篁が冥官たる所以

 篁が冥官であったと云う話は、かなり多くの書物で触れられている。そのうち、『今昔物語』『江談抄』 『元亨釈書』の三つがその源流となっていると思われる。
 『今昔物語』が1077(承暦元)年、『江談抄』は1104(長治元)年〜07年頃、『元亨釈書』は遅れて1322 (元亨ニ)年以降の成立である。同様の説話集ながら、後年成った『古今著聞集』〈1254(建長六)年〉や 『十訓抄』〈1252(建長四)年〉には見えず、『今昔物語』から二世紀おいて著された『元亨釈書』に再び触 れられたのは、元となったであろう矢田寺の縁起が院政期には成立していたであろうと考えられるため (これは他の二作品の成立から推定されているらしい。)で、その骨子は『矢田地蔵縁起絵巻』(15世紀) として今に残されている。ゆえにその話が盛んに宣伝されたのは11世紀末から12世紀初頭にかけてであ ろう。
『今昔物語』において、冥界で篁と遭遇したのは藤原良相である。篁は良相を「以前私をかばってくれた」 ことへの恩義から蘇らせたと語る。一方、『江談抄』では藤原高藤を生き返らせる。『元亨釈書』は少し違 っていて、蘇生させるのではなく満慶上人と親しかった篁が、「閻魔王に戒を授けて欲しい」と地獄へ連れ て行くという話になっている。
 これらには類話が多く派生し、『今昔物語』のなかで良相が「篁の義父」とされていたため、時代が下る と『本朝文粋』の記事により藤原三守の蘇りに変化し、『古今著聞集』の藤原敏行の話も混ざり合って、 罪障消滅のため大般若経を書写することを約することで帰されるといった話に変わってしまっている。 (付け足せば、この敏行は篁の姉妹と結婚をしている【小野系図参照】。このことも本人の好色に足して 地獄を巡る説話を生み出した原因となっているかも知れない。それともこの結婚自体は後世『古今著聞 集』からの引き写しか?)また、実父の峯守が蘇ったとするものもあるが、これは明らかに三守の話より あとに派生したものであろう。(峯守は天長七年、朝堂院で突然倒れ、人事不省のまま亡くなっているこ とが『続日本紀』に出ている。)
 時代が下ってからの内容の変化は理解できるが、しかし同じ時期に著わされた『今昔物語』と『江談抄』 で、なぜ良相と高藤という二つの話が生まれたのであろうか。ここからはいつも通り話が飛ぶが、「三条 大臣」違いなのではないだろうか。良相は「西三条大臣」である。これは『今昔物語』にも書かれている。 おや、とこのあたりの事情に詳しい人ならお気付きになられるだろう。高藤は小一条大臣もしくは勧修寺 大臣と称され、のちの勧修寺家の祖となる人物である。高藤は小一条でもその息子は百人一首でも知ら れた三条右大臣。まさか親子を間違えはしないだろうと思うが、『江談抄』のこの段では高藤を冬嗣の子 (実際は孫)としているので、ありえないとも云えない。この類の間違いは、よく名前を出す事を忌んで「○ ○の帝の御時、時の右大臣云々」などと書く事で、複数任じられている大臣を取り違えてしまう事で起こ りやすい。この場合でも習慣による誤認があったのではないか。良相(西三条大臣)も高藤(小一条大 臣)も定方(三条右大臣)もそして三守(後山科大臣)も『(右)大臣』という共通性がある。

 さて、『篁が冥官である』とここまで人口に膾炙するまでには、上記の三つの作品の負うところが大きい が、ではなぜ篁は冥官となったのであろうか。『世説新話』であるとか『柳斉異志』などにみられる大陸で の地獄の概念は、唐代の頃にはすでに成立していたらしく、『入唐求法巡礼行記』にも『十王図(地獄の 裁判官十人を描いた図)』を見たという記述がみられる。ただ、この頃の地獄は日をおって亡者が十王 の許を巡って行くという「十三仏信仰」のような形式で、日本でも大陸でもそれ以前は閻魔王だけがクロ ーズアップされていた。『日本霊異記』には地獄の話が多く語られるが、その大部分は「閻魔王」と「地蔵 菩薩」の話である。またここに道教思想の生亡を司る「泰山府君」と閻魔王を同一あるいは配下の冥官と した考え方や原始からの死後の思想が絡み、閻魔王だけ人気が上がり信仰の対象となってしまったらし い。
