イオ ( Chapter3) 5

疲れてるに決まっているではないか。


カノンが不機嫌に眉を顰めて思う。
「疲れねぇ?」とカーサに聞かれた時、もう少しでそう怒鳴り返しそうになった。
疲れてるに決まってる。この俺が今、どれほど忙しいと思っているのだ。
餓鬼の面倒など、見てる場合では無いわ。自分の膝の上で楽しげに絵本を広げる幼児を
憤然と見下ろす。
こやつめ、一体どこまで俺に手間を掛けさせるのだ。

やっと食事を食わせなくて済むと思ったら、今度は絵本だ。
何故、この俺が熊の子の冒険話など一緒に読まねばならぬ。第一、この熊は何だ。魚一匹
釣り上げるのに、何日かかっているのだ。獣のくせに、生意気に道具など使うからそんな
事になるのだ。竿など使わず、熊らしく手で獲れ馬鹿者が。

悪態をつきつつも、止める訳にはいかない。
海将軍の一人が文字も読めぬなど、バレれば雑兵共のいい笑い者だ。
ここは権威と伝統に守られた聖域では無い。「黄金聖闘士」というだけで、どんな餓鬼でも
尊敬される聖域とは違うのだ。
自らを、海闘士共の畏敬の対象にしてゆかねばならぬのだ

「幼児」という事実だけでも、相当の不安材料なのに、その上「文字も解せぬ」など、捨て
置ける訳が無い。
そんな話が広まれば、南太平洋の兵達の士気低下は如何ばかりか。
士気の低下は、即海界の弱体化に直結する。どれほど忙しかろうと、手を抜く訳にはいかぬ。
何とか兵達の前で恰好がつくまで、技と知識を教え込まねばならぬのだ。
やたらと腕にしがみ付いてくるなど、むしろ好都合だ、そのまま訓練場に連れていくのに
便利、くらいの感想しかない。


だが、この絵本タイムは。


溜息をつきながら、小さな桃色の頭を見下ろす。
この展開は誤算だった。
バネの利いた快適なベッド。自分の胸元にすっぽりと収まる、適度に柔らかく、温かい重み。
毎日、殆ど徹夜で海界拡大の計画を練っている自分の身体に、その温かさが睡魔となって、
どっと襲いかかって来るのだ。

正直、こちらの方がずっと堪える。
このカノン、餓鬼に腕を引っ張られる如き何とも思わぬ。が、この睡魔は…
つらつらと思うカノンの顎を、暖色の髪がふわりとくすぐる。いつの間にか落ちかけていた
瞼を、ハッと見開いた。
「…わあい、やっと、つれたぞ。ぼくが、つったんだ…」
胸元では、子供がたどたどしく文章を読み上げている。
「…むぅ。やっと釣れたか。」
何時の間に釣りあげたのだ。無理矢理眠気を追い払いながら言った。
「つれたねー、喜んでるよー」
浮かれ踊る小熊の絵を指差しながら、イオが澄んだ声で笑う。そして、一層熱心に絵本を
読みだす。
「…そうだ、だれかに、このさかなを、みせに、いこう。だれが、いいかな・・・」
途切れ途切れの読みぶりを聞いているうちに、また瞼が重くなっていった。
駄目だ。まだ、仕事が残っているではないか。
己の声が内側から叱咤する。
寝てはならぬ。執務室に残してきた仕事の山を、どうするつもりなのだ。
脳内の声が必死で訴える。が、子供の背中はいよいよ温かく、徹夜続きの自分の瞼を柔らかく
溶けさせていく。
「…このさかなを、みたら、きっと、みんなおどろくぞ…」
あどけない声が、次第に遠くなっていく。寝てはならぬ。そう自分に言い聞かせながらも、
身体はずるずると沈んでいった。




回廊を通り過ぎたカーサが、ずんずんと海将軍の居住スペースに入っていく。
そりゃあさ、あの人にとっちゃ、忘れちまう程度の事かもしんねぇよ。
歩きながら、さっきの不平を胸の中で不機嫌に繰り返す。
シードラゴンにとっちゃ、一日くれぇ忘れたって、どうでもいい話かもしんねぇよ。


だけど、俺はさ。


色の薄い唇がぐっと噛み締められる。
だけど、俺にはどうでも良くねぇし。全然、良くねぇし。
喚き出したい気持ちで思った。
シードラゴンの「おやすみのキス」が無ぇなんて、ぜってぇ嫌だ。


だって、これだけは譲れねぇ。
シードラゴンは何故か「子供は十歳までは「お休みのキス」が必要」って思いこんでて、
俺に初めて逢った時も、迷わずそれを実行した。
俺は街中から嫌われてた嘘つきの浮浪児で、それまで俺にそんな事する奴誰もいなかった。
そんな事が、俺に必要なんだって思う奴もいなかった。
シードラゴンだけが、俺を「十歳の子供」だって思ってくれた。
海の底で、誰にも知られず輝いていた宝石みたいに綺麗な男が。
初めて、俺にもキスが必要なんだって思ってくれた。


あの時から、その時間は俺にとって宝物だ。
大事そうに額に口付けられる度、夢見てるみてぇな気持ちになる。
静かに「おやすみ」と囁く声に、心臓がぎゅっと掴まれたみてぇになる。

その大切な時間を、うっかり忘れられちまうなんてありえねぇ。
しかも、あと半年もすれば十歳じゃ無くなっちまうってのに。
一日だって無駄になんかしたくねぇ。忘れられるなんて、絶対ぇ嫌だ。


