頭陀袋

2003年07月02日
ジャイアニズム

 近頃の『ドラえもん』は面白くないという。ジャイアンがいい子すぎるのだ。
 これも「横並び教育」の弊害である。みんな均等に、みんな同じようにという個性の無い教育を推し進め ているため、ジャイアンのような異端児は排斥されなければならないのだ。『ドラえもん』の真骨頂は、ジ ャイアンこと剛田剛の不条理なまでの暴力のうえに成り立っていたはずだ。
「のび太のくせに生意気だ。」
「のび太のものは俺のもの。」
この二言で、ジャイアンのすべてが分かるではないか。まぁ、現実社会においてこんなのがいたら迷惑こ の上ないが、結構身近にいたりする。最たるものが「米の国」かな。

 話は変わるが、アニメではなくコミックスのあのジャイアンの歌声は擬音の最高傑作だと思う。
「ほげ〜。」
 歌声じゃないもの。



2003年07月01日
想ったときが発情期

 何年前だろう。『何年恋を休んでますか。』というドラマがあった。四年。リアルすぎる数字だな。
 人間は年がら年中恋愛の季節。発情期なんて無いに等しい。俳句の季語に「猫の恋」っていうのがあ るが、他の動物ははっきりと発情期がある。では何で人間に発情期がなくなったのか。
 これは諸説あるが、人間には生命の危険が無くなったのでそれも必要無くなったというのが主な理由ら しい。子供を生むとそれだけ他の動物に襲われやすくなる。その心配がなくなったことが、いつでも子供 を産める体を作る原因となったらしい。
 恋愛の期間が長くなっているのもそのせいであるという。なんだかなぁ〜。



2003年05月27日
 「単位」の実

 よく聞くけどよく分からない単位。「東京ドーム五つ分の広さ」とか、「琵琶湖3.5杯分の水」とか、雰囲 気は伝わるけどねぇ〜、実体が伴わないんだよねぇ〜。
 そこで調べました。謎の単位の実情。
  
東京ドームの全面積 4万6755平方メートル
グラウンド部分のみならば 1万3000平方メートル
東京ドームの全容積 124万立方メートル
山の手線内の面積 6500ha=65平方キロメートル
(ところによりバラつきあり58〜68平方キロメートルの間)
琵琶湖の全面積 669.9平方キロメートル
      全容積 28.4立方キロメートル
平安京の全面積 24.27平方キロメートル
(東西1,508丈×南北1,753丈  一丈=3.03メートル)
(足利健亮氏の説なら) 29.746平方キロメートル
(東西1,800丈×南北1,800丈)
バチカン市国 0.44平方キロメートル

 ちなみに昨日のいわき市の総面積は1231.13平方キロメートル。これを上の単位で直すと、

東京ドームの 約2万6千倍 (26,331.5倍)
山の手線内の 約19倍   (18.94倍)
琵琶湖の 約1.8倍   (1.8378倍)
平安京の 約51倍   (50.7264倍)
バチカン市国の 約2,800倍   (2798倍)
(坪数にして) 約3億7300万坪  (373,069,696坪)

