「獅子園書庫」と「浄聖院亮衍(じょうしょういんりょうえん)」。関東地方で、群馬県内で、在所である吉岡町内
で、この名を知っている人がどれだけいるのだろう。
かの塙保己一に蔵書である『新猿楽記』を貸し、『群書類従』の編纂に携わり、『東洋の大学』足利学校の蔵
書とも比肩されるこの獅子園書庫を創設した亮衍なる人物。この怪僧、正しくは修験者・山伏であるが、この
人の名は一部の学者のみに知られているだけである。事実、地元の古典籍を扱う店の主人に聞いてみたが、
知らなかったということだ。かく云う私もつい二三年前に知ったばかりであまり大きなことは言えないが、江戸
から離れたこの山里に天下に並びなき書苑を開架させた亮衍は、同郷に微細ながら書庫を構え古書を掌中
にするを楽しみとなす私にも何となく誇りたくなるような存在なのだ。
浄聖院亮衍は元文三(1738)年に上野国群馬郡下野田村の法雲山華蔵寺に長男として生まれた。父は華
蔵寺の中興の祖亮観、弟は光格天皇の書道の師として知られる角田無幻である。十六歳で学を志し、保己一
の師・山岡浚明(まつあけ)(1727-?)と交流を持ち、また保己一周辺の国学者・蔵書家と交歓し、蔵書の充実
とともにその校訂にも努めた。当時、塙保己一(1746-1821)は六万巻、「不忍文庫」の屋代弘賢(1758-
1841)、「擁書楼」の小山田与清(1783-1847)はともに五万巻、「考証閣」岸本由豆流(1789-1846)の三万巻な
どが知られるが、亮衍は文化三(1806)年に亡くなるまでに、どれほどの巻数を集めたのだろうか。実は獅子
園書庫の蔵書は華蔵寺の住持の早世など管理者の相次ぐ死により散逸流失、さらに虫損雨漏などによる欠
損腐敗の憂き目に遭い、その多くを失ってしまったのである。しかし残存する、日本初の銅活版印刷の「直江
本『文選』」や前出の『新猿楽記』などを見る限り、買い求めた本や借り受け書写した本は手当たり次第という
わけではなく、それなりの系統立てた蔵書になっているので巻数はともかくとしても、内容では交流のあった屋
代弘賢等の蔵書に劣ることはなかったはずである。
では蔵書はどうするつもりで集めていたのかというと、亮衍は『叙史類苑』と題し、史書の善本を集め手写し
て一大叢書をなすことを目指していたらしい。無論これは保己一の『群書類従』に携わるうち、自らも叢書をな
し世に出したい衝動に駆られたからに他ならない。現存するものは『足利鹿園院記』や『嘉吉記』、『續神皇正
統記』など戦記物を中心に二十巻である。亮衍の墓誌には『一大叢書数千巻』の文字が見えるが、どれほど
出来ていたものか不明ながら未完であったことは確かである。誤謬の校訂を経て希少な書物を世に送り出
す、現代のように出版物の溢れた世の中では考えられないかもしれないが、蔵書家の究極は今もこの辺りに
あるのではないか。
戦後の昭和三十二年、歙浦(きゅうほ、亮衍の号)無幻の兄弟を顕彰し、獅子園書庫は再建され、平成十一
年蔵書の目録が汲古書院から発行された。今回の文章はこの目録に拠った。
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歙浦無幻両上人顕彰碑
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獅子園書庫
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