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パトロン
芸事には無くてはならない「お金」の支援者、「パトロン」。日本で言えば相撲界の「タニマチ」がよく知ら
れるところ。この「タニマチ」は大阪谷町筋四丁目に住んでいた歯医者が、力士からは治療費を取らなか
ったところからひいき筋をこう呼ぶようになったのは有名な話。ではこの「ひいき」ってなんだか知ってま
す?
これ漢字で書くと「贔屓」と書きます。字面は貝ばっかりですが、正体は亀。よく石碑の下に亀を象った
石が置かれているのを見ませんか。アレが「贔屓」です。正しくは「ひき」という架空の動物で、川の神様
だそうです。また龍が産み落とす九種の子供の中の「ひき」とも混同され、両性具有の双頭の亀であると
も云われます。
この「ひき」、文章を好みこれに努めるものに力を尽くすとされ、その優れた能力をもってこれを助ける
神様だそうで、ここから「人の足りないところを補い助ける」人のことを「贔屓」と呼ぶようになったんです
ね。
でもこの神様変な癖がありまして、石碑を背負うことが大好きなんですね。龍から生まれる兄弟の「覇
下(はか)」も同じように石碑を背負うのが大好き。兄弟揃って名文を背負って人々に知らしめるのが至
福らしいです。
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甘い話
ずいぶん昔、といっても数年前、「カヌレ」という西洋菓子が流行ったことがある。
いまや定番化した菓子だが、正しくは「カヌレ・ド・ボルドー(Canele de Bordeaux)」という。「カヌレ」とはフ
ランス語の「溝を入れる(カヌレ cannele)」からきている。1515年にフランスのボルドー地方の修道院で
作られたのが始まりであり、蜜をつけて焼いたマフィン型のケーキを総じてこう云うようになった。
では、なぜ修道院で作られるようになったのか。修道院では祭祀に使用する蝋燭を自弁するため、養
蜂が盛んに行なわれていた。蜜蝋をとってしまった後の副産物として生まれる蜂蜜は生産性のない修道
院のよき収入源であった。その蜜を利用した菓子が生まれるのも必然であったといえよう。
しかし1700年、フランス革命により修道院は閉鎖が決定され、ジロンド派の本貫地であるボルドーでも
次々と消えていった。これと共に「カヌレ」も幻の菓子となっていった。1830年ごろ、とある職人が文献か
らこの菓子の存在を発見。再現を試み見事復活を果たした。
一説にはイギリスのマフィンがこの原型であるといわれ、英仏百年戦争の置き土産だとも云われる。
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女の気概
横浜にあった遊郭「岩亀楼」。ここの妓芸「亀遊」がある日アメリカ人の客をとらねばならなくなった。楼
主には「少し待ってもらいたい」といい、自室に戻ると、
露をだに いとふ大和の女郎花 降るあめりかに袖はぬらさじ
と書き残し喉を掻き切って自害した。
この話を聞いた京都四条画壇の上村松園は、女性の意志の強さ、毅然たる態度に共感を覚えこれを
画題とした「妓芸亀遊」を描いた。これが京都岡崎美術館で開かれた新古美術品展で四等を受賞。大々
的に宣伝された。しかし、心無い見学者がこの作品に墨で「へのへのもへの」と大書きする事件が起こっ
た。当時は女性の権利がまだ認められていない封建的な社会状況で、松園に対する「女だてらに絵を描
く」という偏見、また妓芸を讃歌するとは何事という声に触発されての暴走であったとみられている。
ところが松園は、この絵を落書きも消さず、会期いっぱい飾り続けたのである。もしこれで絵を引っ込
めたとならば、社会の声に屈したことになる。松園はこれをよしとはしなかったのである。
松園の描く女性には今の女性にはない色香と「女性的」な形がある。それでいて媚びることのない凛と
した気概があるのだ。
松園は女性初の文化勲章受章者となっている。
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釘。
薬師寺が創建当時の姿を復活させた。この再建を見えないところで、しかししっかりと支えていた人物
がいる。野鍛冶の白鷹幸伯氏である。
幸伯氏はこの再建で使用された和釘一切を一人で打ったのである。その数なんと6900本。この釘、た
だの釘ではない。
木材に節があったとしよう。現代の釘はここにぶつかると、一分たりとも進まなくなるか節を割って進
み、部材を傷めてしまう。ところが幸伯氏の釘は節にぶつかると、これを巻き込むように回避をして進む
のである。ちょうど川の中にある岩を水の流れが舐めて回るように。
この不思議な釘のひみつは成分にある。鉄に何%炭素を混ぜるかによって硬過ぎず、しなやかで強い
釘ができるのだという。その量0.0〜1.0%のあいだ。まったく入れないとやわらかすぎて打てないが、1.
