2005年06月16日

松籟夜話 −茶のみばなし−

 アールグレイとは、英国の第26代の首相グレイ伯爵(Earl Grey Charles Grey 1764-1845 グレイ伯爵 家の2代目、19世紀初頭のウィリアム4世[William W]の首相。所属党はWhig党 在位1830-34)の名前か らとった紅茶。グレイ自身は外務大臣経験もある外交通として知られた。
 あるとき、中国使節団(もしくは中国の外交官)がグレイの許にお茶を土産として持参した。早速に入れ てみると大層美味い。気にいったグレイは、今一度茶を所望。ロンドンの紅茶商に仕入れさせたのが始 まりとされる。このときの印象をグレイは「龍眼の香り」と評したそうだが、今のアールグレイはほぼベル ガモット([Monarda didyma]シソ科ヤグルマハッカ属の植物で、ベルガモットオレンジ[Sicilian bergamot]で はない)で香りを付けているため、その香りは龍眼とは似ていない(と私は思う)。この製法は製茶メーカー ジャクソン社の製法で、それ以前のアールグレイはよくわかっていない。ゆえにジャクソン社がアールグ レイの元祖といっているらしい。
 この紅茶、本来フレーバーティー(香りや味を他の草木で加味したもの)ではないという。ということは何 も手を加えていない摘んだだけの茶葉が、竜眼の香りを放っていたのであり、ジャクソン社の考案した(と いわれる)アールグレイとは「似て非なるもの」であったはずだ。でもそんな香りの茶葉は存在するのか?
 正直言って中国茶には詳しくないので、そのあたりは分からない。だがどの文献にも、「今のアールグ レイとは違った」ことが書かれているだけで、それ以上踏み込んだものは少ない。詳しい人がそれなのだ から、ここで書くことなどたかが知れている。200年経つか立たないかの出来事が分からなくなってしまう のだから時というのは恐ろしい。
 分からないとはいえ、実在したことは確かなのだから、捜せば何とかなりそうなもの。ところがさにあら ず。恐らくは中国で見つけることは出来ないのではないだろうか。なぜならこの紅茶は、微妙な状況の変 化から生み出された産物であろうと推定できるからである。
 お茶の運送法は海運が中心の当時、中国を出て1ヶ月、赤道を2度越える航海が普通で、高温多湿に なる船倉では茶葉がかなり発酵してしまう。半発酵で止める中国茶も、イギリスに着く頃には全発酵した 「紅茶」になってしまうわけだ。ゆえに中国でグレイの飲んだ紅茶を捜しても、見つかるわけはないのだ。 風味を変えず、どれだけ早く運べるか、スエズ運河開削までは「クリッパー」と呼ばれる快速船による最 短航行の競争が苛烈であったこともうなずける。
 たとえこの紅茶の正体が分かったとしても、日本で味わうことは出来ない。イギリスの水は硬い。石灰 成分を多く含んでいるため、紅茶の味も日本で飲むとは大違いであるという。本場に行って確かめるより ほかないのだ。


 松永安左ェ門(1875-1971)、号を耳庵という茶人がいた。明治大正昭和と三代を生き、「電力王」とも 「電力の鬼」とも恐れられた政財界の大立者。益田鈍翁(1847-1938)・原三渓(1868-1939)と並ぶ稀代 の数寄者となった最後の大茶人も、茶の湯に目覚めたのは還暦を過ぎてからのことであった。
 その耳庵が昭和三十五(1960)年、小田原にあった自邸「老欅荘」に招いたのは河野一郎(1898-1965) と池田勇人(1899-1965)の二人。当時の自民党の両巨頭が、このように顔を合わすことなどありえようも なかった。岸信介の退陣後、後継指名のない、党を二分しての首班指名争いの真っ只中で、お互い敵 方を蹴落とすことに必死だった。しかし、耳庵の招きでは断れない。政争の合間を縫っての訪問となっ た。
 やがて道具が運び込まれてくる。水差、茶碗、茶杓、どれ一つを取っても耳庵が「何事も気合」と歯を食 いしばって落札した名品揃い。家のニ三軒は裕に買える値の張るものばかり。すでに八十を越えた耳庵 が自ら茶を立て二人へと振舞う。一瞬の静寂。
 床には『布袋見闘鶏図(ほていとうけいをみるのず)』。宮本武蔵の水墨画である。布袋が杖にあごを 乗せ、いきり立った軍鶏の姿を微笑を湛えて見ている。
 遅れてきた巨人、耳庵の心は今しもこの画の如く、小さな世界で威勢を張る二人がほほえましくてなら なかったのだろう。所詮は耳庵の器に足らぬ子供の喧嘩であった。
 この後、自民党は池田が首班を取り、負けた河野は袂を分かち新党結成かと騒がれたが、翌年の第 一次池田改造内閣で入閣、以来池田の病による退陣と河野の死までの五年を巨頭体制で臨むこととな った。


