そんな事を考えながら、カノンが今日も執務室で兵達の訓練計画を推敲する。 ここ最近、雑兵海闘士の増加が著しい。 海柱が呼ぶのではないか、と思った。カーサの時もそうだった。海将軍が復活する度、 それに釣られるように雑兵が纏まって復活するのだ。 海闘士が増えれば増えるほど、己の野望が実現に近づくようで嬉しくなる。 が、反面、やらねばならぬ仕事も倍増した。 既に完成されたシステムを持つ聖域と違い、長い間無人の廃墟だった海界は、己が先頭立って 一から組織を作り上げねばならなかった 古代の文献を漁ってそれらしい祭事を執り行い、兵の訓練を指示し、カーサに修行をつける。 同時に、彼らを養う資金も調達する。 それを、先日17歳を迎えたばかりの自分が、一人で指揮しなければならないのだった。 学ぶ事は山ほどあり、やるべき事はもっとある。 幾ら時間があっても足りない。夢中になって計画書を作成していると、カーサがひょこりと部屋に 入ってきた。遠慮がちな声で、カノンに問いかける。 「シードラゴン、もう昼飯の時間なんだけど…」 カノンがああ、と顔を上げる。 「先に食え。俺は後で取る。」 「…え、でも…」 あいつは?とカーサが戸惑ったように尋ねる。 「貴様が居れば良かろう。大体、あれはもう、そろそろ一人で食事を取っても良い頃だ。」 ペンを動かしながら、カノンが半ば上の空で答える。 背後から、尚もカーサの躊躇う気配がする。が、カノンが振り向かずにいると、やがて その気配は消えていった。 もう、こんな時間か。 カノンが傍らの置時計を見て思う。 短針が示す時間は、もう夕刻近い。結局、昼飯を食いそびれたな、とぼんやり思った。 そう言えば、小僧共はあれから二人で昼飯を食ったのだろうか。 ようやく纏まった計画書の束を、掌でトントンと揃えながら考える。 と、その手がふいに止まった。 誰だ? 蒼い瞳が氷のような光を帯びる。 痺れるような恐怖。それが、脳内に直接流れ込んでくる。身を翻して立ち上がった。小宇宙。 荒削りだが、これは誰かの小宇宙だ。 海竜の鱗衣が装着を呼びかけている。誰かが自分を支配しようと?違う。誰かを支配出来る ような冷静さは、全く無い。この力は滅茶苦茶だ。理性も計算も無い。ただ闇雲に、自身の 恐怖を撒き散らしている。 だが、何という強力な。 注がれる思念の激しさに、脳のあちこちに火花が散る。 思わず頭を抑えた。これは、ただ者ではない。ただの闘士では、この強力な小宇宙は あり得ない。それでは誰だ。結界が破られた気配は無い。そもそも、聖域や冥界には、まだ ここの存在は知られてないはずだ。 第一、この小宇宙に敵意は無い。あるのはただ、パニックに近い恐怖だ。 切れ上がった蒼い眼が、探るように細められる。 敵で無いとすれば、海界か。ここで自分に次ぐ規模の小宇宙を持つのはカーサだが、この 小宇宙はカーサのものではない。だとすると。 マントを翻して出口に向かった。途端、扉が勢い良く開いた。扉の向こうから、リュムナデス のカーサが青白い顔を一層青く強張らせながら叫ぶ。 「シードラゴン!!あいつが居ねぇ!あいつのベッドが、空っぽなんだ!!」 一体誰が、と騒ぐカーサの眼前に、カノンが節の長い掌をピタリと突き出す。 「騒ぐな。海界の結界は破られてはおらぬ。ならば、あやつは自分で部屋を出て行ったのだ。」 「…でも、あいつの脚…!」 カーサがもどかしげに訴える。カノンが判ってる、と言う風に頷く。そうだ。そんな事は あり得ない。 最初の診断で、分かったのだ。 子供の大腿骨は両方とも無残に砕けていた。カノンが己の小宇宙を注ぎ込む事で、やっと 骨を繋ぎ直したのだ。 骨が接合するまでは、動いてはならない。いや、動けるはずがない、と医務官に断言 されていた。 だから、子供が自力で部屋を出ていくなど、出来るはずがない。 それでも、出て行ったのだ。 その上、パニックを起こしている。何処かで、遠く離れた自分の脳を震わす程の、激しい 恐怖に襲われている。今下手に動けば、一生、己の脚が使い物に無らなくなるかもしれぬと 言うのに。 