イオ ( Chapter3)10
「シードラゴン!!!」


イオがカノンの腕に飛びつく。
「僕もね、僕も早く来たかったよ!シードラゴンに、早く逢いたかったよ…!」
顔一杯の笑顔で、堰を切ったように訴える。
「ここ、僕の家だよね。僕、ずっとここに居るんだよね?シードラゴンとカーサと、ずっと
一緒にいるんだよね?」
興奮を抑えきれないように何度も尋ねる。頬を紅潮させて問う子供を、カノンが両手で
ひょいと抱き上げる。
「そうだ。だから、もっと自覚を持たぬか。何時までもベソベソと泣いている場合では無い。
何度も言ったが、お前には己の柱を護ると言う、大事な使命があるのだぞ。」
秀でた額を触れんばかりに近づけ、低い声で懇々と言い聞かせる。
「うん!僕、セイントなんかに負けないよ!」
イオが力んで言う。
「ほう。言うではないか。」
勇ましい言葉に、カノンが面白そうに唇を緩める。
「今の今までメソメソ泣いていた餓鬼の台詞とは思えんな。聖闘士共は強い。貴様に、
彼奴らを倒せるか?」
からかうような挑発に、イオが身を乗り出して答える。
「大丈夫だよ!僕、諦めないから!ここは僕とカーサとシードラゴンの家でしょう?僕、絶対
ここを守るよ!」
小さな拳を握り締めて叫ぶ。
「絶対、諦めない!何度倒されても、僕は僕の柱を護るよ…!!」

諦めない、と叫んだ途端、イオの身体から虹色の小宇宙が溢れだす。七色にほとばしる光に、
海将軍筆頭シードラゴンがニッと精悍な頬を緩めて高らかに言う。
「それでこそ、六つの聖獣をその身に纏う海将軍スキュラよな…!」




何度、倒されても。




ああ。

そうだ。こいつは、スキュラなんだった。


七色の小宇宙に包まれるイオを見ながら、カーサが思う。
六つの獣をその身に宿す海の魔物。六つの命を、力に変えて挑む者。


何度倒されても、立ち上がる。
何度、希望を打ち壊されても。何度、絶望の淵に立たされても。
差しのべられた手を信じて、立ち上がる。今度こそは、と立ち上がる。
希望と、絶望と、再生と。
諦めること無く、立ち上がる。




いつか。



カーサが色の薄い瞳でイオの姿を眺める。
いつか、こいつは本当にそうするんじゃないか。
スキュラの鱗衣に宿る六つの聖獣。その全てを使って、聖闘士に挑むんじゃないか。
何度倒されても諦めず、六つの命を力に変えて闘うんじゃないか。
自分の柱を守る為に。
己の命すら使い果たし、南太平洋の柱を守ろうとするんじゃないか。




ぼんやりと未来に思いを馳せるカーサの前で、それにしても、とカノンがふいに思い出した
様に不機嫌に切りだす。
「カーサといい、お前といい、何故突然『ここに居たい』と言いだすのだ。俺がいつ、
貴様等に「出て行け」などと言った。俺の話をどう聞いていれば、そんな話になるのだ。」
特に貴様、とカノンがカーサをギロリと睨む。
「何を口止めしてるかと思えば。貴様に至っては、これで二度目ではないか。お前まで
イオにつられてどうする。」
蒼い瞳が剣呑に光る。
「…それとも、貴様がイオを焚きつけたのか?」


「と、とんでもねぇよ…!!」
ブンブン首を振って否定した。
「んな事、ぜんっぜん言ってねぇよ!こいつが勝手に…!」
慌てて弁解しても、口止めしかけた事実は変わらない。つまりは、自分も疑っていたと言う
事だ。此処にいろ、というシードラゴンの言葉を、心底からは信じていなかったと言う事だ。
必死で言い訳しつつ思った。
ほんと、何でシードラゴンにゃ嘘がつけねぇんだ。
今回のなんか、俺自身でも、嘘ついてるって分からなかったのに。


きっと、心の底じゃ疑ってた。
此処に居ろって言われたって、シードラゴン自身の気持ちは分からねぇって。
ただ海将軍筆頭の義務感で、そう言ってるだけじゃねぇかって。
シードラゴン自身は、俺達みてぇな餓鬼、ほんとは迷惑なんだろうって。
どっかで、そう不安に思ってた。


だから、イオに確かめられたく無かった。
イオを庇う振りをして、ほんとはイオと一緒に傷付くのが怖かった。
俺達は二人とも迷惑だって。はっきりそう言われちまうのが嫌だった。
イオと同じ不安を抱えてるくせに、それを認めようとしなかった。
確かめねぇのはイオの為だって。俺が不安だからじゃねぇって。
そう、自分に嘘をついていた。



