Casa ( Chapter2) 3
一体、何なのだこの餓鬼は。


蒼い眉を顰めてカノンが思う。何なのだ一体。この餓鬼は一体なんだ。
何故、こんなに無反応なのだ。
さっきから、自分の話に何一つ反応が無い。海界のことから海将軍の事まで、全部説明して
やってるというのに。
何を言っても、ただ無表情にこちらの顔を見続けてるだけだ。

何故、驚かないのだ。
突然こんな話を聞かされて、何故驚かん。何故質問せん。自分で言うのも何だが、
荒唐無稽過ぎる話ではないか。せめて、焦るくらいの反応はあって良いはずだ。
それとも、俺の話が理解できないのか。この餓鬼、まさか白痴か。

勘弁しろ、と子供の顔を見下ろし、いや、と胸の中で小さく否定する。
違うな。分っている。この眼がその証拠だ。俺が話を切る度、薄い瞼がまるで次の声を
待ち侘びるように小さく瞬く。
俺の話を、ちゃんと聞いている証拠だ。

大体、海界の一柱を預かる海将軍が白痴な訳がない。
それでは何だ。何故、何も喋ろうとせん。
探るように深々と顔を覗き込む。すると、子供が初めて身じろぎした。弾かれたように
ビクリと自分から視線を外し、そのままずりずりと尻だけで後ずさる。如何にも幼稚な
その仕草に、初めてこの子供を見た時の失望と怒りが改めて湧き上がって来た。


何で、貴様はそんなに子供なのだ!


見れば見る程、そう怒鳴りつけたくなる。
あわよくば、と思っていた。
先頃耳に入った聖域の噂。射手座の黄金聖闘士が反逆者として粛清され、同時に双子座の
黄金聖闘士が杳として行方不明になった。そして、それ以来教皇はスターヒルの奥深く
籠り、一向表に出ようとしない。
それを聞いた時は、大笑いしそうになった。
サガだ。
あの偽善者は、ついにその仮面を脱ぎ棄てたのか。神の権力を手に入れようと、神の代理人と友を手に掛けたのか。
兄が今眼の前にいたら、ほら見た事か、と指差して嘲ってやった事だろう。
だから手伝ってやろうと言ったのに、と皮肉な気持ちで思った。
が、今大事なのは其処では無い。
大事なのは、今なら黄金聖闘士が「弱い」と言う事だ。

黄金聖闘士の多くは、まだ子供だ。
如何に強大な小宇宙を秘めているとは言え、殆どがまだ十歳前後の未熟な少年達だ。
ある程度の実力と戦略があれば、容易に始末出来るだろう。
後は、兄と同年の射手座のアイオロスだけが厄介だと思っていた。
次期教皇の呼び声高い英雄の存在は、兄と並んで地上征服の最大の障害だった。
その障害が、今は無い。
ならば、まともな障害足り得るのは、兄のサガしかいない。

もし、海将軍達が自分と同じくらいの年齢で、それなりの即戦力として使えるなら。
それなら、勝算は十分にある。
黄金最強のサガといえど、たった一人で俺を含む複数の海将軍を相手には出来まい。
いつ来るとも知れぬポセイドンの目覚めを、気長に待つ必要は無い。
今、この時点で地上を我が物に出来るのだ。

それに、今カタを付けられるなら、海界の支配とて容易だ。
ポセイドンの壺はこのまま封印し直し、メインブレドウィナの中で再び永き眠りに
つかせて置く。そして、このカノンの傀儡として利用し続ければ良いのだ。
当に千載一隅の好機ではないか。
あわよくば、ここで一気に地上と海界を手に入れる事が出来るのだ。

南氷洋の柱がざわめき始めた時、期待に胸が一気に膨らんだ。
海将軍が、聖闘士共よりも大人であれば。少なくとも、自分と同じ程度の青年であれば。
それだけを祈るように念じ、わくわくと天上を見上げていた。


それが、この始末。


こめかみがビクビクと痙攣する。
聖域の餓鬼と大差無いではないか。これでは良くて相討ち、いや相討ちなどとんでもない。
向こうが既にある程度の修行を積んでいる事を思えば、立ち向かった途端瞬殺だ。
相手の戦力を削ぐどころか、時間稼ぎにもならん。
ポセイドンめ。よくもこんな年端もいかぬ餓鬼を寄こしたものだ。
それともこれは牽制か。己が再び目覚めるまでは、地上への手出しは無用という訳か。