だけど、やっぱ自分から「お休みのキスしてくれ」は恥ずかしいし。


それに、シードラゴンにも「それだけの為に来たのか?」って、呆れられちまうかも
しんねぇし。
イオの部屋の扉を開けつつ、脳内のプランを復習する。
えーと、「南氷洋軍の訓練について」だよな。出来るだけ「必要な用事」みてぇな顔で。
別に、お休みのキスが欲しいんじゃねぇけど、まあ、来たついでに、みてぇな。
そういう自然な感じを狙って。
うんうんと頷き、ひょいとベッドに顔を向ける。そして、言葉が出なくなった。


目当ての男は、イオを胸に抱きしめたまま眠っていた。
純白のシーツに惜しげも無く広がった蒼金の髪が、男の白皙の美貌を淡い光で
包み込んでいる。いつも彫像のように白く引き締まっている頬は、胸元の暖かな
子供の熱に、柔らかな薔薇色に上気していた。
瑠璃色の睫毛をしっとりと伏せ、薔薇色の頬で幼子と共に昏々と眠り続ける。
その姿は、まるで豪華で静謐な宗教画のようだった。



・・・・・・ちょっともう、マジかよ。


何だか膝から力が抜けそうになった。
なんかもう、同じ人間だって思うのが馬鹿馬鹿しくなるよな。何でこんな綺麗なんだ。
ハァ、と大きな溜息をついた。
つか、俺にこの状態のシードラゴンを起こせんのか。
こんな良く眠っててさぁ。やっぱ疲れてんだよなぁ。

…うー。
短い黒髪をガシガシと掻き毟った。でもさぁ、やっぱさぁ。ここまで来てよぉ。
細い眉を思い切りハの字に下げてシードラゴンの顔を覗き込む。
と、シードラゴンの眼がパチリと開いた。


心臓が飛び出すかと思った。
「・・・・・・・・?」
薄桃色に頬を染めたまま、カノンがぼんやりとカーサの顔を見上げる。無防備に見詰める
蒼い瞳に、用意していた言い訳が全部吹っ飛んだ。
「…や!俺、ちょっ…!あ、あんた来ねぇし!だ、だから、ち、ちょっと様子見に…!」
ああ畜生。何でシードラゴンの前じゃ嘘が上手くつけねぇんだ。来ねぇし、ってなんだよ。
いかにもシードラゴンを待ってました、って感じじゃねぇか。まず「南氷洋軍の」だろ。
何正直にゲロってんだ。なにやってんだよ俺。

「・・・・・・・・・」
へどもどするカーサを、カノンがまだ状況が理解きないように無言で見詰める。
「・・・・・ああ」
暫くの沈黙の後、そう小さく呟いてゆっくりと身体を起こす。
「シ、シードラゴン…」
「・・・・・・ん、」
呼び掛ける声に、吐息とも返事ともつかない小さな声を洩らす。無言でカーサの袖口を
ぎゅっと掴み、そのまま自分の方へと引き寄せる。カーサ、と助けを求めるように囁かれ、
慌てて半身を屈めると、シードラゴンはその長い腕を伸ばし、きゅうっと全身で抱きついて
きた。


寝ている者に特有の籠った熱が、全身にじかに伝わって来る。
「・・カ・・サ、・・・・」
いかにも眠そうに、耳元で切れ切れに自分の名を呟く。
「・・・も、今日は・・」
薄い瞼が、睫毛の重さにすら耐えられぬように伏せられていく。
「・・・寝かせ・・・・」
言いながら、最後の力を振り絞る様に、喉を反らして顔を上げる。薄桃色に上気した唇が、
外気に冷えた頬にそっと押し付けられる。

「・・おやすみ・・・」


言い終わると同時に、美貌の男がコトリと自分の肩に凭れかかる。
頭の中が真っ白になった。心臓がバクバクと脈打って、上手くものが考えられない。
と、シーツの上でイオがモソリと起き上がった。
眼の前の光景を見上げたまま、カノンの夜着の裾を掴んで、くい、と引っ張る。
「・・・・・ふ」
「ぼくも」
鮮やかな紅色の瞳を見開き、イオが小さな唇で強請る。
「・・・・・・・あ」
切れ長の眼が辛そうに開かれる。ずるりとカーサの肩から手を引き抜き、赤髪の子供の頬を
上から両手で包みこむ。
「・・・やすみ・・」
吐息のように囁きながら、眼を閉じて子供の額にそっと口付ける。尚も夜着の裾を引っ張る
イオに、一瞬だけ切なげに眉を寄せたかと思うと、蒼金の髪の男はそのままシーツに
崩れ落ちていった。


一歩も動けず、その光景を見詰め続けた。
何か強力な術を掛けられたように、身体が全く動かない。
固まるカーサの前で、イオがふっくらとした唇を開く。
「シードラゴン」
あどけない声で名を呼びながら、すっとカノンの方へ小さな身体を屈める。

ちゅっ。

柔らかい音を立て、カノンの頬に軽く口付ける。
「おやすみなさい」
高く澄んだ声で囁き、イオがくるりと後ろを振り返る。赤と橙の混じり合った大きな瞳で、
硬直するカーサを正面からじっと見詰める。
華奢な首を小さく傾げ、桜色の唇で誘う様に言う。


「やんないの?」













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