好きになった作家の作品をやたらに追いかけて、じきに飽きてしまい手にも取らなくなる。清水義範然
り、星新一然り、畑正憲また然り。B型のせいでしょうか。でも澁澤龍彦は出会ってから8年近くなるけれど
まったく飽きません。
本の雑誌『ダ・ヴィンチ』が創刊間もない頃でした。表紙を俳優の佐野史郎さんが飾った回があり、例に
よって私の一冊を手に写っていました。それが『高岳親王航海記』。
澁澤龍彦の名を知ったのはこれが初めてではなく、岩波文庫の泉鏡花『夜叉ヶ池・天守物語』の解説が
初見でした。これが大学1年のとき。ショックが大きく、なんで高校のときに手を出さなかったのかと、大い
に悔やんだのをおぼえています。高校時代、私の周りで、しきりに「サド」やら「澁澤」という言葉を発してい
た知り合いがいました。そのころは普通の人と同様、サドに嫌悪感を少なからず抱いていましたから、「何
言ってるんだか」と鼻にもかけなかったのですが、「奇譚」には興味があり泉鏡花や太宰治、三島由紀夫
あたりには手を出していました。いま思えばあの頃から、私の中のドラコニアへの扉が開かれかけていた
のでしょう。
これまでに『高岳親王航海記』は十数度通読していますが、そのたびに印象が変わってゆくのは、合間
あいまに読んでいる澁澤の膨大なエセー群が影響していると思われます。
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澁澤のエセーは一般的なエセーではありま
せん。博物学の巨人・南方熊楠の『十二支
考』のそれをもっと洗練した、そう澁澤の好
んだ真珠の如き、まさに『珠玉の文章』の結
晶体です。東大を卒業後、外校正を経て、フ
ランス文学の翻訳家となった澁澤のエセー
は、他に類を見ない新世界を想像し、読者
はこの世界を『ドラコニア』と呼び、古今東西
の博物・文学に通じたその知識の広さの舌
を巻き、また熱狂しました。巻貝、人形、石、
毒薬、そして鳥。さまざまなオブジェを愛し、
『サド』を広め、綺譚を紡ぎ出した澁澤。それ
らを虫ピンで一つ一つ標本箱に留めるよう
に、エセーを書き綴っています。作家活動の
後期になり、短編小説を書くようになった澁
澤が、題材にとったその多くはエセーのそれ
にほかなりません。唯一の長編小説『高岳
親王航海記』もその例に漏れず、「アンチポ
テス」、「鏡」、「獏」、「ジュゴン」、「ミイラ」、
「真珠」と澁澤好みのオブジェがこれでもか
と登場し、まさにドラコニアの真骨頂とも云え
る作品です。
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しかし、この作品を最後に澁澤は亡くなっています。次回作『玉蟲物語』はノートに走り書きされていたた
め、その概要が知られているだけで、実質これを最後の仕事と覚悟していた感があります。ゆえに単行本
の帯の書かれていた言葉は真理なのではないでしょうか。
「死の予感に満ちた物語」
『高岳親王航海記』は澁澤の私小説ではないかと思えるのです。高岳親王と澁澤龍彦、自らの生い立ち
から死に至るまで二人のすべてがシンクロしているのです。(作品中にも多くの『双』のイメージがあらわれ
てくることから、暗に読者に訴えているように感じる。)『高岳親王航海記』の最終章『頻迦』を病室で書き終
えて、間もなくむかえる血瘤の破裂による死。死の予感と突然訪れる死、親王のあっけない幕切れ。偶然
とはいえ出来すぎていませんか?
もし『高岳親王航海記』をお読みになるなら2度は読んで頂たい。1度目は何も知らずに、2度目は何で
も構わない、澁澤のエセーを読んでから。
※高岳親王は平安初頭、平城天皇の皇子として生まれ、嵯峨天皇の皇太子として立った。しかし『薬子の
変』により廃太子をうけ出家、空海のもとで修行の日々を送っていたが、晩年、一念発起してインドへ行く
ことを決意。唐を経由して東南アジア付近まで船を進めたが、カリマンタン島で死亡。虎に食べられたとも
云われている。
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