『流れ圜悟』という名蹟がある。昔、薩摩は坊津の浜に桐の古筒が流れ着いた。この地では漂流物など は珍しくなく、大陸ばかりか、琉球(今の台湾)や真臘(ベトナム)や盤盤(マレーシア)の物も流れ着く。古筒 など打ち捨てられても致し方ないのだが、これを偶然に拾った者がいた。開封し、中身を取り出してみる と、なにやら長々と書かれた書状。読んでみるとそれは宋代の名僧圜悟克勤(エンゴコクゴン 1063-1135) が弟子である虎丘紹隆(クキュウジョウリュウ)に下した印可状であると知れた。なぜ、名僧の許状が海にたゆ たっていたのか、誰がなぜにという疑問もあるが、坊津に着き、拾われた奇跡も面白く、なんとも不思議 な話である。ゆえに誰いうとなく『流れ圜悟』とそう呼ばれるようになった。
 室町時代、圜悟の筆跡と確認できる物は明国にも日本にも数点しかなく(そのなかでは一休宗純蔵・村 田珠光蔵・千利休蔵の三点が知られている)、その頃から世の宝と大切に扱われてきたこの墨蹟を、真 っ二つに破いてしまった男がいる。古田織部(1543-1615)。戦国の世を槍一本茶杓一匙で渡った天下の 宗匠。
 織部は千利休の茶の湯を学び、利休七哲に数えられる弟子であったが、その茶の思想は破天荒その もの。天下の名器として知られた井戸茶碗『須彌』を「大ぶりで扱いが悪い」として十文字に割り、寸を詰 めてしまったり(今その茶碗は『十文字』と追銘されている)、台子の茶事で本来手にとって見るべき水差 を取らずに見たり、極端に口をゆがめた茶碗を面白いといって使うなど、横紙破りな人物であった。千利 休は「亡き後に天下の宗匠たるは織部」と大いに認めていたが、当時の茶人織田有楽斎(1547-1621  長益 信長の弟)は織部の理解者でありながら、その破格の茶人を「異端児」としてしか捉えられていな かったし、それすら分からない世の人は「織部は世の宝を損なう者、横死しかるべし」と言ったという。そ の最たるものが、流れ圜悟の墨蹟切断であった。
「織部が切断」ということに疑問を持つ方もいるだろう。今現在、この墨蹟は前半が東京国立博物館にあ り、その解説には、「(墨跡は)伊達政宗の所望により切断」となっているからである。伊達政宗(1567- 1636)といえば、織部から茶の湯を学び、家臣にもこれを勧めるため何かにつけ茶席を設けた無類の数 寄であるがゆえに、さもありなんと思えなくもないが、一方こんな話もある。値数万両といわれる伝家の茶 碗で朝夕湯茶を飲んでいた政宗が、ふと手を滑らし茶碗を取り落としそうになった。日ごろ「不驚」を信条 としてきたが、高い茶碗というだけでどきりとし、信条が破られたことを悔やみ、茶碗を靴脱石に叩きつけ て砕いた、というのだ。これまた、らしいといえばらしい逸話である。だが、そんな豪胆で物離れのいい政 宗が、圜悟の墨跡をごり押しして真っ二つにしてまで欲しがったか、というのはどうも想像ができない。
 別の意見がある。これを切断したのはやはり織部で、墨蹟切断の理由は大きさにあったと言うのであ る。圜悟の墨蹟を見てみると、半分にされた今でも床にはみ出すほどまだ大きい。切断した者はこのこと が気になったらしい。床に掲げる幅はその時々の心情季節などを読み解くもので、客が読んで通じなけ れば意味のないものになってしまう。そこをあえて切断したのは、「意味」より「見た目の美しさ」を取った からに他ならない。当時、このような名筆を所持でき、且つためらいなく切断できた人物と考えると織部 以外になく、政宗は師から半切を所望した、というのが事実ではないだろうか?
『流れ圜悟』は、織部の所持となっていたが、大阪夏の陣で造反の疑いをかけられて切腹したのち、大徳 寺大仙院から谷宗卓の手に渡り、松平不昧(1751-1818 本名・治郷 出雲松江藩主)の所有になり、現 在は国有の『国宝』である。なるほど来歴も『流れ』ている…。