 さて、この頃描かれた『閻魔王』の図には唐の官吏のような服装をした冥官が両脇を固めている。巻子 を広げて閻魔王に見せている者と、閻魔王と亡者のやり取りを逐一書き写そうとする者である。これはも ともと『倶生神』と呼ばれていたもので、以前の『十王図』では甲冑に身を固めた姿で描かれている。とこ ろが、この『倶生神』は年を経るごとに官吏姿の冥官へとかわっていった。この冥官になりそこなった男 の話が『世説新話』のなかにある。この男は官吏になるため科挙を受けることになっていた。ある日、礼 服をつけた役人風の男が「試験を受けるそうなので迎えにきました。」と男にいって、大きな宮殿に連れ て行き、試験官の並ぶ広間に引き出した。受験者は男一人ではないらしく、もう一人いた。試験は進み、 二人ともに及第となったが、男はいぶかしく思い、「これはどこの省試か。」と尋ねると、「閻魔王宮」との 声があった。男はまだ死にたくはないので、どうか待ってもらいたいと懇願すると、試験官達は慌てて何 かを調べていたが、「たしかにお前はまだ命がある。ならば命脈絶えたのち、また召すことにいたそう。」 との沙汰が下り、生き返ったと云う。後で調べるともう一人の男はつい最近亡くなったとのことだった。つ まり冥官は死んだ人がなるもので、生きている内にはならないのである。小野篁が、もし冥官になるので あるなら、死んでからではいけなかったのだろうか。
 「朝には朝に務め、夕べには冥府に仕える」という超人的なイメージは、冥官伝説以前の『篁物語』のも つ「死と生の狭間にある存在」(死んだ義妹と交わるというタブーを犯す凄まじさ)によって、確立されたよ うに思える。(この話において、篁は死んでいてはならないし…)ただ、生きていようと死んでいようと篁が 冥官になるというのは必然性があったからなのである。冥官の条件とされるもので、篁に当てはまるもの は、
 ・学生(もしくは学者)であった
 ・刑部大輔であった
 ・丑年生まれであった
 ・詩作が得意であった
 ・清廉反骨の人であったこと
などがあげられる。条件に当てはまりそうな人物はほかにもありそうだが、もうひとつ、篁の一族、小野 氏の職掌にも冥官たる一因があるのではないか。
 小野氏は古来より、外交と軍事に職掌を発揮してきた。外交はもちろん対大陸諸国であるが、対蝦夷 の交渉も一種の外交であった。ゆえに飴と鞭ではないが、交渉と軍事に長けた小野氏は最適任であった といえる。それと小野氏には「金堀」の技術集団がついていたと考えられている。彼等は「穴師(足萎・あ なし)」と呼ばれ、滋賀県の小野地方では多くのタタラ跡が発見され、同族とされる柿本氏の本管地には 今でも「穴師」の地名がある(小野氏の「おの」を「斧」と書き換えて鉱山技術集団と説明する向きもある が、いささか無理がある)。この穴師たちが蝦夷の去ったあとの鉱山開発をしたのだが、この地中に潜る という行為は、地下にあるとおもわれていた「黄泉へ通う」ことに通じ、よって冥界に通じるものとして忌避 された。話の中で篁も「行きの井戸」と「帰りの井戸」という地中に潜る「穴」を利用している。
 さらに云えば、小野氏は塞神・猿田彦を祖とする系譜もおっていた。これは猿女の君と呼ばれる流れ で、稗田氏も柿本氏もこれの末裔である。塞え神は封鎖することが仕事であり、道祖神が辻や村境にあ るのと同じように小野氏は蝦夷との境を塞ぐ役割を果たしていた。さらに黄泉とこの世の境、閻魔宮に篁 がいることにより、塞え神の役割(千々の磐座のようなもの)をおっていたのかもしれない。(洛北の小野 の里は平安京の鬼門に当たる。ここに「小野山赤山禅院」という寺があり、鬼門封じとして創建されたとさ れ、泰山府君を祭っていることがなんとも意味深である。)
 小野氏であることとその異才から、冥官に祭り上げられた篁。死後千二百年を経て、いまだに冥官を 続けているのだろうか。