「そうだよー。とんでもねぇよー」
とんでもねぇ、という言葉の響きが面白かったらしく、イオがとんでもねぇ、とんでもねぇ、
とはしゃいでカノンに訴える。
「シードラゴン、とんでもねぇよー!」
カーサの声を真似ながら、小さな手を大袈裟に広げる。そして、シードラゴンの肩に
しがみ付いて弾けるように笑う。
「ちょ、もうお前黙れって!」
カーサが顔を赤らめてイオに飛びかかる。
「いい加減にしろ貴様等。」
カノンがうんざりしたように言う。
「また始めるつもりか。カーサ。貴様を此処に呼んだのは、貴様等の下らん喧嘩の仲裁を
する為では無い。お前に海将軍としての仕事を与える為だ。分かったら、さっさとこっちへ来い。」
イオを腕から降ろし、ぶっきらぼうにカーサに言い放つ。
「…へーい。」
カーサが肩を竦めて返事をする。
「僕もー」
イオがすかさずカノンの腕をひっぱって強請る。
「貴様は図書室で勉強していろ。元々、今はその時間のはずではないか。」
「ええー」
「サボったくせに不平とはいい度胸だ。もしカーサが戻る迄に書き取りが終わってなかったら、この俺が訓練場で貴様を血反吐を吐くまでしごいてくれるわ。覚悟しておけ。」
カノンが地を這う様な低音で言う。うわぁ、と悲鳴を上げてイオが脱兎のごとく走り出す。
見る間にカノンから走り去る後ろ姿を、カーサが感嘆の思いで見詰める。
片時もシードラゴンから離れまいと、不安に怯えていた子供はもういない。
海の様に深い蒼い眼をした男が、子供の不安をあっと言う間に拭い去った。



かなわねぇなぁ、と思った。
この人には敵わねぇ。しみじみ思った。
「…シードラゴン、ちょっといいか?」
敵わないついでに、自分もイオと同じ言葉を言って貰いたくなった。イオ程では無いが、
自分の地上での生活だって、決して楽しいものでは無かった。もし来れるなら、自分だって
一刻も早く此処に来たかった。
「何だ。早く言え。」
忙しげに机に向かいながらカノンが言う。
「シードラゴン、イオに最初から居たら良かったって、言っただろ?」
「ああ。」
「…俺は?俺も、最初からいたら良かったかな?」
脇目もふらず机上に海図を広げるカノンに、少しだけ胸を高鳴らせて尋ねた。


「そうは思わぬ。お前はイオとは違う。」
カノンが海図に目を落したまま、あっさり答える。
「幼子を殴るしか能の無い屑共の元に居るくらいなら、早く俺の元に来れば良い。そんな
屑共の所に居て何になる。失いこそすれ、得るものは何も無い。留まるだけ、時間の無駄だ。」
細かな数字を目で追いながら言い捨てると、端正な顔を机上からすいと上げる。長い指で
青い海図を指し示し、まっすぐにカーサを見詰めて言う。


「今から話すのは、お前が以前言っていた沈没船の財宝の話だ。お前は地上で学んだ事が、
役立っているではないか。お前はイオとは違う。お前はこの十年で世間の様々な事を見、
様々な事を学んでいる。そして、それを今俺に伝えてくれる。」


言いながら、凛と切れ上がった眼でカーサの瞳を深く覗き込む。
貴石のような蒼い瞳を瞬かせ、子供の様に率直な口調で言う。
「俺にとっても、お前にとっても、お前の十年は無駄では無かった。そうではないか?」






ほんと。

ほんと、あんたには敵わねぇよ。

細面の顔を伏せて、カーサが思う。
やな事ばっかだと、思ってたけど。
こんな屑みてぇな毎日、どうしようもねぇって、思ってたけど。


だけど、あんたは無駄じゃ無かったって、言ってくれるんだね。


騙したり、騙されたり。なにやったって、所詮親の無ぇ浮浪児のやる事だって、
腹の底じゃ皆に軽蔑されて。明日のパンの為に、いつも次の嘘を考えて。
毎日毎日、考える事はそればっかで。

眼の奥がじわりと熱くなる。
だけど、あんたは、無駄じゃ無かったって言ってくれるんだね。
眼の前の男に見られない様に、顔を伏せたままこっそり眼を拭った。
どんな時も、決して無駄じゃなかったって。
どんな時も、俺には生きる価値があったんだって、言ってくれるんだね。



「分かったら始めるぞ。まずこれを見ろ。」
頭を垂れたまのカーサに構わず、カノンが何時もの尊大な口調でさっさと話を打ち切る。
「この船は、おそらく十七世紀のスペイン商船で…」
今迄の事など、既に忘れ去ったかの様にどんどん説明を始めていく。余りにすっぱりとした
態度に、思わず笑いが漏れてきた。この人はいつも、前しか見てねぇ。きっともう、さっき迄の
事なんか気にも留めてねぇに違いねぇ。
今頃必死で単語の書き取りをしてるだろうイオの姿を思い浮かべ、細く吊った眼を一層
細めて苦笑した。
ほんと、あんたには敵わねぇよ。






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