チッ、と舌打ちしてカーサに尋ねた。 「カーサ。スキュラの小宇宙を感じるか?」 「?いや。感じねぇ。シードラゴンは感じるのか?」 カーサが不思議そうに尋ね返す。益々舌打ちしたくなった。それでは、この小宇宙は「俺」 に向けられた物という事だ。部屋に戻る事もせず、ただこの俺に恐怖を訴えている。 「しかし、一体何故…」 形のいい眉を顰めて呟くと、カーサがサッと顔を上げた。 「多分、俺が言ったせいだ。昼飯の時、俺、あいつに言ったんだ。『シードラゴンは来ねぇ ってさ。俺らだけで食えってよ。』って。」 猫背ぎみの背を乗り出して説明する。 「だけどあいつ、やっぱり飯食わなくて。だから、『なぁ、シードラゴンもう来ねぇよ』って また言ったんだ。それから俺、訓練に出ちまって。…でもきっと、あいつずっと待って たんだ。そんでも、あんたが来ねぇから。だから、俺の言った事、本当なんじゃねぇかって。」 骨ばった手がぎゅっと握りしめられる。 「あんたがもう、来ねぇんじゃねぇかって。そう思って、あんた探しに行ったんだ。」 「俺を・・・?」 カノンが蒼い眼を瞬かせて聞き返す。 「そうだよ。シードラゴンを探しに行ったんだ。」 それで全て説明がつく、というようにカーサが頷く。まさか、と首を横に振った。 「俺が昼食に来なかったからだと?その程度の事で、あの脚で…」 「だって、全然違うじゃんか。」 カーサが強い声で遮る。 「全然違う。全然違うんだよ。」 「…カーサ?」 吊りあがった黒い瞳が、一瞬、子供とは思えない深い光を帯びる。カノンの瞳を真っ直ぐ 見詰め、腹の底から吐き出すような声で言う。 「あんたがいないんじゃ、全然違うんだ。」 「・・・・・そ、」 そんなことがあるものか。そう言い返すつもりが、何故か直ぐ言葉が出てこなかった。 自分の否定は、カーサの言葉を打ち消せない。それは、この言葉の方が強いからだ。 何故か、そう思った。 何だか悔しいような気持ちになった。 負けたのだ。こんな、年端もいかぬ餓鬼の言葉に。 自分の知らない何かを、カーサは知っている。その何かが、自分を口籠らせたのだ。 貴様は一体何を知っているのだ。そう詰め寄ろうとした瞬間、また激しい恐怖が脳を貫いた。 くそ、と白い額を抑えて思った。 今はこんな事をしている場合では無い。とにかく、あの餓鬼を見つけねば。 「探すぞ。」 一言言って部屋を出た。追ってくるカーサに、「貴様は右へ行け」と反対方向を指し示す。 了解、とすっかり何時もの口調に戻って駆けていく後姿を少しだけ見送り、神殿の左へと 進んで行った。 歩きながら、子供の小宇宙に「何処だ」と呼びかけた。 答えの代りに、恐怖がわんわんと脳内に反響する。忌々しく周囲を見渡した。駄目だ。 全く耳に入っておらぬ。一体何故、これほど恐れ戦いているのだ。 仕方ない。 手間はかかるが、この小宇宙を探っていくしかない。注意深く、力の集中する先を辿って いく他ない。 精神を集中させ、ぐるりと周囲を見渡す。ここか、と一歩踏み出した途端、子供の小宇宙が ぷつりと途絶えた。 ハッと天を仰いだ。その瞬間、また小宇宙が伝わってきた。強まったり弱まったりしながら、 激しく力が揺れ動いている。 まずい、と思った。 子供は小宇宙を保つ訓練など受けていない。多分、己が小宇宙を使っている自覚すらない。 呼び醒まされた力を、ただ闇雲に放出しているだけだ。このままでは、力を使い果たして しまう。既にこれだけのエネルギーを放出しているのだ。いつ力尽きても不思議は無い。 現に今、小宇宙が一瞬途切れた。 多分、あの餓鬼の体力はもう限界に近い。ぎり、と唇を噛んだ。早く、見つけださねば。 そうしてるうちにも、子供の小宇宙がみるみる弱まっていく。思わず宙を見上げた。 スキュラ!! 弾けるように小宇宙を迸らせて呼び掛けた。全身を反らし、体中から振り絞るように叫んだ。 止めるな!俺を呼べ!! 自分の声に、子供の小宇宙がビクリと揺れる。チャンスだ、と続けざまに思念を送った。 止めてはならぬ!!貴様の声を辿っていく!必ず貴様を見つけ出す!俺を、呼び続けろ!! 