矢大臣山と『小倉百人一首』

 正月だったこともあり、何度か『小倉百人一首』に触れることがあった。この読み札のみに絵が描かれ た不思議なカルタは、百人百様の絵姿が楽しめて実に面白い。たとえば、小野小町と蝉丸は後姿で描か れているが、いずれも近代に入ってから採用された図案で、小町の後姿の理由は至極よく知られている のに、蝉丸はどうして後姿なのかよく分からない。以前の絵姿を見ると、検校姿や琵琶を持った姿で描か れているが、近頃はそれらは廃れてこの後姿が多いらしい。考えられるのは、「盲目」であったとされる蝉 丸を遊行の徒であった琵琶法師同様に描くことを、差別的意味を含めて嫌ったというところなのではない だろうか。検校姿もこれと同様な意味合いであると思う。いずれにしても差別には変わりがない気がする が、これが「目の見えない人への配慮」なのだとしたら、実に現代的発想だ。
 さて蝉丸も気になるが、いま一枚気になっているものがある。「参議篁」である。「参議篁」は、小野朝臣 篁のことであり、参議としてあるのはその人物の生涯の中で最高位を冠するのを通例としたためで、よっ て篁は仁壽二年の薨時の官位「参議」となるのである。この篁像は、どの百人一首を見ても黒橡の闕腋 袍においかけをつけた冠、矢を負って弓を手挟む「武官」のかたちで表されている。だが、篁は武官に任 ぜられたことは一度もなく、生涯文官で通している。ではなぜ篁は武官のかたちで描かれているのだろう か。
 今日の百人一首の元になったとみられる「光琳歌留多」では、篁はすでに武官姿で描かれている。そ のほか武官として描かれているのは、
在原業平朝臣
参議等(源等)
藤原道信朝臣
藤原基俊
藤原朝臣敏行
これに参議篁を加えた六人。この六人のほかにも、壬生忠峯や壬生忠見を武官の容にしたものなどが 見られる一方、敏行や基俊を強装束で表したものもある。かたちは様々変わるが、およそ業平は儀仗の 姿で、『三十六歌仙絵巻』佐竹本のように束帯姿はあまり見られない。業平は「在五中将(在原の五位の 中将の意)」と呼ばれていたことでも分かるように、武官であったので儀仗姿も不思議はない。しかし篁は 違う。歌仙絵でよく知られていたのは、時代不同歌合絵や俊成本歌仙絵だが、この二つでも篁は文官様 である。六波羅蜜寺の篁像は時代が新しいが束帯姿であり、同じく弘仁寺の篁像も束帯姿、栃木県の足 利学校の篁像もこれらに準じている。では篁の儀仗姿を光琳歌留多はなにを参考にして描いたのであろ うか。

 ヒントは『山』。福島県小野町。篁が下向した折、住まいを構えた地として宣伝されるこの町に、「矢大臣 山」なる山がある。標高950メートルあまりとさして大きい山ではないがトレッキングには向いているとみえ て、ハイカーには知られた結構人気がある山である。この奇妙な名前の山には奇妙な「いわれ」が残る。 頃は正安年中(1299−1301)、とき南北朝前夜の混沌とした時代。父である伏見天皇から譲位され、十 一歳で即位した胤仁親王すなわち後伏見天皇は、この岩代の国小野郷にそびえ立つ山を「矢大臣山」と 改名したという。この山の前名は「篁山」といったが、改名の理由については不明である。無論「篁」とは 小野篁であり、その昔この小野の地に屋敷を構えていたというので名がついたらしい。後伏見天皇は三 年余りの在位で退位、元号の正安は四年を以って乾元と改元された。つまり後伏見天皇が矢大臣山と 改名させたのは十代半ばのこととなる。永仁年中(1293-1299)、尊海が円仁創建の川越・無量寿寺喜多 院を中興し関東の天台宗五十二寺の総本山としたのを聞き、「星野山」の山号を贈ったのも後伏見帝で ある。

 もしここで、「矢大臣=篁」という図式が成り立つとすれば、鎌倉後期にはすでに「闕腋袍を着用した篁」 の影が流布していたといえる。篁の影は矢大臣そのものなので、それを理由に幼い帝が改名した、つま り、こんな会話があったのではないか。
 後伏見帝が何かの折に篁山の存在を知り、
「篁山とは何に因んでの名か。」
とお聞きになると、侍っていた者が、
「小野篁にございます。」
と答える。
「ああ。あの矢大臣のことか。」
と、あくまでも推測である。

 はじめ、矢大臣と聞いたとき「野大臣」の文字が思い浮かんだ。小野氏を表す言葉として、「野」の字を 冠する事は昔からあったことで、小野篁を「野相公・野卿」と呼び、小野道風の書を「野蹟」と称した例は 多く見られる。小野篁を「野大臣」と呼び変えたことから「篁山」も「野大臣山」と改称したのかと思ったの だ。しかし、篁は參議止まりであり、大臣にはなっていない。また他文献などでもで「野大臣」あるいはそ れに近い呼ばれ方もしていない。
 矢大臣を文字通り取れば、神社にある随身門あるいは本殿両脇に置かれた儀仗姿(平安時代の武官 の正装)の像のことだ。神社に楼門が出来たのは十一世紀末から十二世紀はじめ、賀茂御祖神社と賀 茂別雷神社にそれぞれ出来たという記録があり、平安末期までに石清水八幡社などにも作られるように なった。ここに随身像が収められていたかどうかは不明だが、楼門は仏閣にある仁王門を模して作られ たことを考えると、さほど下ることなく随身門が誕生していると考えられる。そしてこれを矢大臣と称する ようになったのも押して知るべしである。さらに左方(向かって右側)は左大臣という。同じ容をしている が、呼び方が違う。ご丁寧に「阿吽」の形相をみせているものもあるが、現在は両方「矢大臣」の名称で 一般化している。儀仗形なので正しくは「大臣」ではなく「近衛」の姿をうつしたのであろうが、「大臣」と「大 神」の音が通じるのでこの名になったものと考えられる。

 「後伏見帝は前名である『篁山』とはまったく関連なく名前を付けたのではないか。」
という思いがわいてきた。この話は「『篁』=『矢大臣』である」という大前提があってのみ成立する話だ。 『後伏見天皇宸記』にもこんな記述は見つからない。となると、後伏見帝の改名も危うい。とりあえず、改 名された事実だけは確かである。まず大前提を証明しなければならない。
 この小野町に「矢大神社」なる神社があり、祭神は小野篁とされ、矢大臣山改名と同時に「篁神社」か ら改名したと言う。矢大神社は「矢大神・社」であり矢大神は矢大臣の別記である。篁=矢大臣の証明に はならないが、祭神も変えないのに地名変更にあわせるようにしてわざわざ社名を変えているところは注 目したい。

 とすれば光琳は何がしかの粉本を持って「光琳歌留多」を描き、以後はそれに準じて描かれたわけで ある。その以前、平安後期から室町までの篁像を追わなければ、どうやら疑問は解決しないらしい。(以 後調査中)