仕方ない。
ならば当初の計画通り、海将軍を気長に自分の手駒にしていくしかない。
俺をポセイドンの代理人と信じ込ませ、言う通りに動くよう、導かねばならぬ。
聖闘士がアテナの為に命を投げ出すように、海界の為に命を投げ打つ海将軍を作り上げる
のだ。
面倒な事だ。なまじ夢を見た分、余計面倒に感じる。
しかし、そんな事は言ってられぬ。
俺は地上を手に入れる為なら、どんな試練にも耐えると決めたのだ。泣き事を言ってる
場合では無い。

それに、考えてみればまだ諦める必要は無い。
海将軍はこやつ一人では無い。あと五人もいる。その五人まで、子供だと決まった訳では
無い。
気を取り直して考えた。
そうだ。これから来る奴が、皆大人であればいいのだ。



それにしても、このままでは埒があかぬ。
取り合えず、名前だけでも吐かせねば。
「おい。お前、名は何というのだ?」
再度顔を覗き込んで問いかけた。子供がまたビクリと後ずさる。俯いた顔の下で、
極端に青白い唇の端が、緊張に小さく痙攣するのが分った。



「…………………カーサ」


何度も口籠った後、ようやく子供の答えが帰って来た。
「カーサか。年は幾つだ?」
消え入りそうに詰まった声に、内心苛々しながら尋ねた。名前くらいさっさと言わぬか。
何故もっと腹から声を出さん。一体、さっきから何を遠慮してるのだこの餓鬼は。
子供が益々小さな声で答える。



「…………………じゅ、十歳…」


十歳。
改めて失望が胸を過った。
十歳か。身長から見て、もう少し年嵩かと思っていた。それでは黄金聖闘士の餓鬼の中でも、
最年少の奴等に近いではないか。
聖域に居た頃、最年長として年下の黄金共の面倒を見ていた兄が時折、年少の奴等の事を
「手が掛る」とこぼしていたのを思い出した。
常に聖域の手本たらんと、馬鹿馬鹿しい程自分を律していた兄。その兄がそんな言葉を
うっかり洩らすのだから、実際、餓鬼共の面倒を見るのは相当に手が掛るのだろう。
所詮自分には関係無い話と聞き流しつつも、漠然とそう思っていた。

よもや、それが己の身に降りかかろうとは。
思わず溜息が洩れて来た。だが仕方ない。忌々しいが、兄のやり方を踏襲するしかない。
暫く、この餓鬼の面倒を見ていかねば。
「神殿の奥に、お前の鱗衣がある。ついて来い。それを装着すればお前も…」
分るだろう、と言いかけ、ふと相手の爪に眼が止まった。目覚めた時から、ずっと
シーツを握りっ放しだった子供の爪。
その爪は、「真っ白」と言っても過言でない程、白く血の気を失っていた。


眉を顰めてその爪を見詰め直した。
元々血色が良い餓鬼には見えんが、しかしこれは流石に白過ぎる。おそらく、指に力が
入り過ぎているせいだろう。どれだけ強くシーツを掴んでいるのだ。
まるで、激しい眩暈でも耐えているようではないか。
もしや具合が悪いのか、と初めて思い当った。

超人的に鍛え抜かれた聖闘士の身体は、滅多なことでは不調を感じ無い。
だから思い付かなかったが、考えてみればこの餓鬼はさっきまで溺死寸前だったのだ。
それでは反応が鈍いのも当然かもしれん。そんな状態では、何を言っても頭に入らない
だろう。
「…が、見ればお前も疲れた様子だ。今日はもう休め。」
仕方なく、そう言い渡した。カーサが俯いたまま小さく頷く。帰るか、と椅子から腰を
浮かした瞬間、ふと気付いた。


そうだ。10歳と言う事は、あれをせねばならんのか。


やれやれ、とベットに身体を近付けた。カーサがまたビクリと身体を震わせる。
いい加減面倒になり、長い指で子供の痩せた腕をぐいと掴んで引き寄せた。驚きに
大きく見開く薄い眼に、すうと自分の顔を近付ける。



ちゅっ




薔薇色の唇で、強張る額に柔らかく口付ける。そのまま、そっと子供の耳元に唇を落とし、
長い睫毛を伏せて子守唄のように静かに囁く。
「…おやすみ、カーサ。よく、眠るのだぞ」




「―――――――――――――!!!!!」



カーサが全身でカノンの身体を突き飛ばす。
「な、な、な、何すんだアンタ!!!!」
殆ど絶叫に近い声でカーサが叫ぶ。何だ。今、一体何が。何で。何が一体。
突然弾けるように叫び出した子供に、カノンが驚いたように眼を見開く。
サファイヤ色の瞳を訝しげに瞬かせ、酷く不思議そうな声で尋ねる。


「…地上の子供には、皆こうしなければならないのでは無いのか?」









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