0%入れてしまうと硬くなりすぎ節に沿って曲がらないという。(定かではないがその割合を0.685%といっ
ていた)鉄も今の硫黄分を含んだものでなく、玉鋼を使うという。
そして形。釘だからといって先が尖っていればよいのではない。半ばまでは寸胴、その先にゆき細くな
っていくのだが、先端から三分の一ほどのところがわずかに膨らんでいる。こうすることで抜けにくい釘に
なるという。すでに桃山時代には廃れてしまった技術だが、「天平和釘」を復元するには避けて通れない
細工であった。
この釘をいま文科省は1本700円で買っているらしい。安いと見るか高いと見るか、日本の文化レベル
が問われる。
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あれ、なんて名前?
なぞの白装束。電磁波を防ぐあのグルグルのマークを見ていてどっかで見たな〜、と思っていたら思い
出した。
「そういや、Coccoの出した最後のアルバムジャケットに似ているな。」
「Cocco」のアルファベットを同心円状に並べたマークに。
そう思いつつ意識は他へ。
「あの目の検査する『C』ってなんていうんだろ?」
調べてみると出てきましたよ。『ランドルト環』。
ランドルトはフランス人。スレネンの提唱した視力の法則(『五分一分の法則』といいますが、説明が面
倒なので割愛)から、1888年、5メートル離れた位置から直径が7.5ミリ、すきまが直径の5分の1の1.5ミリ
の環が見えたら視力1.0と視力の基準を作ったんですね。5メートルから半分の2.5メートルに近づくと見え
る人は半分の0.5。1.5倍(7.5m)後ろにさがって見える場合は1.5としたんです。
ちなみに人間の視力の限界は4.0ほど。これも環境によって8.0ぐらいまでなら、いてもおかしくないとい
いますけどね。『千里眼』っていうと千里が約3600km=3,600,000m。上の計算からいうと視力72,000(!?)。
なんのこっちゃ?
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なぞかけ
ふたつもじ うしのつのもじ すぐなもじ ゆがみもじとぞ きみがおぼゆる
なんだかもじもじしていて歯痒くなってしまうが、本当はなんともストレートな歌。
『徒然草 六二段』にあるこの歌、延政門院(歌の頃は悦子内親王といった)が幼少のみきり、なかなか
に会うことのできない父、後嵯峨天皇に贈った歌なのだ。
初句「ふたつもじ」は二本横線を引いて「こ」。「うしのつのもじ」は角の形に孤を二つ書いて「い」。「すぐ
なもじ」はまっすぐ縦線を引いて「し」。「ゆがみもじ」は縦線を一つおりにしてゆがませて「く」。つまり「恋し
く」君(後嵯峨天皇)が思えます、となんともかわいらしいなぞかけなのだ。
だが、「恋しく」ならば正しくは「こひしく」と書かなければならない。当時はまだ用法が崩れ始めていない
から、「うしのつのもじ」は「ひ」であろう。えっ、牛の角に見えない?なら「ひ」の下のほうを牛の顔、両脇
に張ったところを角に見立ててみたらどうです?牛に見えなくもないでしょ?
