イオ ( Chapter3)9
イオの頬がさっと強張る。大きく眼を見開いた顔が、みるみると蒼褪めていく。その小さな
身体の前に片膝をつき、自分の視線をピタリと合わせた。
サファイヤの様な瞳を凛と見開き、朗々と響く声できっぱりと言う。



「お前、何故もっと早く来なかったのだ。」




「え…」

イオが呆然と呟く。
「何故、もっと早く来なかったのだ。あのような死体同然の姿になる前に、何故もっと早く俺の
元へ来なかった。御蔭で、余計な手間が掛ったではないか。」
イオの眼を覗き込んだまま、カノンが憤然と言いきる。
「何をぐずぐずしていたのだ。ただ殴られているだけでは、何の修練にもならぬわ。貴様は、
この海界の海将軍なのだぞ。とっとと海に飛び込めば良かったのだ。それなら、もっと早く修行を
始められたではないか。」
地上の聖闘士共は、お前よりずっと早く修行を始めているのだぞ、と睨みつける様に言う。


「…だっ、だって無理だよ!僕、海に行けばいいなんて知らなかったもん。それに、外に
出るなってお父さん達が…!」
イオが慌てて口を開く。
「そうとも。お前の両親は全くロクな事をせぬ。早々と俺の元へ寄こすならまだしも、
あれほど衰弱するまで手元に隠して置くとは。全く、何処までも俺の邪魔をする奴等よ。」
カノンが忌々しげに頷いて立ち上がる。
「今ここに貴様の両親がいたら、即この手で制裁を加えてくれるわ…!」
巨大な岩をも砕く手で、固く拳を握り締めて吐き捨てる。そして、豊かな蒼色の髪を翻して
地上を睨み、憤懣やるかたない、という口調で言う。


「もし俺が知っていたなら、すぐさま貴様を奪いに行ったものを…!!」



悔しげに地上を仰ぐカノンに、イオが夕焼け色の瞳をパチパチと瞬かせる。
「…シードラゴン、僕が中々来なかったから、怒ってるの?」
カノンの顔を見上げながら、おずおずと、確かめる様に問いかける。
「当然だ。お前、どれほど自分が遅れをとっているか分かっているのか。」
カノンがムッとした顔で答える。
「僕、もっと早く来た方が良かった?」
「当たり前だ。さっきからそう言っているだろう。」
カノンが力強く即答する。蒼褪めていたイオの頬が、どんどん赤く染まっていく。
「シードラゴン!」
さっきまでと全然違う、大きな声で呼び掛ける。
「何だ。」
「いつから?僕、いつから此処にいたら良かった?」
勢い良くカノンの腕を掴み、大きな瞳を一心に輝かせて尋ねる。



いつから?


カノンが長い睫毛を瞬かせる。
いつから、この餓鬼がいれば良かっただろう。
自分がこの海界にやって来たのは二年半前だ。カーサが来るまでの約二年間、ずっと一人で
暮らしていた。
星も見えぬ漆黒の夜も、獣の咆哮のように荒れ狂う波の夜も、ただ一人で此処に居た。


辛くなど無かった。
そんな日はむしろ、血が滾った。
禍々しい闇に一人全身を包まれる度、サガへの憎しみはいや増した。黒い波が無人の神殿に
容赦なく襲いかかる度、復讐の炎は轟々と身の内に燃え上がった。
俺をこのような境遇に陥れたサガと聖域を、決して許すまい。今に見ていろ。貴様等に
投げ捨てられたこの俺が、地上と海界の全てを手に入れてやる。この俺の足元に、貴様等を
跪かせてみせる。
粗末な毛布に包まりながら、吠える様に思った。憎悪の感情は、後から後から湧き出る様に
溢れてきた。滾る様なその怒りを、抑え付けるのに苦労する程だった。


けれど、そんな日ばかりでは無かった。


カノンが切れ長の眼を伏せる。
そんな日ばかりでは無かった。自然はただ、過酷で恐ろしいだけでは無かった。
時に、その壮大な美しさを惜しげも無く見せる日もあった。
月夜の晩、一斉に産卵する珊瑚の卵。月明かりの中、大量の乳白色の粒が揺れながら
夜の海を彷徨う様は、言葉を失う程幻想的だった。


そうした美しい景色を見ると、何故か打ちのめされた気分になった。
普段は怒りに押し隠された感情が、胸に湧き上がってくる気がした。
自然はこれ程に美しい。けれど、この美しい光景を見詰める者は俺しかいない。
ここに居るのは俺一人。
たった一人、全てを分かち合おうと誘った兄は、俺を憎み捨て去った。



眼の前の光景が美しければ美しい程、己の孤独を付きつけられる気がした。
これ程美しい必要は無い。この光景は俺しか見ないのに。悪の心しか持たぬこの俺に、
こんな光景を見せて何とする。
早くこの時が過ぎればいい。悪の道を進む俺に相応しい、荒れた景色になればいい。
次に珊瑚の舞う晩は、決して空を見上げまい。
深く眼を閉じ、広がる珊瑚の粒から眼を反らした。強く拳を握り締め、胸を締め上げる痛みを
ねじ伏せた。



だが、あの時、もしこの餓鬼がいたら。



自分の手首を掴むイオの手を、カノンがじっと見詰める。
もし、この餓鬼があの時いたら。
この赤い髪の子供を呼び寄せ、ほら、と月夜に舞う珊瑚の卵を見せたら。
その幼い身体を胸に抱きあげ、綺麗だろう、と白く輝く光の粒を指差したら。
それに、わぁ、と小さな手を叩いてイオが喜んだら。橙色の眼を輝かせ、綺麗だねぇ、
凄いねぇと、無邪気な声ではしゃいだら。
そうしたら、あの景色は全く違って見えたのではないか。
俺は笑って、あの景色を見上げたのではないか。



仮定の話など、意味は無い。
過去は誰にも変えられぬ。あの晩、イオは此処に居なかった。
イオが地上で二年間、笑う事も、喜ぶ事も許されなかった事も。
俺が海底で二年間、月夜の晩は顔を上げずにいた事も。
その過去が、今更変わる事は無い。


だが、もし答えるとするなら。


軽く腕を振ってイオの手を振り解いた。
少しだけ不安げな顔に戻る子供の前で、何時もと同じように昂然と胸を張る。
玲瓏と響くその声で、夕焼け色の子供にはっきりと宣言する。


「初めから、俺が海界にあったその日から、貴様も居れば良かったのだ。」















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