 世界史を学んだ人なら一度は聞いたことがある「ボストン茶会事件(1773年12月16日発生)」。1781年の 戦争終結まで続くアメリカ独立運動の濫觴であるとされ、植民地政策を強めていたイギリスの凋落を招く 一大転機でもあった。では一緒に復習してみましょう。
 オランダが貿易で世界を席巻していた17世紀前半、イギリスはスペイン・ポルトガルを駆逐し、東南アジ アだけではなく、新大陸にも手を広げる海運国となっていた。無論オランダとの対立は必至で、1651年の 対オランダ政策としての「航海法」制定、また新大陸の要所であったニューネーデルランドをめぐり4度に わたる戦争(英蘭戦争)を繰り広げた結果、1664年これを侵奪、ニューヨークと改め、植民地化した。もっ ともオランダは1630年代の「チューリップ恐慌」で国力の衰微は一通りではなく、イギリスに抗するだけの 力がもうなかったのである。
 これにより新大陸における貿易は、オランダをはじめとする海運国からイギリス一国に集約され、植民 地での物価は本国の思いのままとなった。七年戦争(フレンチ-インディアン戦争とも 1756〜63)以降、 植民地統制強化を目的とした重商主義政策は、日用品の物価を押し上げ生活を圧迫した。印紙条令 (1765)、タウンゼンド諸法税法(1767)の制定は住民に重くのしかかり、イギリス製品ボイコット運動を過 熱させるにいたり、イギリス本国は茶条令のみを生かし、あっけなくこれを撤回した。当時すでにお茶は 庶民の口に入る嗜好品として植民地にも出回っていたが、その多くは茶税をかけられた高いイギリスの ものではなく、オランダなどを経由した密輸品であった。1773年、イギリスは東インド会社にアメリカにお ける茶の専売権を付与するが、これには二つの理由があり、オランダなど諸外国の密輸を防ぐ目的の ほかに、茶の在庫を抱えすぎ、困窮していた東インド会社を救う目的があった。
 このことが、他品目にも商業統制が及ぶのではないかと憶測をよび、商人や愛国派の抵抗運動の激 化を招いた。この年の12月、東インド会社の茶を積載した船がチャールストン・フィラデルフィア・ニューヨ ーク・ボストンの各港に到着した。チャールストンは陸揚げされたものの、倉庫に入れられたまま、フィラ デルフィアとニューヨークでは茶の陸揚げはなく停泊したまま待機していた。一方、ボストンでは愛国派が 陸揚げを断固拒否することを表明、植民地総督トマス=ハッチンソンに伝えたが、ハッチンソンはこれを 一蹴、荷揚げは敢行すると回答した。それを聞くやボストン市民は行動に出る。モホーク=インディアン や黒人に扮装し停泊中の輸送船3隻を襲撃、積荷の茶箱342個を海中に投げ入れたのである。重さにし て約45トン。噂では湾内が茶色に染まったといわれている。
 さすがにイギリスも黙っておらず、明けて74年にボストン港法やケベック法といった報復法案を次々と 可決、植民地支配を更に強めた。これが一般市民までも独立運動に駆り立てる要因となり、81年の独立 戦争終結まで抵抗・独立の戦いは続くこととなる。
 ところで、この事件の「茶会」は[tea party]を直訳したものであるが、本来の意味からしたら「茶会」では なく「茶党」と訳すべきだったかもしれない。まあ、実際のところ、茶箱を港に投げ込むときに「さあ、イギリ ス国王の茶会だ!」と言って放り込んだというから、二重の意味がそこには含まれていたのであろう。


