとうございます」とふにゃっとした笑顔を見せた。
そうそう見ることができない、緊張の解けた顔。
本当に心を許した瞬間だけだと、最近気付いた。
だから、胸が高鳴る。口元が緩む。

ポットを抱え直してぺこりと頭を下げ、廊下に向かう彼女の後ろ姿に背を向け、俺もコーヒーを注文して席に戻った。
いつの間にか人口密度が3倍に増えていた。
顔ぶれは全員小早川ゼミのメンバーだ。葉月を除いて。
話題の中心も葉月だろう。

俺はとなりのテーブルにカップを置き、椅子をひいて座ろうとした。
すると「くうは、ここでしょう?」と葉月が立ち上がる。
見れば、俺が座っていた席はしっかり開けられていて、仲間たちも当たり前とばかりに俺の背を押して葉月の隣に促した。
別れたことを知らない人間はいないはずだったけれど、そんなことを気にしている素振りのない葉月に、俺もそうなのだと思っているのだろう。
"相変わらず、仲がいい"と。

葉月の隣に座ると、それまで一旦中断していた会話が再開した。

「そうよ、葉月『私が次の新歓コンパの幹事やる』って言ってたじゃない? どうするの? 工学部行っちゃってさ〜。」
「新歓コンパに一押しの店があるって言ってたじゃない?」
「あーそうだったわね、ごめんね。もう今からじゃあのお店は予約取れないと思うから・・・」
「葉月が編入するってわかってたのに、まかせきりにしてたからなあ。」
「じゃあだれが幹事やるよ!?」
「そうだねえ」
「たいした人数じゃないし、大丈夫でしょ?」

言って、葉月はにっこりと笑った。

「そうね、2回生の伊藤さん、幹事にしたらいいんじゃない? 彼女全然誘っても参加しないし。」
「さっきの子でしょ? 大丈夫?」
「大丈夫でしょう。子どもじゃないんだし。むしろ、誰かに話しかけるいい機会になるんじゃないかしら? そうすれば、彼女もきっとみんなにうちとけると思うのよ?」

野住は何か言いたそうに俺を見て、肩を竦めた。
仲間たちは葉月とは対照的な性格の彼女に、それがどれくらい苦痛になるかなんて想像できないでいる。
いや、冷静に考えればちゃんとわかってくれるだろうけれど、葉月の提案がさも彼女に必要なプロセスのように言われて、すっかりそう思い込んでいる。

「いや、それなら俺が」

そう言いかけて「駄目よ」と葉月がけらけらと笑う。

「せっかく伊藤さんがみんなと仲良くなるチャンスよ?」
「そうよう。松下君だって、彼女のこと気にかけてやってるでしょう? あれじゃあ本人が成長しないわ。」

――葉月には・・・周りに作用する目に見えない力がある。
それを今までは苦笑交じりで見ていたけれど。
今日は恐ろしさすら感じた。

心が和む彼女とは、対極の、存在。



「私、あの子苦手だわ。」

みんなの話題は違うところに移り、いつの間にか話題の中心から退いた葉月が、俺の耳元で囁くように言った。
聞き間違い、ではないだろう。
それでも聞き返さずにはいられなかった。

「葉月、何を?」
「あの子。伊藤さん? 私、ああいうタイプが大嫌い。」
「だからって・・・」
「あら、さっき言ったのは本心だもの。悪気なんてないわ。」

葉月はそう言って立ち上がると、資料の山をかき集めた。
野住が半分持って一緒に立ち上がり「手伝ってやるよ」と葉月に微笑んだ。

「えーもういっちゃうの!?」
「ええ。それじゃあ先輩方。またね。」
「先輩って!」

軽口を叩く葉月の強気な表情が、一瞬寂しそうに揺れた。
しかし、すぐに表情を元に戻すと、葉月は野住に何か声をかけて歩き出した。
艶然とした笑みを浮かべて。


3度目の溜め息は、急に押し付けられる幹事に戸惑う彼女を思って吐き出した。


この時発した彼女の言葉が、俺たちを結びつけることになるなんて、葉月でも気付かなかっただろう。






2009、11,8up

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