凛々と、海底神殿中に響くような声で叫ぶ。 諦めるな!決して、俺を呼ぶのを止めるな!!必ず行く!この俺が、必ず貴様の元へ行く!! 脳内から、子供の恐怖がスッと消えた。 無軌道に放たれる恐怖が、必死に自分を呼ぶ感情にみるみる取って代っていく。 その感情は、はっきりした方向性を持っていた。くっきりと、子供へと続く道を作っていた。 飛ぶようにその道を辿って行った。長い回廊を過ぎ、中庭を過ぎ、まさかと思った神殿の 入口をも過ぎ、巨大な海藻と珊瑚が群生する岩場へと、子供の小宇宙を追って入った。 重く揺れる濃緑の海藻を、引き千切るように掻き分ける。その瞬間、カノンの手がピタリと 止まった。 夕焼け色に瞬く瞳。 南太平洋の海将軍、スキュラが淡紅色の髪を揺らして其処に座り込んでいた。 「スキュ…」 呼び掛けた瞬間、紅色の瞳にぶわりと涙が浮かんだ。小さな頬がみるみる上気してくる。 子供が大きく息を吸い込む。力むように閉じられた赤い唇が、震えながら開いてく。 「うわああああああああああああん!」 くしゃくしゃに顔を歪め、子供が力いっぱい泣き出す。思わず手を差し出した。その腕に、 子供が齧りつくように縋りつく。引き寄せると、子供は簡単に胸の中に収まった。 うわああん、と泣きながら、子供が膝をつくカノンの胸に顔を埋める。 勝手に出歩くなど、見つけたら思い切り怒鳴りつけてくれる。 そう思っていたのに、子供の泣き声の迫力に押されて言葉が出てこない。呆気に取られた 様に、泣きじゃくる子供の背をさすり続けた。何故今日はこんなに小僧どもに押されて ばかりなのだ。ちょっと釈然としない気分で思った。 「・・・・この脚で、随分と遠くまで来たものだな。」 すっかり怒る気が削がれ、岩に擦り切れまくった包帯を眺めて呟いた。子供が一層大きな 声で泣き出す。 どうしていいか分からず、ままよ、とそのまま子供を抱き上げた。 「帰るぞ。」 小さな身体を片手に抱いて囁いた。子供がしゃくり上げながら「うん」と頷く。 行くぞ、と歩きかけ、はたと気付いて立ち止まった。 「貴様、喋れるようになったのか。」 あれほど大声で泣いていたと言うのに、大声過ぎて逆に気付かなかった。紅色の瞳に顔を 寄せて問い掛けると、子供がまた「うん」と頷く。 「さっきの大泣きで、声が出るようになったか。」 ニヤリと片頬を上げて尋ねると、子供がコトリと首を傾げた。 「えへへ」 涙に汚れた頬のまま、にぱりと自分を見上げて笑う。思わず自分も笑い返した。 別に、子供に笑って欲しいなどと思っていなかった。声を聞きたいとも、思っていなかった。 それなのに、何故俺は笑っているのだろうと思った。 色とりどりの珊瑚の森で、こんな風に子供と笑いあっているのだろうと思った。 子供は、「イオ」と自分の名を名乗った。 イオだよ。なまえは、イオ。 ベッドの上で、一心にカノンを見上げて繰り返す。 しっかりと質問に答え、もりもりと食事を取るイオに、医務官がこの調子なら、と初めて 希望めいた診断を下すようになった。 医務官の言葉通り、イオは日毎に活発になっていった。 最初にカノンの小宇宙の助けがあったとは言え、信じられない速度で脚の骨が回復していく。 医務官の話では、おそらく無意識に小宇宙を使っているのだろう、との事だった。 きっと、早く歩けるようになりたいのです。「歩けるようになる迄は、付いてきてはならぬ」 とシードラゴン様がリュムナデス様と訓練場に行ってしまわれるので、と可笑しそうに 解説する。 「ほぉ。それほど訓練に参加したいとは。中々自覚のある奴よ。」 満足げに腕組みして答えた。「あ、いえ、そういう意味では、」と慌てて否定しかけた医務官が、 「訓練のお時間です」と近付く兵隊長の姿に急いで口を閉じる。 「とにかく、頼むぞ。」 長身の身体を翻し、カノンが忙しげに話を終わらせる。はい、と頭を下げる医務官の声を 背に、蒼金の髪の男は足音高らかに部屋を出て行った。 |
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