 清朝六代乾隆帝は行動派というか、人騒がせというか、非常に外がお好き。ひと所に留まっていられな い性格のようで、変装しては視察と称し、あっちこっちと出歩いた。いわゆるお忍び道中。商人に化けて 江南に出掛けたある日のこと、一軒の茶館に入り茶を注文した。自身「茶無しでは生きていけない(『君 不可一日無茶』)」というだけあって、かなりな茶マニア。さて茶杯が出てきたかと思うと、肝心の茶器が出 てこない。すると大銅壷をかかえた店小二(給仕係)が出てきて、数尺も離れた高さから茶を注ぎ入れ、 かつこぼしもしなかった。乾隆帝大感動。早速、朕も朕もと銅壷を借り、護勇(SPのこと)の杯に茶を注ぎ 出した。これはもう一大事。乾隆帝にすれば好奇心からの無邪気な行動も、護勇にしてみれば、皇帝手 ずからの茶を饗されるなど一族名誉、今すぐ石屋を呼んできて記念碑を建てるような出来事である。しか しここで五体倒地して、頓首などしようものなら、この商人姿の人物が誰か知れてしまう。礼はしたいが、 出来ようもない。困った護勇は人差し指と中指をトントンと机に打ちつけた。
 茶館をあとにした皇帝は、護勇に机を打ち鳴らした理由を尋ねると、手を人の姿、つまり親指と薬指を 手、人差し指・中指を頭とみなし、手をついて頓首したのです、と答えた。確かに指を打ち付けると、平伏 したような形になる。乾隆帝は大いに喜び、以後お茶を注いでくれた人への感謝の礼として、指で机を叩 くことが習慣となった。


 昭和十(1935)年11月21日、東京市浅草区の明治製菓喫茶部(喫茶店のこと、雷門の向かいにあった。 今は観光案内所が立っている)に一人の男がやってきた。増子菊膳。浅草柳北小学校の校長で、浅草 区役所で教職員49人分の給与3353円33銭を受け取りに行った際、電話でここに呼び出されたのだ。相 手の男は二十代後半といったところ、ぼさぼさの頭に絣の着物に対の羽織を着て、何か真剣に話し合っ ていたが、突然増子が、
「この紅茶はおかしい。」
とつぶやいて、立ちあがろうとするとそのまま背中から仰向けに倒れた。
 店員が駆け寄ると相手の男は、
「この紅茶は美味くないそうだ。」
といって残りを捨てさせた。すぐに医者が呼ばれたが増子は死亡。その間に、男は教職員の給与ととも に消えていた。
 警察の調べでこれは青酸カリによる服毒死とすぐに知れ、学校出入の足袋屋の若主人鵜野州武義が 容疑者として挙がった。鵜野州は千束町の待合で遊んでいるところを発見され逮捕、犯行を認めた。
 このときに使用された青酸カリは2g、町工場から譲り受けたもので、その値は10銭であったという。こ れが本邦初の青酸による殺人事件となるわけだが、犯行後たった12時間後に捕まってしまうお粗末な事 件であった。
 補足であるが、青酸カリは分かりやすい毒物である。青酸カリ=シアン化カリウムは水溶性、無色であ るが、強いアーモンドのような臭気を放つ。食物に入れてもその臭気で悟られてしまう。ゆえに「愚者の 毒」といわれる。ただ、致死量が0.15〜0.3gと少量のため、口に含んだだけで死に至る。その症状は痙攣 と呼吸困難で、瞬時に死亡するためか、自殺者が使用することが多い。


 紅茶から青酸カリ、作家の有栖川有栖氏が『ロシア紅茶の謎』という作品で書いていたなぁ。そう、日本 でロシア紅茶といえば、紅茶にジャムの入った代物。しかし本場ではそうではない。
 まず紅茶を煮出す。とことん煮出す。親の敵のように煮出す。そして、無茶苦茶に濃い紅茶を作った ら、好みの濃さにお湯で割る。なんだか二度手間だし、渋そうだし、風味も何もなさそう…。ま、これには サモワールという特殊な薬缶付き湯沸し器が必要となる。この湯沸し器は二分式になっており、上に紅 茶を煮出す薬缶を載せ、下でもそれを薄めるための湯を沸かせる構造になっている。19世紀のロシアで お茶とともに庶民の間で流行ったものらしい。
 そして飲むときには皿の上にジャムを出し、舐めながら紅茶を味わうのである。




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