2002年03月17日

偏愛作家 澁澤龍彦

 好きになった作家の作品をやたらに追いかけて、じきに飽きてしまい手にも取らなくなる。清水義範然 り、星新一然り、畑正憲また然り。B型のせいでしょうか。でも澁澤龍彦は出会ってから8年近くなるけれど まったく飽きません。
 本の雑誌『ダ・ヴィンチ』が創刊間もない頃でした。表紙を俳優の佐野史郎さんが飾った回があり、例に よって私の一冊を手に写っていました。それが『高岳親王航海記』。
 澁澤龍彦の名を知ったのはこれが初めてではなく、岩波文庫の泉鏡花『夜叉ヶ池・天守物語』の解説が 初見でした。これが大学1年のとき。ショックが大きく、なんで高校のときに手を出さなかったのかと、大い に悔やんだのをおぼえています。高校時代、私の周りで、しきりに「サド」やら「澁澤」という言葉を発してい た知り合いがいました。そのころは普通の人と同様、サドに嫌悪感を少なからず抱いていましたから、「何 言ってるんだか」と鼻にもかけなかったのですが、「奇譚」には興味があり泉鏡花や太宰治、三島由紀夫 あたりには手を出していました。いま思えばあの頃から、私の中のドラコニアへの扉が開かれかけていた のでしょう。
 これまでに『高岳親王航海記』は十数度通読していますが、そのたびに印象が変わってゆくのは、合間 あいまに読んでいる澁澤の膨大なエセー群が影響していると思われます。
澁澤のエセーは一般的なエセーではありま せん。博物学の巨人・南方熊楠の『十二支 考』のそれをもっと洗練した、そう澁澤の好 んだ真珠の如き、まさに『珠玉の文章』の結 晶体です。東大を卒業後、外校正を経て、フ ランス文学の翻訳家となった澁澤のエセー は、他に類を見ない新世界を想像し、読者 はこの世界を『ドラコニア』と呼び、古今東西 の博物・文学に通じたその知識の広さの舌 を巻き、また熱狂しました。巻貝、人形、石、 毒薬、そして鳥。さまざまなオブジェを愛し、 『サド』を広め、綺譚を紡ぎ出した澁澤。それ らを虫ピンで一つ一つ標本箱に留めるよう に、エセーを書き綴っています。作家活動の 後期になり、短編小説を書くようになった澁 澤が、題材にとったその多くはエセーのそれ にほかなりません。唯一の長編小説『高岳 親王航海記』もその例に漏れず、「アンチポ テス」、「鏡」、「獏」、「ジュゴン」、「ミイラ」、 「真珠」と澁澤好みのオブジェがこれでもか と登場し、まさにドラコニアの真骨頂とも云え る作品です。
 しかし、この作品を最後に澁澤は亡くなっています。次回作『玉蟲物語』はノートに走り書きされていたた め、その概要が知られているだけで、実質これを最後の仕事と覚悟していた感があります。ゆえに単行本 の帯の書かれていた言葉は真理なのではないでしょうか。
「死の予感に満ちた物語」
 『高岳親王航海記』は澁澤の私小説ではないかと思えるのです。高岳親王と澁澤龍彦、自らの生い立ち から死に至るまで二人のすべてがシンクロしているのです。(作品中にも多くの『双』のイメージがあらわれ てくることから、暗に読者に訴えているように感じる。)『高岳親王航海記』の最終章『頻迦』を病室で書き終 えて、間もなくむかえる血瘤の破裂による死。死の予感と突然訪れる死、親王のあっけない幕切れ。偶然 とはいえ出来すぎていませんか?
 もし『高岳親王航海記』をお読みになるなら2度は読んで頂たい。1度目は何も知らずに、2度目は何で も構わない、澁澤のエセーを読んでから。

※高岳親王は平安初頭、平城天皇の皇子として生まれ、嵯峨天皇の皇太子として立った。しかし『薬子の 変』により廃太子をうけ出家、空海のもとで修行の日々を送っていたが、晩年、一念発起してインドへ行く ことを決意。唐を経由して東南アジア付近まで船を進めたが、カリマンタン島で死亡。虎に食べられたとも 云われている。
 




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