『古今著聞集 巻七 能書』によれば、道風は大内十二門のうち空海の書いた扁額の書を非難して、中
風にかかり「手わななきて手跡も異やうに成」ってしまう。そののち、藤原行成がその扁額を修飾する宣
旨が下ったおりには先例を恐れ、空海の像に香花を奉げ、大江以言に祭文を草させ、大師への敬意を
表したという。道風は当時随一の能筆として知られ、漢学者後江相公・大江朝綱と比肩して「筆は朝綱が
道風に劣るように、才は道風が朝綱に劣る」と語られている。小野の家からは篁のいとこに当たる恒柯、
大内十二門のうち西三門の扁額を書いた小野美材、草隷自在の小野篁(能書とされる紀夏井の伝に
「小野篁卿五筆弟子、師篁曰、紀三郎可謂聖筆」とある)など能筆が幾人か出ているが、道風は和風書
道の祖として、藤原佐理・藤原行成へとつづく書道完成へのプロセスを方向づけたといえる。
ところで道風の真筆とされる作品がいま数点あることは知られている。その中でも『屏風土代』と呼ばれ
る作品にはたいへん興味深い経緯がある。この作品は内裏にある御屏風に讃を書き付けるよう主上か
らおおせつかり、朝綱が起草した律詩八篇と絶句三編を道風が練習したいわゆる下書き(これを「土代」
という)で、能筆の書とはいえ、本来はただの反古なのである。なぜ残っていたかは不明だが、これを行
成の子孫、定信が行成の『白氏詩巻』とともに買い取ったのである。定信もまた能筆であり、行成を祖と
する世尊寺流の五代目当主でもあった(この定信の子が『夜鶴庭訓抄』を著わした伊行である。)別段と
して、これを買い求めた相手がいずかたから来たかも知れない賤女であったとも云われ、名人譚によく
ある「相伝」の形が現れているのも興味深い。つまり、道風から行成、行成から世尊寺流へと日本の書
道の流れをこの二巻の書巻がよく表している。
話を元に戻すと、震え筆は道風にとって厄災であるといわれる。『古今著聞集』を見る限りそれは間違
いない。遣唐使・小野石根の悲劇的な死、峰守・篁親子の絶頂期での急死、小野小町の盛衰と、小野氏
の厄災は繰り返ししつこくあらわれている。しかし、この「震え筆」についてはそのように読むべきではな
いのではないだろうか。
道風は空海の書を「美福の『田』が大きい」とか「朱雀の『朱』が『米』と読める」と批判している。ある学
者は「これらの異字を書いたのは五穀豊穣を願い、空海が『呪』をほどこしたためである」としたが、それ
だけではあるまい。おそらく空海はこの扁額を「飛白体」と呼ばれる風に衣を翻したような文字で書いたと
思われる。唐でいっとき流行ったマイナーな書体で、書くと実に珍奇な字になり、なかなか読みづらい。道
風はこの扁額を非難することにより、いままで空海至上主義であった書道の世界を変革したかったので
はないか。空海批判は小野氏代々に流れる反骨精神ばかりではない、これは唐風書道への決別宣言で
もあったわけだ。もともと空海の「飛白体」も唐風書道への疑問から生じた作品であるかも知れないが、
道風の目指す和風書道はその先にはなかったのだろう。
とはいえ、「柳に蛙」の男である。学ぶべきは貪欲に学び、自ら批判した「飛白体」をも体内に取り込ん
でいった。「飛白体」の翻る姿こそ「震え筆」の正体であり、後のかな文字の流麗な姿に変わっていたので
はないか。それまでの仮名は一字一文字の考えから、活字のように離れて書かれていた(『万葉集』がそ
の例)。これが草書をもっと崩し、勢いを殺さず流れをつけて二文字三文字とつなげて書くようになると、
まるで手が震えているように見えなくもない。道風の仮名の真筆といえるものがないのは、『震え筆』によ
り新機軸を開いた道風がまだ成立しない自らの書が世に出ることを嫌っていたのかもしれない(男手・女
手の問題ではないと思う。女手は「和」の意味が強く、男でも私的文書などはこれを用いたのではない
か。ただし日記は例外で、神仏に「こうあれ」と願うもので、半公的文書といえる。)。この「震え筆」には特
殊な霊力が宿ったとも云われるのは、空海が「悉曇」から学び取った筆法を「飛白体」に取り入れ、これ
に道風の「震え筆」の特異性が加わったためなのではないだろうか。
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