やっぱり判りづらいなぁ〜。  



2003年05月26日
 変化球

 今年4月1日、静岡市と清水市が合併して、市制を布いている自治体の中で最も面積の広い都市、新 「静岡市」が誕生した。
 ではそれまで一位であったのはどこかというとこれが福島県の「いわき市」。昭和41年10月1日の合併 より37年の長きにわたりその地位を保ってきた。この時の合併は5市(平・磐城・勿来・内郷・常磐)4町 (四倉・小川・遠野・久之浜)5村(川前・好間・大久・田人・三和)の14市町村。巨大地方都市の出現に、 今後の都市計画のテストケースになると注目を浴びた。
 まず問題になるのはどこが主導権を握るかであろう。およそ町村はないとしても、人口最多の平市か 小名浜を抱える磐城市かのいずれかであると思われていたから、対立すれば難航、下手をすればご破 算になることは必至であった。ところが協議が始まると中心になったのは平市で、原則対等合併というと ころに落ち着いてしまった。これは各自治体が入り組み、昔から相互依存してきたため、こんなことでも めても仕方なかったのであろう。だが、波乱はこのあと起こった。新たな都市名である。
 ここで質問。この「いわき市」、なぜ「いわき」って付いたか知っていますか?歴史の好きな方ならこう即 答されるかもしれない。
「旧国名の磐城国から取ったんだろ。」
正解と言いたいが、さに非ず。これ意外なところからきているんです。
 話戻って新都市名決定協議。様々意見が出たが、大勢は「磐城市」に傾きかけていた。この14自治体 のうち7自治体が「石城(『いわき』と読む)郡」に属し、5市も市制を布く以前はこの郡に属していた。ゆえ に磐城の名は残したいとしたのだ。しかし、ここに横槍が入った。
「対等合併といっているのに新都市名が『磐城市』では、いまの磐城市に吸収された印象になってしまう。 (おそらくこう云ったのは平市の人だと思う)」
 途端に協議は難航、思わぬところで座礁した。
 まあこういうところには機転の利く人が一人くらいはいるもので、突拍子もない案を出してきた。
「せっかくここまで議論を尽くしてあと一歩のところまで来ているのです。14もの自治体が合併するのは前 代未聞です。いろいろと引けないところもあるでしょう。しかし、ここは一つ『和』を大切にしようじゃありま せんか。その昔、聖徳太子という人がお作りになった『十七条憲法』に『和を以って貴しとなす』という条文 があります。漢文につづると『以和貴』となり『いわき』と読むことが出来ます。これを新都市の名にしよう じゃありませんか。漢字では覚えにくいので、いっそひらがな表記にしてしまいましょう。(この発言は創作 です)」
 これなら「磐城」の名に執着した自治体も、拒絶した自治体も納得せざるを得ません。なにせ、一方にと っては自分たちが残したかった名前は付くことになるのですし、もう一方は嫌った名前ではなく、『十七条 憲法』から採ったという「いわれ」があるのですから文句も言えない。ひらがなにしたのも両者の意見を汲 んでのことでしょう。この一軒により、協議は再開され見事「いわき市」の誕生となったのです。
 ちなみにこの「いわき市」の地域、明治の終わりごろにはまだ40近くの自治体に分かれておりました。 その図はまたのちほど。



2003年05月25日
 「禅」ってなんだろ。

 ずいぶん休んでおりましたが、ネタ切れではありません。他のUPに手間取っておりました。今日は「禅」 のお噂。
「禅」という文字。「地を平らかにする」という意味なんですね。天子が位に就いたときに「封禅」という儀式 をしますが、これは「土を盛り高台を築き(封)、地を掃き清める(禅)」、天地に対し礼を尽くす儀礼のこと なんです。だから天地の司祭たる天子しか出来ない。
 では仏門の「禅」って何なんでしょう。梵語で「静観」のことを「Dyhana(ジャーナ)」といいます。これを中 国人得意の音訳をしたとき「禅那・禅定」とし書き表したのを、のちにただ「禅」というようになったのです。 このことから「禅」には最初の意味から離れて、「ゆずる」と「静か」という意味がつけ加えられたのです。 今では本来の意味がなくなってしまっていますがね。



2003年05月13日
 しばらく休業

 鶏肋帖を創作中。



2003年05月12日
 八咫鏡

 天の磐戸から天照大神を引っ張り出すために作られた八咫鏡。天孫降臨の折にはニニギの命に預け られて以来皇位継承の神器として伝世している。
 ところが天徳四(960)年九月二十三日、内裏炎上により鏡は類焼。翌日になって八寸の円規はそのま まに発見される。続いて寛弘二(1005)年十一月十五日子剋、温明殿と綾綺殿の間から出火。賢所にも 飛火した。翌十六日、神鏡の残骸と見られるものを発見。再鋳造の論争が起こった。しかし鋳造は行な われず、一つにまとめられ仕舞われた。さらに長久元(1040)年失火。残骸は数粒の破片と成り果ててし まう。極めつけは寿永三(1185)年、安徳天皇の壇ノ浦入水により海中に没し紛失。源義経により海中か ら回収され現在に至る。
 ってここまで書いていて
「おいおい、すでに鏡じゃないし、本当に八咫鏡の残骸なのかい?」
と思ってしまう。正直言いましょ。
「それ、ニセモンだよね。」
 いや、怒ってはいけません。何も紫震殿の溶けた釘と間違えたとか、義経が偽作したとか言っているん じゃなくて(←大いにあるとは思うけど…)、それ以前に伊勢に移されているってこと。
 崇神天皇は三種の神器を手元に置くことを恐れ多いとして、その昔神代の頃鏡と剣を作った石凝姥神 と天目一箇神の子孫にレプリカ作らせて分霊すると、本物は伊勢と熱田神宮に納めてしまった。つまりこ の騒ぎって分霊したレプリカのこと騒いでいるんでしょ。
 今上天皇の即位式の折、箱に入った八咫鏡を持った侍従長は、
「思ったより重く、揺れたとき『カタッ』と音がした。」
と申しておりましたが、ありゃ箱が重いんでしょ。外箱の中に「御船代」、その中に「御樋代」(いずれも円 形とみられる箱)があって鏡だもの。その前にいいのか?八咫鏡(らしきもの)箱にぶつけちゃって。