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「後」の天皇
天皇の贈号。よく「後〜天皇」という号を見る。「嵯峨天皇」がいるから「後嵯峨天皇」がいる。でも「西天
皇」がいないのに「後西天皇」はいるよなぁ。
「後〜天皇」と呼び始めたのは「後一条天皇」が最初。ラストの「後桃園天皇」まで26名(北朝を含めると
28名)が「後〜」と贈号されている。しかし「後」をとっても他の天皇の贈号にならない天皇が6名いる。後
柏原天皇、後奈良天皇、後西天皇、後深草天皇、後水尾天皇、後小松天皇である。
実は贈号は一天皇に一つではなく、愛称的に使用されるものもある。あるいは時代により呼ばれ方が
違っていたりもするので、現在の呼称とは隔たりがあることもある。これに照らしてもう一度調べてみる
と、
柏原天皇=桓武天皇 ⇒ 後柏原天皇
奈良天皇=平城天皇 ⇒ 後奈良天皇
西天皇 =淳和天皇 ⇒ 後西天皇
深草天皇=仁明天皇 ⇒ 後深草天皇
水尾天皇=清和天皇 ⇒ 後水尾天皇
小松天皇=光孝天皇 ⇒ 後小松天皇
とこうなった。まあ、どうでもいいっちゃいいことですけど。
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百万石でも大丈夫
加賀前田家は百万石、実勢でいけば百三十三万石の大大名である。この大国を利家の四男、三代目
藩主利常(1593-1658)はとんでもないもので支えた。
利常は江戸城でも有名な「腑抜け」であった。だらしない身なり、ずるずると裾をずって歩き、合わせも
肌蹴てみるからに足りない様子である。そして何より目立つのが「鼻毛」。並の伸ばし様ではなく、髭と見
まごうばかり。家臣たちはこれは何とかしなくてはと、わざと利常のまえで鼻毛の話をしたり、毛抜きを贈
ったりしたが、一向気づかない。
ところがある日家臣を前にこう切り出した。
「そちたちがわしのこの鼻毛を気にしておるのはよく知っておる。前田は百万石を預かる太守の家。こち
らにその気なくとも、幕府はあらぬ疑いを持つかも知れぬ。だが、わしのこの形を見たときどう思う。『鼻
毛すら満足に抜けぬ太守に何ができよう。またその主に仕える家臣も押して知るべし。』この鼻毛のおか
げで百万石は支えられ、そちらは家臣でいられるのだ。」
事実、秀忠の死後謀反を疑われたこともあったが、罪を問われることはなかった。腑抜けを演じ続けな
がら内政の充実を図った利常は名君の誉れ高い。利常は死ぬまで鼻毛は伸ばしっぱなしだったとか。
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今川焼のはなし
たこが入っているから「たこ焼き」。鯛の形をしているから「たいやき」。好きなものを入れるから「お好
み焼き」。じゃあ「今川焼き」は?今川入ってないよ。
これ東京神田は今川町の菓子屋がはじめて作ったんで、「今川焼」。ところによっちゃ「桶狭間で織田
信長に敗れた今川義元が好物だったから」なんて云っているところもあるが、それは嘘。でも義元にまん
ざら縁のない名前でもない。
この今川町、統廃合で地名は消滅してしまったが、もとは今川橋という橋のたもとの町であるためこう
名付けられた。江戸も初頭、この地域の名主の今川某は「川を渡るのに不便」だと、私財を投じて橋を架
けた。住民は大変喜んでこの橋を「今川橋」と呼ぶようになった。名主今川某こそ、義元の子、氏真の孫
であったという。今川焼ができたのは1800年頃というから、そんなのは知らないで名付けているでしょう
が。
もとの今川町には今川橋はおろか川すらなく、唯一「今川橋交差点」にその名残をとどめているだけに
なってしまった。
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