Casa ( Chapter2) 4
地上の子供…。
呆然と眼の前の美貌の男を眺めた。
「違うのか?」
男が重ねて尋ねる。思わずブンブンと頭を振った。違わないのか?と再び聞かれ、
慌ててまたブンブンと頭を振った。
「どっちなのだ。」
男が眉を顰めて言う。必死でブンブンと頭を振り続けた。
「・・・・・・・・・・。」
男の呆れた様子が頭上からひしひしと伝わってくる。けれど、どうする事もできなかった。


だって、キスが。


信じられないくらい綺麗な顔が、近付いてきて。気付いたら額にキスされていて。
彫刻みたいに整った唇の感触が、びっくりするくらい柔らかくて。羽根みたいに長い睫毛が、
くすぐるみたいに耳を掠めて。星みたいに静かな声が「おやすみ」って囁いて。
それで、俺のこと「地上の子供」って。
皆と同じ、「地上の子供」だろうって。不思議そうに、そう言って。
俺が大事なもんみてぇに。俺だって、大事な何かみてぇに。
大切な壊れ物みたいに、そおっと俺の額にキスをした。

パニックで頭が働かない。
こいつは本当に町の奴等とは全然違う。町の奴等は、「地上の子供」なんて言い方しない。
俺に、躊躇いも無くキスなんてしない。
きっと、こいつは海の底の宝石なんだ。あんまり綺麗だから、神様がずっと隠してたんだ。
じゃなきゃ、こんな真似するわけねぇ。
子供が全員、お休みのキスを貰えるわけじゃねぇって。俺みたいな餓鬼に、そんな事する
奴なんかいねぇんだって。
そんな事も知らねぇ、海の底の綺麗な宝石なんだ。




何だか、変な言い方をしてしまった。

ようやく動きを止めた子供を見下ろしながら、カノンが思う。
何か、随分大仰な言い方をしてしまった気がする。
サガの奴がずっと「地上の平和」だの「地上の愛」だの、やたらと「地上の」を頭に
付けて話していたものだから、つい自分も「地上の子供」などと言ってしまった。
そのせいで、変に浮世離れした響きになってしまった気がする。
実際は浮世離れどころか、「聖域の悪」として生きて来たわけだが。
まずいな。この餓鬼が、後で変に俺の素性に興味を持たねば良いのだが。

まぁ、言ってしまったものは仕方ない。
それに、今の俺は海界の海将軍なのだから、「地上の」呼ばわりしてもそれ程不自然では
ないだろう。
それよりも、一体どちらなのだ。
サガの言っていた事は真実なのか。真実で無いのか。
あれは、何時も年少の黄金聖闘士達について言っていたのだ。
「あの子等は幼いのだ。寝る前にはキスをしてやらねばならぬ」、と。


そう言って毎夜毎夜、律儀に家を出て行った。
ご苦労な事だ、何時まで続けなければならんのだ、と尋ねると、あの男は至極真面目な
顔で答えた。

「少なくとも、十を数えるまではせねばなるまい。」

アテナが降臨されるまでは、このサガがアテナに代わって「聖域の愛」を与えねばならん。
あれらは将来、アテナの為に「地上の愛と正義」を命を懸けて護らねばならんのだから。
私が今、身を持って「地上の愛」を教えてやらねばならぬのだ。
神のような、と称えられる自信に満ちた群青の瞳で、きっぱりとそう言い切っていた。

馬鹿馬鹿しい。
俺をこんな所に押し込めておいて、愛も正義もあった事か。
冷めた思いで兄を見送りながら、それでもそれは本当なのだと思っていた。
十を数えるまで、子供には「お休みのキス」をせねばならぬのだと思っていた。
そもそも、自分もそうだったのだし。

今思えば寒気がするが、幼い頃はあの兄と寝る前にキスを交わしていた。
どんな疲れた日でも、サガはしゃんと兄らしい笑顔を作り、きちんと「おやすみ」と弟の
額にキスをした。そうしたサガの気負いが大好きだった。同い年なのに、弟の為に
努めて「兄」になろうとする、サガの強烈な自負が。
にっこり笑って兄の頬にキスを返した。おかえり。おやすみ兄さん。おやすみ。
兄さん、と呼びかける声に、サガが誇らしげに微笑む。よく眠るのだぞ、と小さな大人の
様に自分の肩に毛布を掛ける。
そんな事を、夜毎繰り返していた。多分、自分達が十歳くらいまで。


だから、そうしたのだが。
困惑に腕を組んで首を傾げる。
だから、この餓鬼…カーサにもそうしたのだが。
しかし、この反応はどうも違うのではないか。あの驚きぶり。あの騒ぎぶり。
もしかして、あれは世間の常識と違うのではないか。
ひょっとして、あれはあの偽善者が勝手に考え出した理屈で、世間の常識からは、
遠くかけ離れたやり方だったのではないか


それは困る。
いよいよ困惑して眉を顰めた。
俺はサガを通してしか、世間を知らぬ。
「悪の限り」と罵られた悪行の数々は、全て一人で為したものだ。昼間は暗い地下室に
閉じ込められ、己の名を名乗ることすら許されず過ごしたのだ。子供の扱い方など、
サガのやり方しか知らぬ。
そのやり方が、間違っていては困るのだ。



そこを確認しているのに、一向答えが帰ってこない。
何を聞いても、ただ首を振るだけだ。
「…違うのなら、もうせぬが。」
半ば諦めつつ問いかけると、カーサがハッと顔を上げた。うぐ、と変な風に喉を
鳴らし、あても無くキョロキョロと視線を彷徨わせる。暫くそうした後、何かを
決意したようにゴクリと唾を飲み込み、絞り出す様に小さく答える。


「・・・・・・ち、違わねぇと、思う・・・」


違わぬのか。
内心大きく安堵の溜息をついた。
それでは、サガのやり方で構わぬと言う事だな。この餓鬼、焦らせおって。
「では、何故あれほど驚いたのだ?」
カーサが一瞬口籠る。そして、急に早口で話し出す。
「そ、そりゃあの、アンタは初対面だから…まぁ、ちょ、ちょっとだけ、驚いたって
言うか…。」

ああ。成る程。
カノンが頷く。成る程。確かに、初対面の人間に突然キスされれば驚くかもしれん。
「だ、だから、も、もうしねぇ、ってのは…」
カーサが急き込むように訴える。
「うむ。確かにお前とは今日初めて会ったばかりだ。しかし、お前は子供とはいえ、既に
俺と同じ海将軍。明日からは俺と共に海界の為に尽くす身なのだぞ。」
カノンが重々しく頷きながら言う。そして、端正に整った顔を決然と上げ、部屋中に朗々と
響く声で宣言する。

「カーサよ。明日からはもう、あれほど騒ぐのではないぞ。」

分ったな、とカノンが一言吐いて部屋を出る。
石造りの廊下に高く響く靴音が消えた途端、カーサの全身から緊張の糸がぷつりと
切れた。









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