2003年05月11日
 地名。

 深谷市内の国道17号線をわずかに北へ入るとこの地名に出くわす。「血洗島」。明治の実業家澁澤栄 一の誕生の地であり、そのおどろおどろしい名からは想像もできない穏やかな田園風景が続いている。
 そもそもこの地名は八幡太郎源義家が利根川河畔で戦をした折、片腕を切り落とされ、その腕をこの 地で洗ったため血洗の名がついたという。義家がこの地でそんな傷を負っていたことははじめて知った。 島というのは利根川の中洲あるいは支流に囲まれた地続きではない地ほどの意味であろう。



2003年05月10日
 それはいけません

 昨夜は徹夜で飲み明かして、帰ってきてから昼過ぎまで寝ていた。こんなことを社会人になってからも やっているのでは仕方がない。
 私がまだ学生の頃は、そんな飲み会がよくあった。そのときの話。
 サークルの仲間内で飲んでいるとき、通学の話になった。私やそのほかの連中は一人暮らしをしてい たのだが、一人だけ親元から通っている人がいた。朝が早くて大変だろうとか、今日は帰らなくていいの かなどといっていると、その人がポツリといった。
「いま大変なことになっているんだ。」
 何のことやら分からずにわけを聞いてみると、キセルで捕まって大変な額を請求されたという。住まい は東京近県のベットタウンの某市。金額を聞いて驚いた。その額、六十数万円。まてよ、と記憶をたどっ ていくと二三日前の新聞に似た記事が…。
「それ、俺のこと。」
 ひゃー、というのでその日はこれでお開き。悪いことして請求されているのだから、その人を慰めようも ないのでみんな無言で駅に急いだ。
 ちなみにこの「キセル」という言葉、喫煙道具のあの煙管からきていて「(けむりの・鉄道の)入り口と出 口にだけ金を使う」からこう言われた。また無銭乗車を「薩摩守」という。『平家物語』に登場する平氏の 武将「薩摩守忠度」と無銭乗車の「タダ乗り」を引っ掛けてこう呼ぶらしい。なかなか洒落ている。



2003年05月09日
 どっちが先か

 日本橋はご存知ですよね。東京のど真ん中にある日本の道路の出発点。でも実際見たことあります?
 この日本橋は家康入府の折に架けられた慶長八(1603)年の橋を初代とすると、いまのが20代目だと いわれています。明治四十四(1911)年製の石造二重アーチ式、橋長49.5m幅27.5mの堂々たる橋です。 当時の東京市の橋梁課長、樺島正義により設計され、米元晋一主任技師の指揮のもと明治四十一年 に着工しました。装飾の設計は妻木頼黄(「よりなか」とよむ 旧日本勧業銀行別館や横浜の通称「赤レ ンガ倉庫」の設計者)、四隅の獅子柱と中央二本の翼龍柱は彫刻家渡辺長男が手がけ、開通の日に掲 げられた銘板は徳川最後の将軍、慶喜の揮毫によるものでした。
 この開通後の大正十二(1923)年九月一日、マグニチュード7.9の地震が起こりました。世に云う「関東 大震災」です。東京は壊滅的な打撃を受け、日本橋周辺もほぼ全壊となりました。ところが当の日本橋 は街灯に少々の損傷を生じたものの、崩れ落ちもせずまったくの無傷で残っていたのです。後の調査で 分かったことなのですが、この橋の下には7mほどの松の丸太が無数に打ち込まれていて、びくともしな い基礎が組まれていたのです。

 ところでこの日本橋がかかる川の名前をご存知ですか。その名も「日本橋川」。千代田区三崎町から 神田川と分かれ、中央区日本橋箱崎町で隅田川に注ぐ総延長4kmあまりの短い川。でも日本橋がかか る前の名前は知られていないらしいんですよね。なんか本末転倒な名前の川です。